第十六章:1
涙はこれきりにしておけと、彼女は言ったのだった。いずれ泣くこともできなくなるのだからと。
それを聞いたのは、墓の前、戦いの後。泣きじゃくる彼を、慰めや情けをかけることを無意味と看破する、彼女の言葉だった。
「お前が生きていくのは、否が応でもそういう時代だよ、省吾」
焼けた故郷にいた。爆撃で消え去った町。消し炭と土くれの平野に崩れ落ちた構造体の支えが申し訳程度に突き出て、そんな柱か鉄杭の骨組みが墓標みたく、ぽつりぽつりと点在する、その程度。そんな中に、省吾と、その人はいたのだった。
泣いているのは自分だった。泣いている自分を俯瞰している、その俯瞰している自分は何か、とかそんな疑問は浮かばない。ただ泣いている自分を見ている。
「きっとこんなことはこれから先もあるよ、今のお前にそれを理解しろというのも酷な話だけど」
まるで感情など存在しないと、そのときは思ったのだった。泣きじゃくりながら初めてその少年は、その人を憎んだのだった。その何年か後に、その言葉の意味を嫌でも理解する羽目になるとも知らずに、その少年は、未だ甘えが抜けず、人らしさを子供ながらに知っていて、なおかつこれから迎える全てのことが大きすぎて見えない。未熟で幼いストリートのガキ一匹。
自分はその子供を知っているのだという、唐突な理解があった。今、自分につながるものであり、やがてはその少年が無知であることを知らされる男。彼の名を、知っているのだ――
たとえば消毒用のアルコールを含んだ真綿を噛まされているような。そんな心地を覚えていた。
目覚めのときの重苦しさ――水に沈んでいるような、あるいは体中まんべんなく鉛を詰めているかのような気だるさがある。感覚がおぼろげで、痛みだとかしびれだとか感じうるものは何もない。ただひたすらに身体が重い。そんな中で何故か口内や鼻腔にだけ妙な涼しさがある。つんとする匂いがあるのだった。
省吾はそこで少しだけ目を開けた。段々と意識がはっきりしてくるにつれて、目の前にあるものが分かるようになってきた。天井を見上げ、その天井は地下基地のコンクリートや過密住宅のボロ長屋、ましてや廃墟の朽ちた天井でもなく、真白い天井だった。天井に、煌々と輝く照明が埋め込まれていて、その光のまぶしさを感じる程度にはどうやら感覚は戻ってきている。
俺は生きているらしい。そこで初めてそう思った。生きて、シミ一つない天井を見上げて、そこがどこであるかとか自分の身体がどうなっているかとか感じるよりも先に、生きているということが実感として襲いかかってくる。
身体を起こそうとしてみる。が、力が入らない。何度試みても無駄だった。手足どころか指の一本も動かせない。麻痺しているのか、そもそも手足がすでにないのか、などと危惧した次の瞬間に、後者の方の不安が解消されることとなる。
「おはよう、真田君」
最初の一言だけがフランス語だった。少なくとも聴覚は無事だ、と思ったとき。白い天井がいきなり鏡に変化した。何故鏡と分かったかといえば天井に映し出されたのが紛れもない自分の姿だったから――ただしひどい有様だ。まず下着以外、何も見につけてはおらず、手と足、首に銀色のクリップめいた金属が、3センチ間隔ぐらいでとりつけられている。そのクリップ一つ一つが、これまたどういう訳か赤と黒の線で結ばれていて、その先はどこに続いているのか分からない。鼻と口にはチューブ――口腔のアルコール感はこのためか――そしてむき出しの腹に一文字、傷が走っている。
その傷の場所に心当たりがあった。あのとき、弾を受けたとき。滑り落ちる腸と受け止めた時の粘着した感触。それが唐突に思い出される。
「おっ……こ、あ……」
ひどくかすれた声がのどから捻り出された。チューブのせいでうまく舌が回らない。フレンチ・イングリッシュの主に何を聞こうにも、声そのものがうまいことゆかないのだ。
「ここはどこか、自分はどうなっているのか。興味があるのは分かるが、まだ喋ることは出来ないだろう。だからこちらで便宜を通した。もし意思の疎通を図りたいのであれば、今は君の右の瞼だけが自由だから活用すればいい。これを」
男は言いながら、電気スタンドめいたものを省吾の顔の横に置く。プラスチックだか金属だか分からない素材の脚が伸びて、丁度省吾の顔の前に覆いかぶさるのはこれまたよく分からない素材で縁取りされたガラスのパネル。黄褐色で透明な10センチ四方のそこに、省吾の目が写りこんでいる。
「君の瞼の動きを読み取る。モールス信号で言いたいことを言ってくれれば横のモニターで見ることが出来る」
横、どこにあるか分からなかったが、ともかく省吾は試みた。短く一回、長く一回、それを組み合わせて。
――ここはどこだ。
男は少しの間唸るような声を出してから言う。
「やはり、そこに興味が行くか。まあ無理もないか、目覚めてから立て続けに、では」
どうやら言いたいことは伝わったらしい。男は省吾の顔を再度覗き込んだ。
「これも実際に見てもらったほうが早いだろう。首は動かせるから少しだけ横に――そうだ。ではご覧あれ」
男が言った瞬間。省吾の目に光が飛び込んできた。まぶしさに目を眇めて、少しずつ目を慣らす。徐々に徐々に瞼を開くと、無機質な壁があった場所に巨大なビルの壁面が現れるのを見た。
それも複数。近代的なつくりの構造物が立ち並び、ピカピカに磨かれたガラスと鉄の建物が林立している。よくよく見れば壁はガラス張りで、その向こう側にビルが建っているのだ。今、省吾がいる場所は、都市の中だ。ニューヨークかドバイか、摩天楼だとか呼ばれる構造物体の群れが、目の前にある。ビルに取り囲まれた一つのビル、そこに省吾はいるのだ。
声を失って――といってももともと声など出ないが――しばしの間その構造物群に目を奪われていた。ほとんど初めてだった、こんなご立派なビルは《西辺》でだってお目にかかれない。
「驚いたようだね、真田省吾君」
俺の名を。驚く省吾の心中を察したように、その男は話す。
「もう全て分かっている、もっとも君の名はあまりに有名だから《南辺》界隈のみならず、街の端っこにいても聞こえていたがね。君は日本難民であり、ギャングスタであり、凄腕のフリーランサー。街で入手した君に関する情報だが、しかしそのどれもが正しくない。君の素性は」
フランス訛りの声が近づき、やがてその主が顔をのぞき込んできた。目尻と口元に細かな皺が刻み込まれた、初老の男。やせこけた頬ととがった顎、いかにも神経質そうな面だが、両目だけはやけにぎらぎらとしている。青灰に濁った眼がメガネの奥で揺れていた。
「君はこの街で一旗揚げるために来たわけではない。そうだろう? 鎖のない犬。君達自身はなんと呼んでいるか分からないが、我々はこう呼んでいる」
この街? ここは成海なのか。そう思ったとき、ビルとビルの合間にひときわ高い塔が聳えているのを見ることが出来た。特徴的な形をしたそれ――円柱に球体が乗っかった形をし、天を衝くその塔の存在が、紛れもなくここが成海であることを示しているものだった。魔窟などと呼ばれるこの街を象徴する、かつての電波塔。
「監察官、国連の犬はここではあまり歓迎されない、この《東辺》では」
男が告げた。省吾は動揺を気取られまいと顔を背けたが、無駄だったようだ。男が愉快そうに唇の端を持ち上げたのだから。
「素性を知られて不都合だと思ったかね? 真田省吾君。この場所と、この状況は大体君の予想通りだ。我々は君のようなものを歓迎する類の人間ではない」
――何が目的だ。
すばやく、瞬きをして信号を送る。我ながら呆れるほどの速さだ。
「少しは察することが出来る男だと思ったが、そうでもないようだな。もっとも、現実から目をそむけたい一心だろうが」
――どうして殺さない。
「それは君も疑問だろう。何故、瀕死の重傷を負った君を、否すでに死ぬのを待つばかりであった君を運び込み、治療を施したのか? しかし思ったほど、君の身体は治療が必要なかったのだから、まあそのチューブやら何やらは、ほとんどが治療とは関係のないものだ。一つ一つ説明すれば……いや、これはよそう。どうやら時間のようだから」
かつん、と何かが床を叩く音がした。かつん、かつん、とそれは近づいてくる。
靴音だった。硬い靴底を打ち鳴らした音。規則正しい、一定のリズムを刻む足音だと思った。
さすがにその格好は忍びなかろうと、男が毛布をかけるのと同時、上半身がせり上がる感覚を得た。省吾が寝かされているベッドの頭側が折り曲がり、必然省吾が半身を起こされる形となる。傾斜がおおよそ60度ついた辺りで上昇が止まると、すぐ目の前に立つ人間の姿を認めた。
女である。それしか分からなかった。丁度、ガラス壁から差し込む陽に対して逆光となっていて、顔は伺い知ることはできない。朝日を背負うようにして立った人影が、小柄でほっそりとした輪郭を保ち、上背の高さや線の細さから見て東洋人であるように見えた。
「今はどういう状態、クロード」
その女が発する。流暢な英語だった。訛りのないブリティッシュイングリッシュを、ネイティブがごとくに操る。地元の人間ではこうはいかない。
「手足が麻痺しているけど、機能に影響はない。じきに回復するだろうさ」
さっきから省吾にあれこれといっていた傍らの男は、クロードと言う名らしい。それが本名なのかどうか分からないが。
女が省吾の方に歩み寄ってきた。
「近くで見ると、随分小さく見えるね。とてもじゃないけど、孔翔虎とやり合った男には見えない」
「得てして、見た目と中身は乖離するもの……」
クロードは何かベッド脇でパネルじみたものを操作すると、折れ曲がっているベッドの角度がさらに深くなる。ほぼ直角にまで上げられると、もう省吾は椅子に座っているのと変わらない状態になった。腰のあたりが少し痛む感じがしたが、それよりも。
――貴様は誰だ。
瞬きを繰り返してモールス信号で英文をつくる。女は若干上を見てから、省吾のほうに視線を落として答えた。
「まだ状況を把握しきれてはいないようだね」
どうやら省吾が打ち込んだ文字は後ろの画面か何かに反映されるらしい。だからどうということではないが、自分が打ち込んだ文字ぐらいどこかで確認できるようにして欲しい、ちゃんと言いたいことが表示できているのか不安になるから。
「ここがどこかということが分かれば、それでも私たちが誰であるかということも分かりそうなもの」
――『マフィア』か
省吾は改めて打ち込むことはせず、じっと目の前の女を見つめた。塔を背後に立つ女の影、近代的なビルに囲まれたこの場所、ここが《東辺》であるならば、そこにいるという存在が何であるか。この街にきてまだ日が浅いとはいえ、分からないわけがない。
――俺をどうするつもりだ。
「それも分かりそうなものだよ、真田省吾。あなたが監察官であるということはすでに分かっている」
――何のことだ。
「誤魔化すのならばもっとうまく誤魔化すことね、真田省吾。心拍数が乱れている」
女が言った、その視線の先はやはり省吾の頭上、正確にはベッドの後ろに注がれている。心電図でもあるのだろうか。
「こんな男が、あの孔翔虎を倒したとはね」
女がそう言った。次の瞬間、周りのガラス壁にシャッターが降りてゆく。外の景色を覆い隠し、それに伴い差し込む陽光は遮られた。
そこでようやく、顔を見ることができた。意志の強そうな目と、シャープな顎のライン。東洋系にしては彫りの深い顔立ちをした女を。
その顔が、遠い記憶の中にある、一人の女の姿と重なった。