第十四章:43
反射的に省吾とユジンは身を低くした。本能的なものだった。しゃがみこみ、四方に目を走らせる。
ふと首筋に生暖かいものが降りかかる。手でぬぐってみると掌にべったりと血が張り付いた。
(何事――)
振り向いた、瞬間。隣に棒立ちに突っ立っていたヨシの体が傾ぐのを目の当たりにした。ヨシの額には黒く孔が穿たれ、後頭部がざくろの実めいて割れている。割れた頭蓋から、粘液じみた半液の肉片が滴り、零れ落ちたそれはべしゃりと気のない音を立てて地を叩いた。
「ヨシ?」
ユジンが呼びかけるまでもなかった。呆けたような顔のまま――おそらく自分が死んだこともわからぬまま――ゆっくりとヨシは、倒れ込み、倒れ込むと同時にまた銃声が鳴った。
「伏せろ」
省吾が叫ぶ。すぐ横の瓦礫に銃弾が突き立った。ユジンが伏せた、その直後。数ダースもの銃弾が空を切り裂き、崩れたビル壁に着弾した。
「くそっ」
省吾は倒れたヨシの手から拳銃を奪い取った。身を伏せ、匍匐で移動する。
背後からまた新たな銃声が鳴る。数メートル先、ビルの影にスーツ姿を数人認めた。『黄龍』の黒服ではない、灰色がかった背広姿。サブマシンガンの銃口が10連ほど並んでいる。銃口は、等しく省吾とユジンに向き、今まさに銃口から発射炎が噴きあがった。間断なく銃声が鳴り、発射音が連なった。
身を低く構える。省吾、二度撃った。先頭の男を撃ち抜き、さらに三連撃つ。スーツの男たちに突き立つ。撃ちながら省吾はユジンのところまで駆け寄った。
「大丈夫か」
ユジンは頭を抱えるようにして伏せていた。地面に限界まで張り付いてやろうというように、最大限に頭を下げ、それでも視線だけは周囲に走らせている。
「何、何なのあいつら!」
ほとんど悲鳴に近い声でユジンは怒鳴った。スーツの男たちが撃ってくるのに、省吾は応戦しながら訊く。
「ユジン、閃光弾あるか」
省吾の言葉に、ユジンが閃光弾を差し出す。すばやく省吾はそれを銃撃の方向に投げ込んだ。
サブマシンガンの銃弾が閃光弾を撃ち抜いた。円筒がはじけ飛び、マグネシウムの光、炸薬の煙が膨れ上がった。
「立って、走って!」
省吾は怒鳴りながら、ユジンの襟首をつかんで半ば無理矢理立たせた。ユジンをかばうように、肩を抱き、低い体勢を保ったまま走った。撃ってくるサブマシンガンに向けて銃撃を加え、10メートルも走ったところでようやく身を隠せる壁を見つける。二人して飛び込み、身を隠す。壁に9ミリ弾がいくつも刻まれた。
「どっから沸いて出た、あの野郎」
悪態をつきながら省吾はナイフの刃を壁際から差し出した。刃を鏡に、敵の姿を見る――4人、5人――全部あわせれば10人は下らない。
「何よあれ」
ユジンは青ざめた顔で、うわごとのように呟いていた。
「あんなの聞いてないよ、どういうこと? あいつらは一体?」
「さっき言おうとしたことだ」
マガジンを引き出して、省吾は残弾を確認する。ベレッタ拳銃は装弾数が多いといっても、所詮は拳銃にすぎない。あと残り10発といったところだった。
「さっきって」
「つまり、あれが俺の敵だ。お前たちがギャングを通して見ているだろう敵を、俺は直接相手にしている」
「何を言って……」
ひときわ大きい連撃が鳴った。背後に突き立ち、土壁がぼろぼろと崩れた。
ナイフ越しに銃声の方向を見るーーカービンライフルを構えた男。ベルギーP90の銃口が向いている。
(あんなものまで)
明らかに毛色が違う、ギャングとは何もかも。『黄龍』の黒服でも持っていない装備、無駄な弾を撃たない正確な射撃。全てが違った。あいつらは本物だ、と思った。ギャングどもの暴力ですら、遊びに見えるほどの。こいつらは本当の意味での「プロ」なのだ。
「マフィアどもめ」
消しにきている。孔翔虎の遺体を持ち去られることを良しとしない連中、つまりは孔翔虎の体を作った者たちと同類であり、その中身ごと省吾を消し去ろうとしているのであり――。
省吾はマガジンを押し込めた。マフィアの武器と比べれば、随分と頼りない武装だった。
「ユジン、閃光弾をくれないか。できればあるだけ」
「あるだけって言っても、もうこれしか」
ユジンは一本だけ閃光弾を差し出す。最後の一つのようだった。
「こんなの目くらましにしかならないわよ。それに銃一挺、剣一本じゃ」
「銃だけだ」
省吾は腰に差したままの“焔月”を抜き取ると、ユジンに差し出した。
「俺が引きつける。連中の狙いは俺だから、全員俺の方に向くはず。お前はその隙に、こいつを持って逃げろ」
「何を……」
「早く」
ユジンに刀を押しつける。ユジンは意味もわからないようだった。
「これを、舞に返しておいてくれ。こいつは借り物で、必要なときに使うという契約だった」
銃撃が三連ほど鳴る。省吾は身を乗り出して三発撃ち返した。
「何言ってんの。それなら自分で返せばいいじゃない」
ユジンが食ってかかった。
「省吾が借りて、省吾が返すんでしょう。だったら省吾が生きて返すことを考えなよ」
「それができないから、こうやって頼んでいるんだろう。あいつらを相手にしたらそれこそ」
そこから先を口にする前に、ユジンの手が省吾の襟首に伸びた。引き寄せ、省吾の喉を締め上げるような格好になった。
「ちょ、ユジン何を」
「どうしてあんたはいつもそうなの」
今日はやけに襟を絞められることが多い――などと考えている暇もなく、ユジンは省吾の顔をのぞき込んでくる。
「自分には、すべてが関係ないかのように振る舞って、それでも結局は戻ってきてくれる。でも省吾、それでもあなたはいつも最後にはどこかに行っちゃう。私はあなたを仲間だと思っても、省吾はそんな風には思っていないみたい」
潤んでいた、その目と声とが。ユジンの表が、泣きそうな輪郭をつくり、省吾に迫った。
「どうしても、省吾は私たちを仲間だと思ってくれない。何で言ってくれないの? 一緒に死んでくれって。そのぐらいの覚悟、私にはないって思っているの?」
「言えるわけがないだろう」
省吾はユジンの手を取った。
「惚れた女に、死んでくれだなんて」
「え?」
一瞬の間があった。
省吾はユジンの体を抱き寄せた。ユジンの頭がすっぽりと胸中に収まり、その華奢な肩に手を回した。その一時だけ、世界から音が消え、腕の中に確かな暖かみが、それだけが主張してくるのを感じた。
「まっすぐ、逃げてビルの中に入れ。奴らは深追いはしない、お前は連中にマークされているわけじゃないから」
じんわりと胸の中で熱さが増す。涙が襟元を濡らしてゆくのがわかる。
「あとは裏から逃げろ。雪久か、イ・ヨウと合流できるまで。奴らはお前のところまでは来ない、行かせないから」
最後に強く、引き寄せた。
「その刀は任せた。お前しか託せない、だから」
突き放した。閃光弾を左手に、拳銃を右手に。省吾は壁から飛び出した。閃光弾を投げ込み、銃撃を加える。サブマシンガンの銃声が迎え入れ、幾筋もの火線の中に飛び込んだ。
その背中を、見送ることなくユジンは走った。省吾とは正反対の方向に逃げ、ひたすらに走った。あふれてくる涙が、視界を曖昧なものにして、振り向きたい衝動を必死にこらえ、もうそれしかないと思いながら。
ただ走るしかなかった。
銃声が鳴っていると、おぼろげにそう感じ取る。サブマシンガンとカービン、9ミリをばらまき、時折鳴り響く単発の銃声が、やけに甲高く聞こえた。
雪久がビルから出てきたとき、『STINGER』の遊撃隊と『OROCHI』の襲撃部隊が集まって来た。負傷した人間、死んだ人間を除けば、まだ動けるものの頭数だけは多数といったところだ。
先頭をイ・ヨウが駆けてくる。手斧を携え、何かに警戒するように両手に保持していた。
「孔飛慈は」
開口一番に、そう訊いてきた。雪久は親指をビルの方に向けて言った。
「殺ったよ。あそこに血の痕があるだろ」
「血じゃなくて油じゃんか。肝心の死体がないけど、どこにいったんだ」
「俺が知りたいぐらいだ、そんなの」
変な邪魔さえ入らなければ。そう吐き捨てる雪久に、イ・ヨウは何かを察したらしくそれ以上は言わなかった。
「殺ったんなら、問題ない。奴ら片付けたんなら俺らすぐに西に乗り込まなきゃならんが……真田、どうしているんだ? 孔翔虎は」
「かたがついたなら、それで良いがあいつも手こずっているとなると」
そして気になるのが銃声だった。襲撃部隊は誰一人として欠けていない、孔翔虎が銃を使うとは思えない。誰かが、複数撃っていて、そしてその銃声は省吾と孔翔虎がいる辺りから響いてきている。
ギャングどものそれではない、無駄な銃撃などいっさい加えない正確な射撃だと知れた。銃声は、連射を断続的に切ったように轟き、フルオート撃ちっぱなしで撃つような素人の銃撃とは違う。
「黒服どもが、出張ってきてんのか」
雪久がうめくと、イ・ヨウは怪訝そうに顔をしかめる。
「んだけど、南辺に出てきてる黒服なんて、どれだけのもんよ。ほとんどはヒューイの護衛か、いてもそんなに数はいないだろ、ここいらじゃ」
「じゃああの銃声はどう説明すんだよ」
「まあ黒服、だよな。ああいう撃ち方は……」
と、そのとき、ビルの陰から人が飛び出してくるのを見た。雪久はとっさに身構え、部隊の少年たちが銃を向けた。
「待て、待て。よく見ろよ」
イ・ヨウがあわてて制する。駆けてくる人間を、雪久は目を凝らして見た。ユジンが、足を引きずるような格好で駆けて来るのを認める。
「ユジン、無事だか?」
イ・ヨウと数人が駆け寄ろうとした。
ユジンは一直線に雪久のもとに走って来た。まるですがりつくように、雪久の胸に飛び込み、両手で雪久の服を掴み、胸に顔をこすりつけた。
「……けて、雪久」
声がこもって、よく聞こえない。もう一度ユジンが言う。
「助けて、助けてよ、雪久」
雪久は一旦ユジンの体を引きはがした。涙で濡れたユジンの顔をのぞき込んだ。
「どうした、何があった」
「省吾が、省吾が」
幼子のように、しゃくりあげ、ユジンは肩を震わせ、涙声で言う。ここまで我慢したものが、一気にこみ上げてくるかのようだった。
「省吾が死んじゃう、死んじゃうよ。助けて、早く助けて!」
「落ち着け、まずどういうことか説明を」
ふと爆音が響いた。
イ・ヨウと顔を見合わせた。イ・ヨウは気色ばみ、表情を固くして頷いた。襲撃部隊に指示を飛ばし、銃声の方に駆け、雪久もそれに続いた。
感覚がない――掌も、足も。痛みらしきものを超えて、しびれが全身に蔓延していた。
撃ち抜かれた足と、皮膚を突き破る骨と。銃撃に晒されて、銃弾を受け、重たい鉛は腹を突き破り、傷口から赤黒い血と腸をあふれさせている。どうにか、意識を保っている状態だった。今、省吾の手には己の臓物が収まり、腹から出てくるのを押さえている。ショッキングピンクに彩られた腸が、現実のものとしてはあまりにもかけ離れているように思われた。
「くそっ」
壁に身を預けながら見る。スーツの男たちが、銃口を向けている。背の低いビルの中に逃げ込んで10分ほど経ち、追いつめたにも関わらず踏み込んでこないところを見れば、いつでも殺せるという余裕があるのだろうか。
否、本物のプロならば余裕があろうとなかろうと、とどめを刺すときは迅速に刺す。戦いの最中に手をゆるめることは、どんな相手でも行わない。ならばあの男たちはそこらのギャングと変わらないのか、もしくは。
「慎重には慎重を、ということか」
手近にあった鉄パイプを手に取った。片手で持つには長すぎるが、もう握りこむのがやっとだった。
「泣けてくるね。それほどの相手と、見做してもらえるとは」
立ち上がる。足に力が入らず、体が崩れる。押さえていた腸がまた少しだけ腹から出る。血と粘液とがこぼれ、自らの臓物に自分で触れる。妙な気分だ、苦痛や絶望というものが襲ってくるわけでもなく、案外冷静にそのことを見ている自分がいる。これから死ぬのだという事実も。
別に大したことではない。今までだって死ぬような目には遭ってきた。どこかでくたばるものと思っていたし、それが早いか遅いかの違いだけだ。
ただ、それでも気がかりだった。
(ユジン――)
すっと、体の力が抜け、その場にしゃがみ込む。腸が50センチほどもにゅるりと這い出、地面にぶちまけられた。腸が出てこようとも、そんなことはもうどうでもよかった。最後に、ユジンが逃げ切れたのか。それだけが、頭の中にあった。
無事か、どうか。ユジンが生きていれば、それでいいのだと。
銃声が弾ける。土壁に着弾する。顔を少しだけ傾けて見る。男たちが近づいてくるのがわかる。
省吾は服を細長く裂き、腹に巻き付けた。腸を押し込めてきつく縛り、腹の中に戻す。さし当たって動ければそれで良い、生き残ろうなどとは思わない。
「簡単に殺れると思うなよ」
一歩、進み、鉄パイプを中段に構える。もう半歩進んだところ、急に視界が霞がかったように真っ白になった。膝が抜けて、なすすべなく省吾は崩れ落ちた。
「簡単に、など……」
力が入らない、手も足も。それでも行かなければならない、ならないというのに。
感覚を失った腕の中に、一つの感触が生まれた。
柔らかい輪郭を抱く心地、小さな肩と震える背中、折れそうな線を包む、そんな感触。紛れもなくユジンの身体を抱き、引き寄せた。それそのものだった。
(やめろ)
胸の中に彼女の残り香が、腕の中に柔い肌が、指先に絡まる彼女の長い髪の質感が、唐突によみがえる。首筋にふと感じた吐息、唇が省吾の耳元に触れたときの甘さと――そんなすべてが、現実の物として。
(やめろ、こんなときに)
覚悟を、決めたばかりなのだ。腕と足を打ち抜かれ、腸を飛び出させ、背水の陣で奴らに挑む、その最中なのだ。もうあれで最後のつもりだった。思いを告げて、それで終わりのはずだった。
なのに、消えてくれない。彼女のすべてが。空を抱くすべてがユジンであり、感覚を占める全部が、離れ難い彼女自身だった。
「参ったな、これは」
我知らず、省吾は苦笑した。やっとこ立ち上がり、鉄パイプを向けて刺突の体をとる。
ずっとそうだった。生きるためには刃を取り、生きるためには誰かを殺す。ただ生きることにそれほどの意味などなかった。死ぬことなんて当たり前だと思っていた。
それでも今は、これまでの覚悟など言葉だけのものだったのかと思う。今はこんなにも、未練を残して。
「参った、本当に」
その未練を引きずりながら対峙する。スーツの男たち。壁から飛び出し、省吾は銃撃の前に身を晒した。発射炎がいくつも咲き、省吾の身体に銃弾が突き刺さる、腕、肩、腹と胸。それでも省吾は止まらない。だけども徐々に、銃弾が切り、刻んだ。
「生きたいよな、ユジン」
銃弾が省吾の膝を撃ち砕いた。省吾は倒れ込む、砕いた膝から骨が突き出、まるで現実味のない赤黒い液がこぼれ落ち、地面に染み込む。
「こんな思い抱えたまま死ぬぐらいなら」
光が見えた。光が、視界を覆い尽くす。身体に銃弾が突き立ち、しかし痛みなどとうに失せている。ただ光があり、銃声が遠のき。
やがて暗転した。
落陽が差す。最後の最後まで燃え上がった、命たちのすべてを象徴するように、赤赤と照りつけた夕陽は、それでもすべての終わりであるかのように消えゆく。戦場の空気と、銃撃の嵐と、全部が全部幻であるかのように。
やがて夜が舞い降りてくる。
第十四章:完