第十五章:10
倒れ込んでから数秒後、少しだけ感覚が戻った半身を起こした彰の鼻先に、先ほど飛ばされた彰の銃が突きつけられる。グロックの銃口の先、冷めた目で見据える男の面には、わずかばかりの驚嘆がにじみ出ていた。
「意外だな、久路彰」
ヒューイが見下ろしてくる。睨み返すが、それ以上の抵抗はできない。銃を突きつけられているというのもあるが、先のヒューイの蹴りがまだ効いていた。左の前蹴り、そこから脚を戻すことなく同じ左脚での上段廻し蹴り。しっかりためを作るような蹴りではなく、早さを重視した連続蹴りだが、威力も相当なものだ。まだ体が動かない。
「俺の名を」
「いつぞやは『千里眼』ともども世話になったからな」
氷点下を遙かに下回る声で言う、ヒューイは一歩にじり寄った。
「事前の情報では、貴様が最前線に立つことなど少ないはずだったが」
「安全圏に引っ込んでるだけじゃ、お前は倒せないから」
少しだけ指先に感覚が戻ってきていたが、そこから動けそうもない。動けばその瞬間、ヒューイに撃ち抜かれるという危惧もある。
「どうやって俺の後ろをとった」
ヒューイは最大限気に食わないという風情を隠そうともせずに訊いてくる。
「あんたがレイチェルと撃ち合っているのを聞いて、位置を割り出して。あんたは俺の足を撃ったから、動けまいとたかをくくっていただろうけど」
「確かにな、油断していた。だが」
引き金にかけた指に力がこもるのを目の当たりにする。
「これで油断はない」
ヒューイが引き金を引く、銃弾が吐き出される。鉛の固まりが自分の頭蓋骨を割り、脳髄をかき乱す――その一連の働きが、頭をよぎった。
だが。
「そこまでだ」
ヒューイの後ろから声が響く。3メートル先、レイチェル・リーが立っているのを見る。
「銃を捨てな、ヒューイ」
そう告げるレイチェルがマグナムを向けている。銃口はひたりとヒューイの頭を狙い、寸分たがわずそこを撃ち抜くという風でもって、それでもヒューイは眉一つ動かさない。
「それで、どうするんだ」
「銃を捨てろって言っている、ヒューイ」
だがヒューイは、小馬鹿にしたように鼻を鳴らすだけだった。
「こいつが見えないようだな」
と、彰に向けている銃を傾けて、
「従うのは、お前の方だ。銃を置け、レイチェル・リー」
レイチェルは眉間の一点を狙ったまま、そのまま動かない。
(撃てよ、レイチェル)
そう言おうとした。しかし、口にしかけてやめた。彰が言ったところでレイチェルは撃たない。そういう人間なのだ、レイチェル・リーは。この街の連中が当たり前に行うことが、当たり前のこととして受け止めることのできない類の人間。今もその顔に、ありありと葛藤の色を浮かべている。
彰はふと自分の足、撃たれた左足に痛みが戻っていることに気づく。彰の体を巡る神経という神経が思い出したように主張を始めたかのようだった。指先と足に、若干の力が戻る感覚がする。
だが立ち上がることができるかどうかわからない。せいぜい、ヒューイに飛びかかり、そして銃を奪うことができれば――
レイチェルが観念したように構えを解いた。引き金から指を離してグリップをつまみ、掲げて見せて撃つ意志のないことを示し、足下に置く。手を挙げ、足下の銃を蹴飛ばし、完全に降参のポーズをとる。
「馬鹿だぜ、あんた」
ヒューイがレイチェルに銃を向けた。
その瞬間、彰は飛びかかった。ヒューイの右手にすがりつき、銃を奪おうとする。ヒューイは身を引き、狼狽しながら彰を引きはがそうともがいた。
「な、このっ」
彰の髪をつかみ、無理に引き離して彰の腹に拳を打ち込む。それでも彰は離れることはなく、ヒューイの握るグロック拳銃にかぶりつき、スライドのロック機構を開いた。いきおいよくバネが飛び出すとともに銃のスライドがはずれ、薬室の銃弾とともに分解部品がこぼれ落ちた。
ヒューイが驚き、目を見張るのと、同時。二人の間に影が割りこんだ。レイチェルがつかみかかり、ヒューイの腕を取る。瞬時に関節を極め、掌底を打ち込んだ。
ヒューイの体が仰け反る。レイチェルが再び掌底を打つ。
だが、空振り。ヒューイはすぐに距離を取り、間合いの外に逃れる。レイチェルより三歩先の間で、構えを取り、右半身の体勢でもって対峙した。
「彰……」
レイチェルは彰をかばうように立った。
「レイチェル、俺」
「いいよ、もう」
背中を向けているので、表情は伺うことができない。
「あんたはよくやったよ、十分だ。ここまでやれば、十分」
ゆったりとした動作でレイチェルは構えを取った。右掌を前に、腰をやや落としたスタイル。八卦掌の構えを。
「だから、もうそこで休んでいな。あとは私がやるから」
すでに構えはヒューイに向いている。レイチェル・リーの佇まいそのものが、刃めいた雰囲気をまとっている――構えは凶器、そういう風情だった。
「私が、終わらせる」
低く、重心を落とした。
右の掌を内に向け、手の甲を相手の方にかざす。動脈をさらさないためとも言われるが、手の内は自分にとって弱い部分であるのだ。そうしてレイチェルは対峙する。
ヒューイは動かない。右手右足を前にしたフロントスタイルを保っている。両足の踵がわずかに浮いた、フットワークを重視した構えでもって対していた。
「気に食わないな、レイチェル・リー」
ヒューイが低く発した。
「そいつのために、命を張るってか」
「文句あるかい?」
じり、とレイチェルは近づいた。つま先一寸という距離、そのわずかな距離でさえも勝敗を決するには大きい。じり、じりと間を詰めてゆく。少しずつ、少しずつ。
「ストリートのガキ一人のために」
「そればかりじゃないよ」
ヒューイはやはり、動かない。それでもいつでも跳べる体勢はつくっている。いつ攻撃してくるか分からない。慎重に、間を詰めてゆく。
「あんたを暴走させたけじめはつける。『黄龍』の長として」
「元、だろう。誰もお前になどついてはゆかない、今も昔も」
ヒューイの声がだんだんと低くなってゆく。同時に呼吸のリズムが変わってゆく――吸気は短く、呼気は長く。まるで息をしていないかのような静かな呼吸を繰り返す。
「ならばどうする」
「知れたこと」
そう言った、瞬間。いきなりヒューイが飛び込んだ。
間合いを飛び越える、拳の間。レイチェルの間合いに踏み込むとともに右の前蹴りを放った。
レイチェルの掌が空を薙ぐ。鋭く突き出された蹴りを、左掌でやんわりと押し戻した。ヒューイの蹴りが流れるのを受けてレイチェル踏み込み、掌底。
ヒューイが顔をそむける。掌底が外れた。ヒューイはすかさずレイチェルに組み付き、腰を引き寄せ足を払う。絶妙なタイミングで腰投げが決まり、レイチェルは地面に投げ出される。
地面に背を接した、目の前にヒューイの踵が飛び込んだ。
起きあがる、レイチェル。蹴りを避けて飛び上がり、距離を取った。
その距離をヒューイはやすやすと飛び越える。
「はぁ!」
気勢。と同時に、ヒューイが打ち込む、ビルジー。すぼめた四指の目潰しが突き出された。
叩き落とす。右手刀でヒューイの腕を弾き、弾くとともに拳を打つ。続けざま肘、貫手を打ち込む。ヒューイの方も連続で縦拳と裏拳を繰り出すのに、拳と掌が交わり、衝突し、弾けあった。互いに互いの攻撃をいなしながら突き、逸らしつつやり過ごしつつ攻め、打ち込む。直線的に打ち込むヒューイの攻撃を、レイチェルは掌と手刀を駆使して叩き落とし、三連、四連と交互に速い連撃を内に外にと返しながら攻める。両者の間で拳と掌、手刀が交互に弾き合わされた。
ふいにレイチェルの掌が躍った。ヒューイの拳打に己が腕を絡ませ、ヒューイの肘を折り畳み、関節を極める。だが完全に極まるより早くヒューイは身をよじり、立関節から逃れる。そのまま間合いの外へ。
すぐにヒューイが飛び込む。低空の、踏みつけるようなストンプキックをレイチェルの膝めがけて打ち出した。
レイチェルが体を開く。蹴りを避け、歩を内側にねじりながらにじり寄る扣歩でヒューイに密着する。ヒューイの軸足に自らの足を重ねる。ヒューイが目を瞠る。
体を開いた。擺歩――やはり八卦掌の歩法である。体をねじった状態から一気に体を開く攻防一体の体捌き。足を重ね、腕を首に絡ませた状態で体を開けば、まるでレイチェルの体に巻き込まれるようにしてヒューイの体が崩れる。成す術なくヒューイは地面に倒れ、倒れたヒューイに向けてレイチェルが拳を突き下ろした。
ヒューイ、受け止めた。レイチェルの拳がヒューイの腕によって防がれる。
「あんたとやるのも久しぶりだな」
仰向けのままヒューイがこぼす。こんな状況――自分が下になっているにも関わらず、そんな無駄口を叩く暇があるとは。
「だが今度は」
言うや、ヒューイの左手が踊った。レイチェルの目の前に、固い指先が飛び込んできた。
のけぞるが、間に合わず。左のビルジーがレイチェルの右目に触れた。瞼に、突き刺す痛みが走り、一瞬だけレイチェルの視界が奪われる。
その隙にヒューイ逃れる。起きあがるとすかさず前蹴りを打ってきた。
紙一重、蹴りを避ける。額に摩擦の熱を得る。
飛び込む、同時。掌と拳が交わった。互いの攻撃が逸れた、また同時。レイチェルが懐にもぐり込み体当たり。ヒューイの肩にレイチェルの肩が当たり、その瞬間ヒューイの体が後方に弾き飛ばされた。
「なっ!?」
ヒューイが驚きの声を上げる、壁際まで後退し、そこにレイチェル飛び込んだ。
脚が踊った。飛び込みざまレイチェルの横蹴込みが炸裂する。ヒューイの胴に踏みつけるような蹴りが突き刺さった。
ヒューイの体がくずおれる、好機とばかりに掌底を突き下ろす。
いきなりヒューイが組み付いた。レイチェルの腰に抱きつくようなタックルをかまし、足を取る。そのままレイチェルを押し倒した。仰向けに倒れたレイチェルの上に乗り、拳を振り下ろした。
拳がレイチェルの頬にめり込む。口の中で血の味が弾けた。再びヒューイが振り上げた。
レイチェルは体をよじり、寝転がったままヒューイの体を蹴飛ばした。少しだけ体のロックが緩んだ、その隙にマウントポジションから逃れ、起きあがる。
(レスリングか……)
変幻自在、まさしくそんなイメージだった。ヒューイの格闘術、截拳道は競技化した現代格闘技とも、固定観念に囚われた伝統武術とも違う。そもそも截拳道自体が様々な武術、格闘技の混合である。創始者ブルース・リーは武術性が失われることをおそれてこれを競技化せず、そのおかげで截拳道は創始されて以後もさらに進化を続けている。このスタイルも、ヒューイ独自のものだろう。ヒューイ自身が研究し、独自の形を作り上げたのだ。
最初に手を合わせたとき――ヒューイが『黄龍』に入って間もない頃とは明らかに違っている。技も力も。戦うときの心構えも。
だからこそ。
「あんたとは、やりたくなかったよ」
レイチェル、構えを取る。再び右半身でもって相対した。




