第十六章:2
女の顔を見た瞬間に、凍りついた。
かつて焼け野原で、出会った女だった。かつて省吾に武器を取らせたときの、涙を流すなと命じたときの、追いかける機械たちから省吾を逃がそうとしたときの、険しさを湛えた面差しが光の元にあった。
ずっと長い間、追い求めたものだ。懐かしさ故に、何度も想起していたものだ。
「せん……せえ?」
回らない舌先で、久方ぶりにその言葉を口にした。どれほど聞いても本名を教えてはもらえず、仕方なしに省吾は師のことをそう呼んでいたのだ。何のひねりもなしにただ先生、と。その師が今、目の前にいる。
「せんっ……」
身を乗り出した。がすぐに、体を拘束するベルトによってまた強引にベッドに引き戻される。
「何、いきなり」
省吾が飛び出すものだから、女は怪訝そうに顔をしかめ、クロードは驚いたように目を丸くした。
「まだ動けないのでは?」
「そのはずだが、麻酔の効きが足りなかったようだな。心拍数もかなり跳ね上がったが、今のはどういうことだね?」
クロードが戸惑うような声音でもって訊いてくる。
「知り合いか? 真田省吾。お前さんはこの女を知っているとでも?」
知っているどころではない。かつて省吾に武術を叩き込み、生きるための術を教えた師の姿そのものだ。忘れようにも忘れられないたたずまい、面、こころなしかまとう雰囲気も師そのものに見える。
だが、先生にしては見た目の年齢が若すぎる気もした。実年齢を教えてもらったときはないが、少なく見積もっても二〇代後半ではあったはずだ。今、目の前にいる女は、まだ一〇代ではないかというほど若い。
「私は知らない、けど」
女はすいと目をすがめ、まるで品定めでもするかのような目つきになる。はかりかねている、省吾の意図を。そんな風情で。
「他人のそら似か? 誰かと間違えたようだね、真田省吾」
そういって、師によく似た女は馬鹿にしたように鼻先で笑った。そんな仕草まで、あきれるほどよく似ている。覚え立ての技を組み手のときに繰り出すと必ずと言っていいほど返される。意気揚々とかけたはいいが全部失敗に終わる、そんなときに先生は挑発じみた笑い方をするのだ。
――貴様は誰だ。
今一度、同じ問いを繰り返す。女は言った。
「少なくともあなたが探し求めている人間ではないよ。私は、ここでは麗花と呼ばれている。あなたは日本難民だろうけど、私は日本人ではない。第一、私は難民でもない。だからあなたの知っている人間とは別人よ」
確かに似ているというだけで、本人とは限らない。かつて同じようなことがあった。西の雄、レイチェル・リーがあまりにも師にそっくりだったのを思い出す。
だがこれほど似ている人間に、短期間で二人も出会うとは――。
「私に似ているという女は、恋人か何か? だったらもう諦めたほうが良い。この街で生き別れたら、二度とは会えないから。まして、あなたの故郷で別れたのならば、追すがるだけ無駄なこと。新たな人生を、と言いたいところだけどそれも無理ね、真田省吾。一介のギャングであるならばまだ見逃せたものを。一度素性を知ってしまえば」
――俺をどうするつもりだ。
信号による意志疎通は動揺する気持ちを気取られることがないな、などと思いながら瞬きをする。
――なぜ俺を殺さない。
「殺される自覚はあったわけね」
麗花なる女はますます視線を鋭くさせる。
「以前から、あなたのような監察官がこの街で何をするのか、どういう動きをしているのか。逐一監視していた。けれどこちらの都合もあって、あなたをのぞく監察官がことごとく死に、最後に残ったあなたを殺してしまえば、あなたたちの雇い主につながる手がかりはなくなってしまう。だから、今は殺さないと判断したまで。慈悲や気まぐれではない、そこは勘違いしないように」
もちろん勘違いなどする気は毛頭ない。ないが、それにしても妙ではあった。
――ハナから殺す気できていたのでは。
「それについては、ちょっと計算違いがあってね。あなたを適当に痛みつけてから生け捕りにするつもりだった。けど、思いの外やりすぎてしまって、あなたは死ぬ寸前だった。仕方なくあなたの体を修復する必要があった――その経緯はクロード、説明して」
「ああ、つまりあんたの体は」
クロードが発するのに、省吾は首だけそちらに傾ける。クロードは二十センチ四方のタブレットを持って画面を触りながら言った。
「損壊が激しすぎた。内臓の三割が引きちぎれて、出血量は致死レベルにまで達して。だから我々はまず君を医療カプセルにいれて搬送し、そこで君の体にあるものを埋め込んだ」
――あるもの?
瞬きを読みとる機械はご丁寧に省吾の顔の向きにあわせて動いてくれている。だから省吾も遠慮なく、モールス信号で訊いた。
「詳しいことは省くが、君の破壊された生体組織を修復するものだ。聞いたことはないか? 細胞には自己組織化する機能が備わっていて、損壊した部分を修復することが出来る。だが人体のごとく複雑な作りであれば、せいぜい指の爪の先ぐらいしか修復できない。そこで、その機能を向上させるためのものだ」
クロードは一息いれてさらに言った。
「君の体には今、人工の塩基を組み合わせたDNAマシン、そのDNAボットで構成される細胞大の機械が入っている。そいつが遺伝情報に則って組織を再生させている。今はその状態だ。君の体には億単位の微小金属を埋め込み、それらが組織化をしている」
――俺の体に機械を入れたというのか。
「緊急の措置だよ。それに機械といっても孔翔虎のようなものを想像されても困る。この機械――セルと我々は呼んでいるが、つまりはナノマシンだが、これは医療現場でも使われているものだ」
クロードはタブレットから目を離して、省吾の顔をのぞき込んだ。
「セルは細胞の代替物だ。本家本元の細胞が遺伝情報にもと付いてタンパク質を生成する機械であるならば、セルは金属を合成する。ここでいう金属は非鉄金属で、セラミックの同素体でもある。埋め込んだ場所からセルが金属を生成し、金属分子は与えられたプログラムに基づいて回路を形成する。あるいは分子同士が結合して組織を作る。プログラムは本人の遺伝情報がベースになっているが、今回は緊急だからな、外部からセルに情報を与えることにした。お前さんの体についている電極はそのためのものだ――アルゴリズムを走らせてお前の組織にあうように、分子を結合させる」
――妙なものを。
「そうは言うが、お前さん。これを埋め込むのは、実は初めてではないだろう。以前にも埋め込まれた形跡があった。胸骨に金属分子の結合が見られた」
以前とは。クロードが見据えてくるのに、省吾は目をそらし、その以前とやらの記憶を探ってみる。当然、そんな覚えはない。そのセルとやらの存在も、たった今聞かされたばかりなのだから。
いや、覚えならある――ふと脳裏をよぎった。あのとき省吾は回復不能なほどの怪我を負ったのではないのか? 最初に孔翔虎と手を合わせたとき、両腕を損壊し、胸に打ち込まれたにも関わらず、なぜか省吾は回復していた。あの女、ハンドラーの女――あいつが治したんだ、俺の体を。まさかそのときに――
「少なくとも全く知らぬというわけではなさそうだな、その様子では」
クロードはパッドの画面を指でなぞりながらいった。
「ただ、どうしてそれが君の体にあったのかは疑問だな。それは後で追求するとして……傷の具合だが」
それは省吾も気になるところだった。今この状態がいつまで続くのかが問題だ。セルとやらが以前にも埋め込まれたのかどうかは別として。
「体組織は直に回復する。ただし、君に埋め込んだセルは医療用ではあるが古いタイプのものだ。完全に動けるようになるには、少しリハビリが必要になるかもしれないが」
「リハビリより前に」
麗花が割って入った。省吾のベッド脇に移動して、見下ろしてくる。
整った顔だと思った。単に、端正であるとかではない、ほとんど作り物めいてさえいる。シャープな顎のライン、切れ長の目が人形めいて、きめ細かな肌は病的なまでに真っ白だ。美しいがそれは精巧に削り出された像であり、計算され尽くされた美しさだ。同じような顔だちなのに、どうして先生とは違うのだろうか――あの人は少なくとも、生者のにおいが感じられた。
「あなたの背後関係をはいてもらうことになる。そのために生かしたのだから」
この女は、本当に生きているのか。そんな印象だ。冷たい、鉄みたいな表情で。
――殺せ。
ただし、そんな印象などどうでも良いことだ。この女が先生ではない、それだけ分かれば。
――その覚悟は出来ている。
「しつこい男だね。殺すつもりならばとっくに殺しているし、貴重なナノマシンなんて使わない。生かして捕らえたのならばそれなりに役だってもらわなければ、あなたにも。あと」
そこまでいって麗花は、いきなり省吾の口の中に指をつっこんだ。舌をかみ切ろうとした省吾の、口を無理矢理開く。
「自殺はさせないから。少なくともすべて吐いてもらうまではね。」
もっとも、舌をかみ切ろうにもほとんど力が入らなかったのだが――
「死のうとしたって私たちはすぐに治す。あなた一人が何かしようとしたって、ここではすぐに措置がとれるから、無駄なことだって知るべき。あと舌なんか噛んでも、そうそう死ねないよ。何の本で読んだか知らないけど」
省吾にその意志がないと悟ると麗花は指を引き抜いた。唾液が糸をひくのに、麗花は毛布の端でそれをふき取った。
「回復まで時間はどれくらい? クロード」
「ん、ああ」
一連のやりとりをぼんやりと眺めていたクロードが、再びパッドに目をやる。
「あと三日もあればいいだろう」
「じゃあ三日後、私に引き渡して頂戴。上には話を通してあるから、いたぶっても簡単に壊れない程度にはしてね」
「それはこの男のタフさ次第だな」
クロードが言うと、麗花は背を向けた。
「簡単に、音を上げないでね。張り合いがないから」
そう言い残し、立ち去る麗花を見送る。扉が閉まるとともに、省吾は目を閉じた。