第十六章:3
《西辺》の、一番はずれの河。そこに架かる橋に、ヒューイ・ブラッドの首が掲げられた。
最初に発見したのはインド難民の少年で、そこから噂が広まるのは早かった。
その首は最初、誰のものか分からなかったらしい――無理もないことだ。荒縄を右の眼窩から口まで通し、首自体も引き裂かれたようになって損傷が激しく、知らぬものが見れば誰のものか分からない。縄で吊され、半日以上晒され、ようやく地元のギャングが首の主の名を口にしたのだった。
ヒューイ・ブラッドが死んだ!
それほど大きな衝撃だった。《西辺》のギャングたちがまたぞろ騒ぎ始めるのも、無理からぬ話だった。『黄龍』の終焉か、あるいはレイチェル・リーの帰還か、寝返ったギャングはどうなるのか――。
おそらくここ数日の間は揺れるだろう、この《西辺》も。ヒューイをやればそれで良し、というわけではない。
「すでに寝返ったものは《西辺》全体に散りました」
扈蝶からの報告を、雪久は《南辺》の『OROCHI』のアジトで聞く。孔飛慈をやってから後、イ・ヨウが西へ移動するのと同時に本部に戻り、彰たちの戻りを待っていた。ディエン・ジンらには負傷者の搬送、死亡者の埋葬を任せ、ユジンにはそのまま待機を命じてあった。
「残党は、私服と黒服あわせて、組織全体の半数以上にはなると思われます。ヒューイに非協力的で追放された構成員たちが集結してはいますが……」
「しばらくは帰れないね、《西辺》には」
そのレイチェルたちは西を抜け出し、目立たないようにいくつかの車に分乗して帰還した。さすがにそのまま西に留まるわけにもゆかなかったらしい。彰と一緒に帰還した後、傷の手当てもそこそこにミーティングルームに直行し、雪久と対面した。他の者たちは彰が集めて、広間で戦果の報告をしている。ヒューイを殺した、だがその後の乱入者のことまで、すべて。
「まあ当初の目的は果たしたのだから、それで良しとするって考え方も、なくはないけど」
レイチェルはしきり包帯を巻いた脚を押さえている。傷を負ったのならば負ったのだとそれらしくしていれば良いと思うのだが、雪久も人のことはいえない。頭の左側、眼の奥から痛みが響いて、眼帯越しに左目――『千里眼』を押さえているのだから。
「随分と手ひどいじゃないか、『千里眼』」
雪久の右手側にどういうわけか金が陣取っている。《北辺》に消えたこの男、壊された脚に機械をくっつけて、傷もほとんど負わず、疲労の色は見えない。なんだか横から入ってきて勝ちに便乗したかのように見えなくもない。
「こっちは機械どもとやりあったからな。のんびり《北辺》見物してた奴とは違う」
「その物言いはねえだろう。こっちだって苦労したんだからよ、飢えかけて死にかけて」
「嘘付け、ぴんぴんしてるじゃんか。だいたいなんだその脚、どうしてそんなものが北なんぞで手に入る」
「こいつは民生用だ」
金は右足を掲げて、足首を折り曲げてみせる。赤銅色の義足がモーターの音を奏でた。
「軍事用じゃなければ、手に入れるのはそんなに難しくないらしい。といっても南や西でもまだそんなに出回っていないだろうし、手に入れたとしてもくっつける技師も乏しいだろうが」
「あと、気になるのはあの装甲車」
と、今度は扈蝶が言う。
「あれも北で手に入れたとおっしゃいましたが、そもそもあれは連合軍の車両ではありませんか。義足はともかく、完全な兵器が手に入るような場所とは思えません」
「《北辺》って場所は」
金はそういって身を乗り出した。
「確かに何もない、一見するとな。バラックが立ち並んで、くそにまみれた場所で、そこにいる連中皆くそみたいな生活を強いられている」
「だったら――」
「いやいや、それでも行くとこに行けばなかなかにあそこは抜け道だらけだ」
金は一服入れたい、と断りを入れてからタバコに火をつけた。うまそうに吸い込み、しみじみと煙を吐き出した。タバコを口にするのも相当久しぶりであるといった風だった。
「最初の目的は、あの辺に巣食ってる勢力に頼みにいくはずだった。ところがその勢力も、いざ北に行ってみてもどこにいるのか全くつかめない。よほど深く地下に潜っているのか、ともかく収穫がないままだったからな。そうこうしているうちにトラブルに巻き込まれちまって、連絡どころじゃなくなって。だから連中に頼むことは出来なかったが、少しだけ輪郭は見えたぜ」
「いちいちもったいぶるなっての。何だってんだそいつらは」
「雪久、あまり苛つくな」
レイチェルがたしなめる。
「結論を急ぎすぎるのはお前の悪い癖だ」
「いやでも」
言い掛けて雪久は口をつぐんだ。
「で、何なんだ」
「ん、まあ要するに。あそこにいる連中というのがだ。ギャングとはまた違うようで、成海が出来る前、戦争前からそこにいた奴ららしい」
「ということは『マフィア』と同じ系列の?」
扈蝶が食いつく。成海に巣食う古参のマフィアならば、そもそもが味方になどなるはずもない。だが金は首を振った。
「それも違う。どうも異民族系らしい、というか日本人らしい。お前と同じだよ、『千里眼』」
「何でそんなところに日本人が」
同じ、などと言われてもぴんとこない。というより、同じ民族だとか同郷人だとか言われても、余人が感じるような同族意識とか親近感とか、そういうものが沸いたことがない。それは彰に対しても省吾に対してもそうだった。分類上は日本人ということになっているが、別に日本で生まれたわけでもないのだから。
「何でか、というのはやはり会うことがなかったから知らない。ただそれなりの組織ではあるみたいだ。この脚と、あの装甲車を流通させるぐらいには」
金が加えるタバコがかなり短くなった。名残惜しそうにそれを投げ捨ててから口を開く。
「ああいう兵器のたぐいというのは、部品部品で取り寄せたりするらしい。装甲車まるまる一台ってんじゃないから、監視の目もくぐりやすい。手に入らないパーツは、民間車を改造したりして作って」
「そんなことが出来るのか、あの《北辺》で」
レイチェル・リーは幾分、というよりもかなり不満そうだった。“シルクロード”を用いずして、武器兵器を仕入れられる場所があるなどとは、レイチェルにしてみれば面白くもない話だろう。
「だから常識なんて通じねえんだ、そこは。何もない場所、といえば確かに何もない場所だけど。探せば思わぬ掘り出し物も出てくる。あそこは不思議なところだな」
「不思議と言っても、所詮は北だろうに。負け犬の土地だ」
雪久が言うと、金はいたずらめいた表情になった。
「ん、そうか。まあ確かに負け犬かもな。でもあそこにいる間に面白い噂を聞いたぜ」
「何が」
「あの辺の勢力に身を寄せている奴がいる。凄腕の空手使いみたいだが」
空手と日本語で発する辺り、何か含みがあるようだった。実際それは功を奏した。雪久とレイチェルを同時に振り向かせるぐらいには。
「南から流れてきたんだと。ここの、顔のところに墨入れてる奴で、仲間ひきつれて北に居座っている。知ってんだろ? 青豹どもの突撃隊の長」
雪久は数か月前、死闘を演じたであろう男の顔を思い浮かべる。《南辺》を総べていた青ずくめギャングどもの特別部隊を率いていた男。その2年前には彰と共に、この街に辿り着いた男。レイチェル・リーと同じく『黄龍』の客分ともなっていた時期もあった。
(梁――)
そして宮元舞の兄でもある。あのあと、『BLUE PANTHER』たちを壊滅させた後、どこぞへと消えた宮元梁。
「負け犬っていうなら、確かに『牙』も負け犬だな。ギャングの下っ端だったのをお前らにツブされて、すごすご引き下がったのが《北辺》ならあそこは――」
金は、そこで黙った。その先を喋ることが出来なかった。
雪久の右手には刃が握られている――剣だ。長い剣穂のついた中華拵えの剣。立ち上がり、抜き放ち、それを金の喉に突きつけるまでの挙動はほんの1秒足らずだった。
「それ以上、調子こいたら」
雪久がうなる。金は両掌を上げて、その隣で扈蝶が抜刀の姿勢を取る。レイチェルだけが反応もせず、黙っていた。
「掻っ切るぞ、喉。それじゃなきゃ取り消せ、今の言葉」
「どうしたんだよ、その剣」
「どうでもいい、というか取り消すのか取り消さないのか」
「分かった分かった、取り消すからその物騒なの下げてくれよ。危なくてしょうがない」
金が言うと、雪久は剣を納めた。それを見て、扈蝶はサーベルの柄から手を離して胸をなでおろす。
「全く、蛇をからかうもんじゃないな。いつ噛みつかれるか分かったもんじゃない……」
金は薄笑いを浮かべて肩をすくめて見せる。
「でだ、その噂が本当ならば、青豹どもが飼っていた凶暴部隊がまるまる一個、その北の勢力とやらについていることになる。今のところ動きはないが、それは多分『マフィア』を警戒してのことだろうな」
「その、『マフィア』だが」
レイチェルが口を開いた。
「おそらく私たち――あと、雪久たちのところに乱入してきた連中、『マフィア』とみて間違いないだろう」
「そう言い切れるかい?」
金は喉の下を気にしながら言った。
「言いきれる。ヒューイのバックに《東辺》の連中がいたことは明白なんだ。あの男も、それを認めていた」
「あの男って」
「邪魔しに来た奴だよ。あんたのところにも来たんじゃないのか? 雪久」
「俺が見たのは」
雪久は、その時のことを思いだしていた。
「女だった。孔飛慈にとどめ刺そうとしたら、いきなり来て、横取りされた」
「どんな奴だ」
「面隠していたからな。ただ薙刀使っていたんだが、あれは相当な使い手だ」
レイチェルはふうっと溜息をついた。
「私と、雪久と、あと扈蝶と金のところにも乱入。そして孔翔虎と孔飛慈の躯は持ち去られた、と」
「躯と」
雪久はレイチェルの言葉を切った。
「省吾だ」
隣で扈蝶が顔を伏せるのが目に見えたが、それに構わず雪久は続ける。
「あの男、せっかく駆けつけたはいいけど、孔翔虎を倒したと同時に襲撃にあった。ヨシが殺され、省吾はユジンを逃がすためにそこに残った――で、目下のところ行方不明中」
「あいつ何かあるたびに拉致られてんな」
「そうだな、拉致したのはきっと朝鮮人だろうな」
雪久が軽口交じりに言うに、金の顔が険しくなった。一気に険悪になった空気を振り払うように、扈蝶が割って入る。
「あ、あのっあのっ」
かなりたどたどしくはあったが。
「真田さんは、それでどうするのですか? 捜索は……」
「死んでる、と見た方がいい」
レイチェルは何のためらいもなくそう口にした。扈蝶が何か、打ちひしがれたような顔になる。
「普通に考えると、そうだろうな」
雪久が同意すると、扈蝶の顔がますます暗くなった。
「それは、分からないのでは……」
「俺は現場を見たが、残っていた血の量からして生きていられるとは思えない。よしんば生きて捕えられたとしても、行きつく先は《東辺》だ。まあ強引に取り返す、としても――」
「意味はないだろう」
レイチェルはどこまでも冷徹だ。
「あの男が生きている可能性は、限りなくゼロだ」
扈蝶はそれで押し黙った。金はなぜか、そんな扈蝶の様子をにやけ面で眺めている。
「ともかく、西の連中、『黄龍』の残党どもが騒ぐかもしれない。《南辺》にも黒服私服が散らばってるし、そっちをどうするかが問題だ。今は、東や北に構っている暇なんて無い」
「確かにな、そうだが」
レイチェルが言うのに、雪久は一度同意し、しかし。
「そのうち無視もできなくなるだろうけどよ」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。