第十五章:13
血しぶき。レイチェルの目の前で赤い霧が弾け、その瞬間にヒューイがくずおれる。銃を落とした、その右手――掌に穴が穿たれ、5指のうち3指が手の甲の肉ごと削がれ、手首から骨が万年筆のペン先めいた尖りを以て露わになっている。
滴り落ちる血の先を、ヒューイは信じられないという面もちで見、続いて顔を横に向ける。その視線の先、彰が腹ばいのまま銃を――分解されたはずのグロックを構え、その銃口から煙がたなびいているのをレイチェルは見た。
「小僧――」
ヒューイが左手で銃を拾おうと手を伸ばした。
すぐにレイチェル立ち上がり、素早く銃を払いのけた。ヒューイが目を瞠る、その顔面に蹴りを叩き込む。ヒューイが仰け反り、しかし倒れそうになるのを踏みこらえ、そのまま距離を取る。砕けた右手をかばうように左半身となり、拳を握り込む。
レイチェル、彰の方を見る。彰はホールドオープンしたグロックを投げ出し、その場に突っ伏してしまった。相当無理をして、部品を拾い上げて組み付けたのだろう。もう彰は何かをする余裕もないようだった。
「あんたの言う流儀も、理解できるよ。ヒューイ」
構えを取りながらレイチェルは言う。
「そしてあんたの言う通り、ここじゃ情けなんていらない。腕ひとつあれば突き従う、私も前まではそうやって生きてきたから」
ヒューイがまさに憤怒の目を向けた。痛みすら越えるものだと思った。ヒューイにとっては、痛みを与えるものでさえも、生温いものだった。
「綺麗事でも、それをしてみたくなった。それだけだ。否定したいわけじゃないけど、結果的に否定になっただけだよ。それを行うからには、覚悟の上。あんたは何も間違っちゃいない。だけど」
ふとヒューイの目が、怒りの色が揺らいだように見えた。きっとにらみ上げた眦が、少しの間だけでも――それが意図せざるものであっても――和らいだ、そんな印象。そのことをヒューイは決して認めないだろう。
だからレイチェルも、その光を見ないふりをした。
「だけどあんたは、一人じゃないか」
叫んだ。ヒューイの悲鳴じみた声だった。防御をかなぐり捨てた突進で、間合いを詰め、ほとんど自棄ともとれる蹴りを繰り出した。
レイチェルが下がる、その鼻先をかすめるヒューイのつま先。すぐに蹴り足を戻して横蹴りを放つ――二度、三度。レイチェルが掌と手刀で蹴りをいなし、いなしながら後退する。
背中に壁。後がない、そう感じたときに縦拳が飛び込む。目の前、鼻先三寸。
体を開いた。拳を避け、そのまま体を転回させてヒューイの背後に回り込む。ヒューイが振り向く、その瞬間。腰を落として突きを放った。
レイチェルの拳がヒューイの脇腹にめり込む。その一瞬に骨がたわむ手応えを得る。ヒューイが体を折り曲げて後退するに、レイチェルはすぐに間を詰める。
左拳。ヒューイが突き出す。
受ける、レイチェル。左掌で絡め取り、体を寄せ、肘関節を極める。まだ暴れるヒューイを強引に組伏せた。
「それでも裏切りの罰は受けないとね、ヒューイ」
肘と肩、そして手首を固める。それとともに体重をかけてやれば、ヒューイは完全に動くことができなくなる。それでもなお、起きあがろうとするヒューイに対してレイチェルはよりいっそう力を込める。伸びきった腕を折り曲げ、関節を折り砕こうとしたとき、唐突に左足に鋭い痛みが走った。
「くっ」
顔をしかめて見やる。なんとヒューイは砕けた右手の骨、尖った骨をレイチェルの足に突き立てていた。槍めいて尖った骨は、丈夫な軍服の生地ごと太股を貫いて、半ばまで刺さっている。なおも深く刺してくるのにレイチェルは痛みのあまりに声を上げた。そのときに、わずかに腕のロックが緩むのへ、ヒューイは腕を抜き取り起き上がって後退する。
そうして距離をあける。ヒューイは左前の構えになって、レイチェルもまた左を前にする。左対左、両者とも利き手を潰されての相対となる。
(どこで仕掛けるか)
体力が限界なのはヒューイも同じ事だ。ただし、決定的に違うところがある。ヒューイは長く引き延ばしたところで、階下の黒服たちが持ちこたえればそれでよい。レイチェルの場合は違うのだ、引き延ばせばそれだけ扈蝶たちの身が危うくなる。彰の身も長く持たないかもしれないという懸念がある。
(しかし)
かといって、急いては仕方がない。おそらく体力の限界に来ているヒューイは、一度で終わらせるための機を狙っている。レイチェル自身がそうであるように。傷を負い、疲労を極限までため込めば、自ずと考えることも似通ってくる。
それは明白だった。ヒューイは次で、一度で終わらせたがっている。そのため、手を出してこないのだ。こちらが仕掛ける瞬間、その出鼻を打ち崩そうというように、出方を伺っている。
だからレイチェルも動かない。後の先を取る、ヒューイが打ち出す先を取るのだ。そのためには拙速には動けない。
それは、待ちに徹するというわけではない。確実に打ち込むその間際を見極める、そのことは、すなわちこちらから打ち込ませるということだ。敵を引き出す、それは攻め以上の攻めを示すより無いのだと。
半歩、もう半歩ずつ。
近づく、両者の境界線。互いに互いの拳を届かせる最大の距離が各々異なるのならば、その拳の間合いに自らを近づけさせなければならない。
されどそれは相手の拳の圏内に身を晒すということでもある。一歩ずつ死に近づくということでも、ある。
歩を詰める、その間隔は徐々に短くなる。数センチ、数ミリ……。
やがて距離は一足の間に縮まる。拮抗する、ぎりぎりの位置。そこから先は死地である。
にらみ合う、せめぎあう。拳を握り込む、両者。汗が背中を伝い、どちらとも無く呼吸を止める。
唾を飲む音。
踏み込んだ。
両者、同時。互いに大きく飛び越える境界、その先へと打ち込んだ。
ヒューイが打ち出す――左のビルジー。最速の目打ちを打ち出す。
掌底――レイチェルが打ち出す左の掌がビルジーと交錯する。
体を入れ替える。ヒューイの腕を取り、引き寄せ、引き寄せるとどもに右の肘打ちを打つ。ヒューイの胸をしたたかに打つ、ヒューイが声を洩らす。体を折り曲げる。
だが崩れない。すぐにヒューイは体を立て直し、裏拳。左の手の甲がレイチェルの顎をとらえた。衝撃で一瞬、目の前が白くなる。
また拳、ヒューイの縦拳。よけきれず、レイチェルはまともに食らう。顔面が弾きとばされる、頬骨を砕く音を聞く。そのまま体を崩し、前のめりに倒れそうになる。
だが、こらえる。無意識に踏み出した一歩がとどめさせる。倒れそうになる身を持ち直し、すぐに向き合う。そこにヒューイの靴の先が飛び込んでくる。
ヒューイの蹴り。必殺のフックキックが鼻先に迫る。
レイチェルの掌が空をなでる。ヒューイの蹴りの軌道を柔らかく逸らした。ヒューイの体が傾く、崩れる。その瞬間を狙い、踏み込んだ。
掌打――最大限の剄を込めた、纏糸剄の打撃が、確かにヒューイの胸を打ちぬいた。ヒューイの体が吹っ飛ぶ――2メートルほど後退する。
ヒューイ、踏みとどまる。顔を上げた、その喉元向けてレイチェルは拳を打った。
喉に埋まる、レイチェルの拳。気道を潰す手応えを得る。
ヒューイの口から零れ落ちる――血と、喘音と、泡状の唾が垂れた。レイチェルが腕を引いたと同時に、体を折り、膝をつく。
ヒューイの目が、かっと見開かれた。だが、それを最後に。ヒューイの体が崩れ落ちた。