第十四章:41
体を揺さぶられ、名前を呼ばれる。目を開けると、ぼんやりとした顔の輪郭を視界にとらえた。そいつの顔を、目を凝らしてよく見ると、曖昧な線がはっきりとつながり、段々とその顔が整ってゆく。
「ユジン!」
声がした。そこではっきりと目を覚ます。ヨシが心配そうにのぞき込み、ユジンが目を開けるとそれが安堵の表情に変わる。
「死んだかと思った」
「私もそう思ったよ」
体を起こそうとしたが、体中が悲鳴を上げた。背中と腹を順当に打ち付け、胃と腸がねじくれたような痛みを感じる。
「しばらく動けないよ、それじゃ。あんた相当やられているんだから」
「そんなこと言ってられないでしょう」
立ち上がる。その瞬間、体内で痛みが爆ぜる。肺腑に響いた骨のきしむ音を聞いた心地になった。たまらずユジンは膝をつく。
「だから言っただろうに。無理すんなよ」
「このぐらいは……」
額に脂汗を浮かべるユジンを、ヨシが押しとどめた。
「いいからそのままにしておけって。あとは省吾に任せておいた方がいい」
「省吾が、って」
ヨシの背中越しに見る、数十メートル離れた場所で二つの影が向かい合っている――孔翔虎と、何故か刀を持っている真田省吾の姿が。省吾は脇構え、孔翔虎は左半身に構え。拳を向けている。飛び出す体勢、右半身を引き、最大限腰を落としていた。伏せる虎、嫌というほど見せ付けられた、八極拳の構えを。
「さっきよ、俺が刀持ってったんだ」
ヨシはユジンの肩を押さえつけながら言う。
「刃じゃ機械に通るかわからないけど、何の武器もないよりゃましだろうって。舞から頼まれたんだ」
「あの子がなにを頼むって?」
「だからよ、あれ。あの刀。もともとあれは舞のもので、都度貸し出すって取り決めらしい。俺にゃわからないが」
刀は、省吾の手の中に収まり、構えを取る姿は一番さまになっているように思えた。今は霞の構えを取っている。正眼の構えよりも、剣先を傾け、相手の左目につける。防御に優れた形なのだと、以前省吾が言っていたような気がする。
じりと、半歩ずつ間合いを詰め、刀を隠したままの状態で近づいてゆく。舞から貸し出されているという刀を――。
「何でわざわざ、そんなことを」
「知らんよ、だから。本人に聞けばいいんじゃないか」
「聞けるわけないでしょ」
背中が痛む。肩と首が軋むように悲鳴を上げている。そんなことも気にならない。ユジンの目は、どうしても省吾の刀に行く。そんなことを気にかけている場合でもないというのに。
その刀が真横に振り抜かれた。
横薙。省吾の踏み込みとともに。真一文字に斬る。
孔翔虎、動く。手刀で斬撃を弾いた。手刀を拳に転じる、沖錘放つ。拳が過ぎ去る、省吾の頬。体を転じて回り込む、孔翔虎の右側。
すかさず孔翔虎、
体を向き直らせる。右半身を引いて大きく下がった。
(庇ったな)
見えない右側に回り込まれることを恐れている。それと悟られないように装ってはいるが、誤魔化しようがない。無意識か意識的かわからないが、右を守る構えは、どうしても今までとは違ってくる。
武術家だと思った。紛うことなき武術家だ、孔翔虎の所作にいちいち染み着いている。人一倍臆病で慎重、たとえ体を機械化してあっても癖は抜けない。臆病で慎重――勇猛さとは無縁の所作を。
省吾、中段に構える。
孔翔虎が駆ける。低く地を這う歩でもって飛び込んだ。
省吾も動いた。影が二つ近づき、交わった。
刀を返す。
刺突。孔翔虎の喉を狙う。
孔翔虎の縦拳が突き出される。刃と拳が交錯する。
転身、省吾は右に回り込んだ。死角に死角にと入り、孔翔虎の懐に潜り込む。孔翔虎は省吾を追うように体をひねり、回転し、省吾と相対した。
崩拳打つ。
離れる、省吾。下がると同時に孔翔虎の蹴りが飛んだ。頬骨につま先が当たる、痺れを残す。
「せい!」
省吾が発する。両断に斬りつけた。
剣先流れる。孔翔虎が蟷螂手で刃を弾いた。その手のまま孔翔虎は省吾の手を押さえ、体を引き寄せ、腕を絡めて腰を払った。
一瞬の浮遊。天と地、両方を見せつけられ、省吾は地面に叩きつけられた。起きあがる瞬間に功夫靴の裏を見る――慌てて飛び起きる。地面に孔翔虎の足がめり込む。
「しぶといっ」
片手で剣を持つ。逆手に構えた。
孔翔虎の蹴り――低い斧刃脚。膝を折り割り、踏みつける地面を擦るような蹴りを打つ。
膝に届くより先、省吾は飛び上がり、蹴りを避け、避けると同時に逆手に切りつける。孔翔虎がひるんだ、その間隙を突き、右回りに回り込む。死角に、孔翔虎の目の届かない場所に。
刺突。
突き刺さる。孔翔虎の肩だった。忌々しく、孔翔虎が向き、向き直ると同時に蹴りをくれる。省吾はすぐに離れる、蹴り足が省吾の鼻先を過ぎ去る。
(簡単には行かない)
3歩離れた。互いの攻撃が届かない、ぎりぎりの距離だった。そこから一歩でも踏み込めばたちまち攻撃圏内に入る。ただの一歩で簡単に死を踏み越える。そんな間合いだった。気迫と殺気がせめぎ合い、互いに圧しつける空気が拮抗する場所。
互いの領域は死地であり、しかし踏み込まなければ決して届かない。どちらが動き、仕掛け、どちらが先にその領域へと踏み込み、相手を打ち砕くのか。長い、時間をかけてそのタイミングを、推し量る。
(長くかけられない)
半歩、省吾は引いた。右足を下げて、同じように剣を後ろに引く。
(次だ)
もう何度この構えをとったことか。完全に身を晒す脇構え。必死であり、必殺でなければならない剣。身を守る全てを捨て去ると同時に、一番必要な早さを手にする、変化の構え。命と引き換えに相手の命を奪うという気概を、形にした位だった。
(次で決める)
ユジンが切り開いた道だ。無駄にはできない。ここでが殺し損ねれば、ユジンは、ほかの連中はこいつにやられる。ここで仕留める、仕留めなければ。
深く息を吐いた。
腹の底から余計なものを全て絞り出してやる意識。呼気を、細く、ゆっくりと吐き出してやることで、余計な力も抜けてくる。
細く、弱く。
それでも丹田には、吸気を落とし、気を溜め込む。
孔翔虎を見やる。低く低く、腰を落とし、左拳を突き出し、対する。拳の圧力は、直接的だった。どれほど傷を負ってもそれは変わらぬようだった。
(武術家、か)
ふとこの男に、初めて愛着のようなものが沸く。敵であっても、憎悪に彩られていたわけでもない。もしこの男のいうように――同じ生身として対峙したのならば。そんな考えが頭をよぎった。敵同士、立場の違うもの。そうではなく、純粋に武術家として立ち会うことがあったとすれば。
そんなことはあり得ないとは知りながら――。
長く、対峙した。
半歩詰めた。寸刻みで、歩を刻む。徐々に間合いを近づけさせる。あと1歩、半歩。残り数メートル。
飛び込んだ。
一気に踏み越えた。省吾はひたすら前に、孔翔虎に向かった。
孔翔虎が打ち出す。沖錘が貫く。顔面に伸びる、その拳めがけて省吾は飛び込む。
拳が省吾の右半面をかすめた。耳を打ち、頬をかすめ、皮膚が焼き付く。
脇を抜ける。影二つすれ違う。
背中合わせとなる。すかさず、振り向く――同時。突き出す、拳と刃――交わる。
衝突。
鈍い衝撃が、駆けた。