第十六章:9
「どうして彼を殺さなかったのですか」
麗花はふと気になって、そう問いかけた。
「どうした、藪から棒に」
「いえ、そのままの意味です。《東辺》界隈はもとより、《南辺》や《西辺》の監察官やそれらしい人間はことごとく手に掛けてきたというのに。彼一人だけ命を助けることには理解が出来ません。あのときも」
クロードがこちらに振り向き、首を振っている。もう続けられないということなのだろう。一旦麗花はうなずき、そしてまた皇帝に向き直る。
「あのときも、始末するはずでした。速やかに彼を処分するはずが、あなたは急に命令を変更されました。そのせいで、民生用とはいえセルを使う羽目に」
「知りたいか? どうしてもっていうなら、教えてやらんでもないが」
成海を実質上統べるこの男は、時折つかみ所がないところある。知りたいのかと聞いておいて、むしろ麗花が是非にと食いついてくるのを待ちかまえている節がある。麗花が黙っていると、皇帝は少しだけ残念そうな顔になった。
「まあお前になら、教えておく必要があるかもしれん。といっても、大したことじゃないんだが」
と前置き、
「プロトタイプに、会ってきた」
「『黄龍』の、ですか」
「そうだ。現在の個人名はレイチェル・リー、初期ロットモデルだ。いわばお前の先輩にあたる。八卦掌や太極拳、内家拳をインプットしたタイプだな」
「それは、分かりますけれども。それがあの男と関係があるのですか?」
「まあ聞け。直接の関係はないだろうがな、ちょっと気になることがあって」
「気になることとは」
皇帝は、ちょっともったいぶるように人差し指を立てた。
「あの初期ロットがどうしてこんな街の、ギャングの長になっていると思う?」
「逃げ出した個体がいたと、そのように聞いています。かつてプロトタイプの中でただ一体、脱走したものがいる。その一体がそうなのでしょう」
「半分は、正解だが。逃げ出したのは奴一人ではない」
「確かにあの施設からは、インプラントモデルも逃げ出したとは聞いていますが……」
気を失ったままの省吾を、黒服たちが担ぎ上げて退出する。クロードが部屋を出ると、室内が暗転した。
「あの『千里眼』も、そうなのでしょう。あそこから逃げて――」
「マインド・セットと違って、埋め込みしたガキなんてのはあの施設だけじゃなくて世界中にいる。和馬雪久がそうとは限らんさ。さて肝心なのはここからだが、どうして奴が逃げ出すことが出来たかだ」
「当時の警備体制がずさんだったからと聞いております。警備システムを破壊されて、兵たちを打ちのめして」
「そこまでは正解。違うのは、実はその時逃げた個体はもう一人いるということだ」
皇帝は、教え諭すかのような口調である。
「逃げたのは、ニ体だ。拳法を操るタイプだが、そのうち一体の行方は知れた。台湾、そして今は成海にいる『飛天夜叉』、ただもう一体となればどこにいるのか分からない。だがあの男、真田 省吾の剣術、体術に、そのもう一体と同じものを感じる」
「同じとは」
「一心無蓋流、というらしい。奴に関する、《南辺》での噂を集めたところ、あいつが使う体術がそういう名前だった」
「柔術拳法の流派でしょうか、あまり聞いたことはありませんが」
「だろうな。伝統武術には、そんな流派は存在しない。だが、一心無蓋流という武術にはオリジナルが存在する」
今度こそ、麗花は驚きを露わにした。
「それは――」
「戦争が始まる随分前のことだ。大陸に落ち延びてきた、ある日本人の一派が自らを一心無蓋流を名乗っていた。裏社会で名をあげたそいつの術を体系化したものを、プロトタイプに植え付けたのだよ」
「なぜそのような名の知れない武術を」
「奴らの使う武術は、近接戦闘には絶大な威力を発揮した。奴らの術理は事実、当時の日本の軍隊格闘術にも取り入れられていたほどだ。我々はその術理に注目し、大陸の大陸の拳法に加えて、一心無蓋流を戦闘プログラムに取り入れた。それがお前につながるプロトタイプだ。そして当時の兵たちを打ちのめしたのも、その一心無蓋流を備えたモデルだった」
一旦、皇帝は話を切った。それによって麗花の反応を確かめるかのように。
「つまり、その一心無蓋流とやらを扱うから、真田省吾はプロトタイプと関わりがあると?」
「オリジナルを伝えた武術家たちは、今は生きていない。つまり、真田省吾はプロトタイプの方と接触があると考えた。そして、お前を見たときのあの反応、確定的だ」
「見ていたのですか」
あの場にはクロード以外に誰もいないはずだったが、ここは皇帝の庭場。どこで監視していようと不思議はない。
「お前の顔を見て、誰かと間違えたというのなら、その誰かは逃げ出した一体だと見て間違いない」
そこまで話されれば、いくら何でももう分かる。真田省吾が国連の犬ならば、真田省吾に武を教えた人間も国連の関係だろう。ならばそのプロトタイプは、国連にいるかもしれない。
「連中がこの成海に、監察官を派遣したのも、そういうことなのですか? ここの存在に気づいているということでしょうか」
「さあ、そいつはどうかな。何せ、監察官という存在自体がつい最近まで謎だったからな。国連の中で、どういう連中が動いているのか分からない。少なくとも特区の総督府とは関わりのない署だろうが」
そのとき背後の扉が開いた。クロードが入ってくるのに、一時会話は中断される。クロードは気むずかしい顔をして、タブレット端末をにらみながら歩いてきた。
「ご苦労だな、クロード」
皇帝が声をかけると、クロードはやっとそれに気づいたかのように顔を上げた。
「ご苦労と言っても、成果は何も無しだ。あの男、なかなかに口が堅い」
「そりゃ、すぐに口を割る奴が、こんな潜入なんてやったりはしない。それに成果ならあるだろう、セルの強化実験という成果が」
そこで初めて、麗花はクロードの持つタブレットの画面を見ることが出来た。数式と文字列、すべてを見て取ることは出来ないものの、民生セルの強度を測る数値だけは分かった。
「で、どうなんだ。医療用は」
「どう、といっても。修復のスピードは軍用に遙かに及ばない、埋め込まれた箇所によっては完全修復が出来ないこともある。何せデータがこれだけでは何とも」
「そんなことを言って、存外に楽しんでいたんじゃないのか? なかなか面白いものを持っているが、あれはお前の趣味か? クロード」
「あれは実験用に、特別に作らせたものだ。ほかにも指を潰したり爪をはがしたり、その程度のものでしかない。あんなもの、ギャングの拷問の方がよっぽど過酷だ」
それでも、中世の拷問器具など揃えているギャングはいないだろう。あの手の懲りようは、単なる実験だけとは言えない気がする。
「で、いつまで続けるんだ? あの男、本当に知らないだけかもしれない」
「まあ、もう少し様子を見よう。実験体としては使える、お前もまだまだ楽しみたかろう?」
クロードは、薄ら笑いを浮かべた。
「壊さない程度には」
その顔に、麗花は少しだけ嫌悪感をかき立てられるが、クロードはそれ以上何かを言うことはなくさっさと部屋を後にしてしまった。皇帝は再び麗花に向き直るのに、麗花は問いかけた。
「生かしておく、意味などあるのでしょうか」
「疵面のことを言っているのか?」
「ええ、あの男。真田省吾が、いかに私の原型、プロトタイプとつながりがあるからといって、所詮は監察官。背後関係などなにも分からないでしょう、これからも」
「もちろん、意味がなければすぐに殺せるさ。それはいつだって出来る。それに、国連の動きもあわせて、連中の動きも少し気になるところだからな。あいつを捕らえてどう動くか」
「連中、と言いますと」
麗花の質問に、ますます皇帝は愉悦そうに唇をゆがめた。
「決まっている。西と南のギャングども、『千里眼』と『飛天夜叉』がどう出るか、だよ」