第十五章:11
蹴り込まれた腹が鈍い痛みを主張してくる。それほど強くない力でも、急所に的確に入れば効くものだ。ヒューイは何度か腹を押さえたい衝動に駆られた。
(だが問題はそこじゃない)
急所に叩き込む技術、それもあるがこの女が扱う武術の真骨頂はそこではない。ヒューイは吹っ飛ばされた際当て込まれた肩に触れた。そちらの方はほとんど痛みはない。だがその体当たりで、ヒューイは壁際に追いやられたのだ。
(発勁、か)
発勁自体はどの拳法にも存在する。全身の力を一点に集めて放つ、体当たりの要領で打ち込む。原理は知っていたものの、実際に受けるとなると違う。
(厄介な)
少しだけ拳のガードを下げた。左半身でじりじりと間を詰め、つま先で地面を探るような歩を取る。対するレイチェルは左右の掌を向けたまま動かない。
ヒューイが仕掛けた。
ビルジーを打つ。左の指がレイチェルの顔面に延びる。レイチェルの掌が弾く。
そこに、縦拳。レイチェルの顔面向けて打ち出した。
同じタイミングでレイチェルの掌底。二つの直線の軌道が交わった。
レイチェルが身を引く瞬間、レイチェルの肩を掴む。体を引き寄せ、引き寄せながら膝を放つ。右の膝蹴りがレイチェルの胴に刺さる、ボディーアーマーの固い手応えを得る。
「くっ」
レイチェルが体をねじって苦悶の表情を見せる。内蔵に直接叩き込む膝蹴り、効かぬことはない。
(好機――)
裏拳を打った。必殺の拳は、しかしレイチェルの頬をかすめるにとどまる。レイチェルは一気に飛び下がり、柱を背にした。息が、乱れている。
ヒューイは左半身の姿勢を取る。そのまま対峙する――膠着する。
じり、と歩を進めた。どちらからともなく、そうした。互いに互いの領域をさぐり合うための歩であり、死に向かうための儀式めいたものでもある。どちらが先に、到達させるかのせめぎあい。
一気に動いた。両者同時に間合いに飛び込む。ヒューイが縦拳、レイチェルが掌底。互いの腕が交わり、密着状態で止まった。
「ずいぶん粘るな、レイチェル・リー」
レイチェルの右手にヒューイの右手が重ねられている。推手と同じような状態だった。
「ここでけりをつけようってか」
レイチェルが右手を押し付けてくる。互いの手首の骨と骨が当たり、ぎりぎりと軋むように圧をかける。
「あんた一人に、『黄龍』はやれないからね」
吐息がかかるような距離だ。頭半分低い位置でレイチェルが唸っている。傍から見ればレイチェルがヒューイの胸に身を預けているようにも見えなくはないが、密着状態でこそ恐ろしいのだ、この女は。
「抜かせ」
いうや、レイチェルの腕を引き寄せて足を払った。
レイチェルが体勢を崩す。そこに蹴りを入れる。最大限に脚をかいこんだ前蹴りが、しかし空を切った。レイチェルはすばやく身を起こして再び構えを取っている。
息があがっていた。二人して、レイチェルもそうだがヒューイ自身も、己の意志とは裏腹に激しい呼気を繰り返している。肺の中がかき乱されて、空気が体内で爆ぜそうだった。別に不思議でも何でもない、それがレイチェル・リーと対峙するということなのだ。この成海を、西の一角をまとめ上げ、『マフィア』に匹敵する組織を作った女。
(やる――)
息を吐く。体内のすべての呼気を、絞り出す要領で。
飛ぶ。ヒューイが先に仕掛けた。間合いに至ると同時に回し蹴り、避けられると見るや蹴り足を横蹴りに変化させる。レイチェルの顎を捉える、一瞬だけレイチェルの体が傾ぐ。
「はっ!」
踏み込んだ。右の手刀を渾身、横薙ぎに打ちつけた。
だが瞬間、レイチェルが体を開く。ヒューイの手刀をやり過ごし、ヒューイの腕を取り、そのまま関節を締め上げた。手首が完全に極まり、身体が浮き立つ。そのままレイチェルがヒューイの脚を払う。ヒューイの体が投げ出され、地面に叩きつけられた。
背中を打ちつけた瞬間に呼吸を断ち切られ、痺れが全身を包む。痛みを味わう暇もなくレイチェルが踵を落としてくる。
とっさに受け止める、レイチェルの脚。ヒューイの両腕に踵の先がめり込む。骨が軋みあがる痛みを得る。
すぐに飛び起きた。ヒューイは立ち上がり間を取る。彼我の距離は3足、その位置で構える。
「しぶとい」
レイチェルが血の唾を吐き出すと、折れた歯が2、3転がった。呼吸はますます荒く、それを隠そうともしない、必死の形相と言えた。面に疲労の色を湛えていても、目だけは爛々輝いている。おそらく自分もそうなのだろう、ヒューイはそんなことを思った。
レイチェルは左の掌を大きく前に張り出し、後ろ体重の構えとなる。完全に体を地に落とし込んだ格好だった。
ヒューイは強く拳を握り込んだ。
長い対峙があったと思えば、二つの陰が交わり、拳を交えたかと思えばすぐに離れて膠着する。その繰り返し。
(こいつらは……)
隙あらばレイチェルに加勢しようか、などという考えが浮かんだものの、それも無理だと悟る。彰はただ固唾を飲んで二人の攻防を見守るしかなかった。どれほど手を尽くしてもこの戦いに割って入ることなど無理であるし、到底ついてゆけないという思いだった。一体自分が何を見せられているのかも分からない。ある意味置いてきぼりを食らったような感覚だ。
(力は五分……)
それでも、状況を見るだけのゆとりはあった。直線的で早いヒューイに対して、レイチェルはやわらかく切り返し、受け流している。動きはなめらかで芸術的でさえあるが、いかんせん勝負がつきにくい。
(あまり時間がないってのに)
少し苛立っていた。なかなか勝負がつかないことが、どういうことを意味するのか。階下の黒服たちが増援を呼べば、あるいは階下の扈蝶たちがやられれば――そう考えれば、ただ指をくわえて見ているよりは少しでも加勢した方がよい。
ちらりとヒューイの方を見やると、はるか後ろにレイチェルが捨てた銃が落ちているのが見える。銃弾はまだ残っているだろうが、それにしてもそこまで駆け寄って銃を拾うとなればかなりの距離がある――ちょうど二人が対峙する空間を挟んだ先、そこからさらに柱3つほど離れている。そこまで辿り着くまでに、ヒューイに気づかれるだろう。
次に右方に目を走らせる。分解されたグロックの遊底が、視界に映った。その先に弾倉と、銃身部分とスプリング、薬室から零れ落ちた銃弾が散らばっている。急いでかき集めれば、そこから組み付けるまでにそれほど時間はかからない。
あれを拾うことが出来れば――足を引きずりながら這い、柱に手をついてゆっくり立ち上がった。ヒューイに気づかれないよう、後ろから回り込んで銃を拾い、レイチェルに当たらないように撃つ。ヒューイはレイチェルを相手するのに手一杯なはずだ、彰の行動を止めることは出来ない――。
立ち上がる、だがすぐに崩れ落ちた。膝を突き、そこで自分の足が感覚を失っていることに気づいた。出血のせいだろうか、そこから一歩も動くことが出来ない。
(こんな時に……)
ここに来て足の傷に悩まされるなどと思っても見なかった。刺し違えてでもヒューイを殺るつもりだったが、そんな覚悟など脆いもの。元々の地力の差だ。
彰は立ち上がるのを諦めた。足はそのまま投げ出したまま、腹這いになって匍匐気味に一番手前の遊底までにじり寄る。ヒューイに気づかれないよう、時折様子を見ながら少しずつ少しずつ這い寄った。ヒューイがレイチェルに気を取られている間に。
たっぷり5分ほどかけて――足が鉄のように重い――ようやく遊底のところまで辿り着く。だがそれだけでは不十分、そこから20メートル間隔ほどで打ち捨てられている部品すべてを集めなければならない。足が動くならばともかく、こんな尺取虫みたいな匍匐で全部を拾うことなど出来るか。
息を吐いた。意を決し、ヒューイの方を振り向きながら次へと向かう。
そのとき、何気なく視線を上向けた。
天井近くの壁に嵌め殺しの小さな窓がある。そこから薄暗い室内に陽が差し込んでいるのだが、その窓越し、空中に黒い点が浮かんでいるのが見えた。気のせいかと思ったが、その点は徐々に大きくなってゆくのが分かる。
点は近づいてゆくにつれて輪郭を明らかにしてゆく――角張ったボディに鋭いテールを突き出させ、機体を覆い隠すように回転翼が旋回する姿。戦時中に目にしたことは一度や二度ではない、まがまがしさを隠そうともしないミサイル筒が機体の脇を固めている。
「あのヘリは……」
まさしく仰々しい空中の要塞めいたそれが、上空高く舞い上がった。