第十五章:5
疲労というものは、極限の緊張を保てばそれだけ早く襲ってくる。呼吸も、意図的に深めても浅くなり、努めて脱力しようとしても余計な力が筋肉にため込まれてしまう。人、生物としての防衛本能が体をこわばらせてしまうのだ。
だとすればこの疲れはこの場のせいなのだろうか――扈蝶は呼吸を鎮めようと、務めた。極度の緊張に晒されて、全身の筋肉が固まり、力んでしまっている。こういう場でこそ、平静さを保たなければならない。できなければならないのに……。
(情けない)
心底、そう思った。鉄火場に立つのは一度や二度のことではない、それなのに、レイチェルがいないというだけで不安が絡め取り、極限まで緊張感が高まり、自らの身を縛り付ける。こんなことで駄目になるようでは。
頭を振った。そんなことは後でやればいい、反省やら後悔やら――目的を果たして、生き延びて、それから徹底して落ち込めばいいのだ。今、そのようなことにかまけていて死んでしまえば元も子もない。浮かびかけたネガティブな考えを、扈蝶は頭から締め出した。
壁際に張り付き、鉛になった重い足を引きずりながらも体勢を持ち直し、霞のように細かい息を繰り返す。段々とそれが長く細い呼気へと変わり、すっと腹の中にある余計な空気が抜けてゆく心地になってゆく。吐くだけ吐ききれば、自ずと酸素をたっぷり含んだ空気が流れ込み、腹を満たす。腹が決まれば体の重心が下がり、全身の余計な力も抜ける。扈蝶は少しずつ、脱力する己が身を意識した。
銃弾がかすめた肩から、血が滴り落ちるのをあわてて拭う。わずかな血の痕でさえも許されない。今この場は、黒服たちの物量に押され、仲間たちは散り散りになっており、扈蝶はといえばビルの中に駆け込んでどうにか身を隠している状態だった。サブマシンガンはすでに弾が尽き、手にしたシグ・ザウエルも残弾は少ない。
「敵の姿は」
ひそひそ声で言うと、後ろを守るイ・ヨウがけだるい声で応じる。
「こっちから身をさらさなきゃ、分からんよなあ」
イ・ヨウの状況はさらに悪い。銃弾は尽き、持てる武器は手斧のみ。そんな状態だからもっと悲壮感があっても良いようなものを、のんきな口調で返すのだからいらいらしてくる。
「もうちょっと危機感とかないの?」
「今ごろじたばたしたってよ。こうなることは覚悟の上だろうが」
それはそうだけど、と扈蝶はそこから先をいうことができなかった。覚悟の上、さも当たり前かのように口にできるほど、自分は覚悟を決めていたのだろうか。
「しょうがねえ、こういう事態は想定内だ。連中を引きつけるためだけの攻撃、あとはどうやって逃げ回るか、だな」
イ・ヨウが廊下の角から様子を伺うのに、扈蝶もそれに倣う。50メートルはありそうな回廊の真ん中に、黒服たちが5人いる。
「策はあるの?」
扈蝶はサーベルを構えた。
「白兵戦の基礎、だろう。『黄龍』の姉ちゃん」
「確かに」
これ以上、何もいうまい。扈蝶は細く息を吐き出した。今やるべきは、決まっていることだ。議論など無用。
「合図する」
イ・ヨウは閃光弾を取り出し、そして
「行け」
投げ込んだ。
黒服たちに届く手前、扈蝶が発砲。閃光弾を撃ち抜いた。マグネシウムが弾け、まばゆい光がほとばしり、一瞬黒服たちを硬直させる。
そこへ飛び込む。扈蝶とイ・ヨウ、各々が走った。
扈蝶は瞬時に間合いを詰め、懐に入るや否や一番手前の男を斬り払い、返す刀で後ろの男を斬り伏せる。声もなく黒服二人が崩れ落ちた。
右手側。黒服の一人が銃を向けた。
男が発砲するより早く、扈蝶は向き直りサーベルを振り抜く。手首を斬り落とした。銃ごと自らの手が落ち、呆気にとられる男の顔に9ミリ弾を撃ち込む。ほぼゼロ距離の射撃を受けて男の顔半分が脳片撒き散らして吹っ飛んだ。
「まだくるぜ」
イ・ヨウが叫ぶ。その足下に二つの首なし死体が転がっている。
「今日は大漁だっ」
言うや、イ・ヨウは回廊の奥めがけて血塗れの斧を投げつけた。ちょうどこちらに駆けてくる集団の、先頭の男に突き立った。黒服たちにかすかな動揺が生まれた。
すぐさまイ・ヨウは黒服のサブマシンガンを拾い上げ応戦。扈蝶もシグ拳銃でもって黒服たちに向けて撃つ。撃ちながら後退し、後退しながら逃れる。銃撃が連なり背後の壁を穿ち、火薬の焼けるにおいと閃光と、一身に浴びながら駆けた。回廊の奥へ奥へと進み、記憶を頼りに逃げ道を探す。
(ここから先は黒服たちも増員をかけるかもしれない……)
しんがりはイ・ヨウ。サブマシンガンを断続的に、追ってくる黒服を追い払う。扈蝶も時折後ろを振り向いて追っ手に発砲する。弾倉を入れ替え、無我夢中で撃つ。回廊に空薬夾が、二人の逃走経路をたどりながらばら撒かれて、地面に当たるたびにからからと金の音を奏でた。
(ヒューイを討てなければ、すりつぶされるのは時間の問題)
拳銃のスライドが引き戻った。あわてて換えの弾倉を探すが、すでに銃弾はなく。
(このままではっ)
前方、黒服たちが10メートル先に集まっている。行く手を阻むように一斉に銃口を向けた。
扈蝶、拳銃を投げ捨てる。左腰に吊った、もう一本のサーベルを引き抜く。一気に走り、間を縮めた。
黒服たちが撃った。
扈蝶、飛び上がった。男達の頭上を飛び越え、背後に降り立つ。黒服たちが振り向くよりも早くサーベルを振るった。
「はぁ!」
一閃、抜きつける。二本のサーベルを横薙ぎに切り払った。一番後ろの男の首を切り裂き、赤い霧がぱっと飛び散った。
黒服たちが向き直る。それより早く扈蝶はサーベルで縦横斬りつける。二連、三連、身をひねりながら切り開き、二つの刃を振るった。床を跳ねるように走り、踊るような身のこなしでもって近づき、振り抜き、刺し貫き、急所を的確に斬り開く。黒服たちが応戦するも扈蝶は銃口、照準の向きを見、その延長上に身を置かぬよう、体を捌きながら斬撃を繰り出す。果たして血の赤と緑色の発射炎が交錯し、目に痛い紅と閃光が瞬いた。
くるりくるりと体を転じ、そうしていれば自分の身体は別の何かに操られているかのような心地がした。黒服が撃つのもかまわず、銃弾がどこに向かっているのかさえも気にかからない。ただ切りつけるだけで。
(早く、早く……)
それでも気は急いている。自分がこうすることも、その他のことも。それが危険なことだとは分かっていた。戦い以外のことに気を取られることなど。
(早く、しないと)
黒服たちが後退する。イ・ヨウの叫びを耳にする。退け、と。反射的に扈蝶は回廊の角に飛び込む。
一瞬の間。直後に爆音を背後に聞く。ちょうど扈蝶がいた場所でグレネードか何かが爆発したのだと理解する。背中に熱を受けながら次へと向かうべく走った。
「もう保たないよ」
果たして一緒に走っていたイ・ヨウにも聞こえただろうか。相変わらず後ろに向けて掃射する、イ・ヨウは今はAK小銃を持っている。死体から奪ったものだろう。
「このままじゃ」
危機感が募る。それを口にしたところでどうにもならないのに。
「腹ぁ括れ、扈蝶」
イ・ヨウ、銃撃に負けぬようにと声を張り上げた。
「こっから先は地獄だぜ」
「分かっているわよ」
前方、黒服たちが駆けてくる。扈蝶はサーベルを握り直し、加速した。