第十四章:42
孔翔虎の拳が目の前にある。顔面を打ち抜く直前、省吾の鼻先で止まり、そのまま膠着する。
省吾は刀を握りしめる。突き出す刃の行き先を見据える。剣先が孔翔虎の右目を貫き、切っ先が完全に埋まる。
「お、おおお……おお」
孔翔虎が唸りをあげた。おう、おう、とまるで獣のような声音でもって喘ぎ、震える左手で剣先を掴んだ。
省吾は剣を、さらに押し込める。握る手に力を込める。
「たいしたもんだ、あんた」
省吾はより深く剣を押し込めた。刃が半ばまで食い込む。黒っぽい液が傷口からこぼれ落ちた。
しばらく動かない。膠着し、押し付けた。ややあって省吾は剣を引き抜いた。一瞬の間の後に、血のような油が流れ出る。吹き出す油が霧散し、空に曳く。
孔翔虎の巨体が傾ぐ。突き込んだ姿勢のまま倒れ伏した。前のめりに倒れる間際、孔翔虎の目がこちらを見て、やがて永遠に目に映ることはなくなった。
油の血溜まりの中に伏せる孔翔虎が、完全に動かなくなったことを確認する。何度も足の先で蹴り、鉄の躯が再び起きあがらないことがわかると急に全身から力が抜け、膝から下が消失したような心地になった。その場にしゃがみ込み、膝をつく。
「省吾、省吾」
ふとユジンが降ってきた。心配そうに見下ろしてくる、その目とかち合うに、何とか省吾は立ち上がろうとする。が、足に力が入らない。
「気がついたのかユジン」
ユジンはヨシの肩を借りて立っている。息が荒く、痛みを堪えている面だった。そうまでして来なくても良いのに、としかし省吾はそれを発することはなかった。喉元に反吐がこみ上げ、血が混じった胃の酸をぶちまけてしまう。
ユジンは省吾と同じ目線になった。省吾の背中に手をやり、労わるようにそっとなでる。
「省吾、無事で」
ユジンが言うのに、省吾は立ち上がり、口元を拭った。
「一度と言わず二度までも、この男にやられたとあったら、どうしようかと」
「二度もやられるか。それより俺は、お前がどうにかなりそうで冷や冷やしたよ、そんな」
ユジンの肩が、小刻みにふるえている。所々すりきれた傷口を晒し、打撲の跡は生々しく、白い肌に上書きされ、内出血の紫色が二の腕に痛々しく残っている。
「そんな体で、よくやり合えたものだ。俺が動くなと言ってもどうせ動くだろうとは思ったけど」
「あなたがやられそうだったから」
ユジンはふと顔を伏せた。
「このままあなたを殺させるわけにはいかないって思って、だから」
「そのためにお前が殺されるかもしれなかった」
変に苛立っていた。すでに敵はなく、脅威はどこにもないのだから苛立つ理由などどこにもないのだが、省吾は問いつめざるを得ない。
「俺が来たときも、お前は戦える状態じゃなかっただろうに。あんまり無理をするものじゃない」
ユジンは――おそらく疲れのせいもあるのだろうが、顔を伏せたままだった。ヨシはばつが悪そうに、二人の顔を見比べ、省吾には訴えかけるような視線を送る。
「でもまあ、助かった」
省吾の言葉に、ユジンは顔を上げた。意外そうな表情で省吾を見上げる。
「ユジンの最後の一撃がなければ、倒せたかどうかわからない。お前が目を潰しておいてくれなきゃ、そこに転がっていたのは俺の方だったかもしれない」
胃には何も入っていないが、喉が勝手に収斂してくる。体の中の臓器という臓器が暴れ回っているようだった。あれだけ胴を打たれたのだ、たとえボディーアーマー越しであってもそのダメージは計り知れない。
だが、それでも最後に立っていられたのは省吾の方だっった。途中何度も死にそうになっても、結局は救われた。それが自分のせいばかりではないことも。
「私も、悪かったよ」
ユジンはばつが悪そうに言った。
「あなたが警告してくれたのは、それだけ敵が強大だってこと知ってのことだったのでしょうけど。あなた一人に背負い込ませることはできないと思ったから」
「それこそ、お前一人で背負い込むことなんてないだろう」
「え?」
ユジンが不思議そうに小首を傾げた。
「まあ、つまりだ」
省吾はついと顔を背け、もごもごと口ごもりながら言った。
「別にお前だけじゃないだろうに、求めがあれば俺だって、その……手を貸すぐらい、何てことはない。俺はまあ、『OROCHI』じゃないけどあんたには借りがあるから、そいつを返す分には……」
咳払いを一つ、した。
「お前を助けるぐらいはわけないんだから、もう少し頼れってことを」
言いながら再びユジンの方に視線を戻す。まるで呆けたように、省吾を見つめていた。
「えっと、その」
その顔が、段々と赤みを帯びて、目を丸く開き、たっぷり10秒ほど省吾の顔を凝視してから顔を背け、そして。
「ごめん、あとありがとう」
まるで予期せぬ、小さな声でそう言った。
「ああ、別に俺はお前を責めているってわけじゃなくて」
予想以上にしおらしくされると、何か急に罪悪感がおそってきて、省吾は何とかしてフォローしようとするが適当な言葉が浮かばない。
「いや、何というか。あんたに助けられたのは俺も同じことだから、別にそれはいいんだけどさ。まあ何だ、俺はそのための準備ぐらいはある。もう少し、人を頼れ。お前の悪い癖だ」
そう伝えることが、やけにひっかかるようだった。ユジンは呆けたように省吾を見つめ、次に気恥ずかしそうに顔を背けた。
「まあでも、助けられておいてこんなこというのも難だ。ともかく助かった、ありがとう」
省吾はユジンの肩を軽くたたき、ヨシの方を向いた。
「お前もな、ヨシ」
ヨシは自分に矛先が向けられると、ぎくりと肩をふるわせた、ように見えた。
「あのタイミングで、刀渡してくれなきゃ俺は死んでた」
「あー……別に俺は、何も」
ヨシはばつが悪そうに、頬をかきながらそっぽを向いていた。
「お前のお陰で助かった、ありがとう」
省吾が言うとヨシは、今度は珍しいものでもみたように目を見張った。
「おい、ユジン。目の前のこいつ、本当に省吾なんだよな?」
「んー、見た目は同じに見えるけれど。もしかしたら頭、打たれた?」
「なら大事だ。早く医者見せないと。孫龍福を」
「あの子は鍼治療専門だから。頭の方は何ともならないと思う。」
「お前ら本当に失礼な奴だな」
省吾が憮然としているに、ヨシは笑いながら言った。
「全くあんたにゃ色々驚かされるよ。関心ない振りして、結局はこうして駆けつける。ぜんぜん倒せないかのように言っておいて、あっさり機械をやっちまうんだからなあ」
「さすがに今回ばかりは、あっさりとはいかなかった。下手を打てば、そこに転がっていたのは俺の方だったかもしれない」
横たわる孔翔虎を見た。首筋を晒してうつ伏せている後頭部の肌がえぐれて、中の機械がむき出している。
唐突に、省吾は思い出した。あの女に言われたこと――倒しただけでは完了ではない。
「それより、雪久の方が心配だよ」
そう、ヨシが言って、
「早くみんなと合流した方がいい。ここに長居は――何してんの省吾」
ちょうど省吾は、孔翔虎の首筋にナイフを突き立てるところだった。最後の最後まで使わなかった鎧通しは、このときのためにある。
「何って」
「そいつはもう死んだんだろ? じゃあ止めなんて刺さなくても」
「止めじゃない」
機械の首に突き立てる。この鉄筋の骨格を切り開き、脳髄に至る部分にそれはあるはずなのだーー彼らの要であるチップが。それを回収して初めて、省吾の仕事は完了となる。
「じゃあ何だってんだよ。いたぶり足りないとか?」
「いたぶるとかじゃなくてだな……」
だがヨシやユジンに、本当のことを話すわけにもいかない。どう説明したらよいのかと、考えあぐねていると、横からユジンが口を挟む。
「そいつの部品でも欲しいの? 省吾」
「何でそう思う?」
「やけに慎重に切り刻んでいるから。止め刺すならそのままぐさりといくのでしょうけど」
「お前には関係ない」
手を動かす。鉄の筋肉をかき分けた。
「ともかくそこで待っていて、もしくは先に行ってくれ。すぐに終わらせる」
「省吾」
ユジンの口調が変わった。真に問いつめるという心づもりが透けて見える、断固としたものに。省吾はユジンの方を見る、刺すような視線に射抜かれる。
「省吾、あなたは何をしたいの?」
「何って、だから」
「倒れている相手に、追い打ちをかけるのがあなたの趣味? もう事切れている敵に」
ユジンは省吾の手を取った。ナイフを握る手を。それ以上は許さない風情で。
「一介のストリートギャングが、随分道徳的だな」
「私はギャングになったつもりはないよ。それに、死んだ相手に刃を突き立てるなんて、ギャングじゃなくても異常なことだって思うわよ」
「こいつは機械だ」
「機械でも」
ユジンは真に、省吾の意志を確かめるかのような目で見据えてくる。
「そう思うなら、それでいい」
省吾は視線から逃れるように、手を振り払った。
「だがこれは必要なことだ。追い打ちとか、いたぶるとか、そういうことじゃなくて」
「どう必要なの?」
「それは」
「私にも、言えないこと?」
その顔におそれの色はなかった。ユジンは、ただ省吾を見据えて、その目に怒気をはらんだり、なにがしかの感情がこめられているわけでもないのに、直視できないほど痛い目線だと思った。
「私は、省吾のこと仲間だと思っているし、だから助けた。省吾は私のこと仲間だと思ってくれたから、助けてくれたのだと、思ったけど」
「それとこれとは違う。こっちはこっちの事情があるのだから、お前は余計なことを」
「あのときも、きっとそういう風に思ったんだろうね、省吾は」
ユジンの目が鋭さを増した。省吾の背中を冷たいものが走った。
「何だよ、あのときって」
「あの妙な女を、差し向けたとき。動くなってあの女から聞いたけど、どうして動いちゃいけないのかとか、どうすればいいとか、全く伝えず。あなたは結局、一人で自己完結しちゃう」
ヨシは、省吾とユジンとの間に割って入ろうかと、判断しかねているようだった。二人の顔を見比べて、おどおどとしている。
省吾はナイフを動かす手を止めた。
「それが、何だ」
「ねえ省吾、もしかしてそれも、あの女と関係あるの? 別に仲間のすべてを知りたいとか、知らなきゃいけないとか言わないけど、せめてあなたの行動の意味を教えてよ。もし、私のことを少しでも、仲間だと思うのなら」
「いや、それは」
顔を背けた。誤魔化しようのない目をしていると思った。もしそのままつられて洗いざらい――今までの経緯と目的を告白すれば。
それを飲み込んだ。もし口にすれば、もはやここにはいられないのだ。取り決めとして、という意味もあるが、一番はユジンが省吾のことを知れば、もはや仲間だのと思うことはない。
「俺は」
だが、ユジンは仲間だと言った。省吾のことを仲間だと思うこの女を、騙し通すことが急に後ろめたいものに感じられた。ユジン達とは仲間ではない、目的を異にするものは仲間とは言わない。だからこそ距離を置いていた。だが今、ユジンが省吾を仲間だと言うのならばーー俺はこのまま口を閉ざしたままでいいのか。
省吾はナイフをおろした。
「ユジン、訳はあとで話す」
その顔を見ないままに。
「こいつの体の一部が、今はどうしても必要なんだ。だから――」
顔を上げた。口を開いた。
いきなり、銃声が轟いた。




