第十四章:40
「正気か、貴様」
孔翔虎は低くうめくように言った。
「悪くない条件だと思うがな」
「条件どうのこうのじゃない、お前と同じになるのが嫌だっつてんだよ。それに」
ちらりと孔翔虎の後ろにいるヨシの姿が見えた。ヨシは完全に腰砕けといったようで、その場に座り込み、省吾の方をみている。何かを期待する、そういう目だった。
(そんな風にされたらなあ……)
我ながら損な性分だ。そう思いつつも、それを止めようとしない。誰に似たのか、などと考える。
「ここまでされちゃ、どうしようもない」
孔翔虎がゆっくりと構えを取るのに、省吾もまた構えを変化させる。中段につけた剣を後ろに引き、右脇に構えた。金の位、決死の脇構えでもって。
距離を縮める、半歩から一歩。彼我の間は、5歩。それでも十分に近い。
「考え直す気はないか」
「くどい」
もう一歩。それだけ圧が強まる。孔翔虎の気迫に、押しつぶされそうになる。
「そうか――」
孔翔虎が飛び込んだ。
一歩、それですべてを飛び越えた。巨体ごと拳が貫いた。
避ける、省吾。体を開き、孔翔虎の脇をすり抜ける。影が交わり、一瞬だけ背中合わせになる。
振り向く。
横に振り抜く刀。刃が届く、よりも早く。孔翔虎は右の手で省吾の手元を押さえた。斬撃を止め、そのまま省吾の足をかけ、体当たりをする。
省吾が倒れた。
倒れたと同時、孔翔虎が踏み込む。省吾慌てて飛び起きる。
前蹴り。省吾の顔面に伸びる。
省吾かわす。腰を落としてやり過ごす。それと同時に切りつけた。刃の先が孔翔虎の胴を裂き、人造皮膚を削る。
離れる、省吾。追う、孔翔虎。距離が再び縮まる。
拳撃放つ。孔翔虎の沖錘が伸びる。それにあわせ省吾、刺突した。
拳と剣が交わる。互いに互いの軌道を逸らした。
剣先が孔翔虎の首筋をなぞる。拳は省吾の耳元を掠めた。拳の圧が、鼓膜に直接響く。そのまま押し込めるに、“焔月”の鍔と鉄の肘が、噛み合い、押しつけ、せめぎ合った。
離れた。
構えた。省吾、八相から打ち下ろす。孔翔虎の肩を斬った。
刃が埋まる。鉄の体に食い込む、堅い手応え。省吾は目を見張る。
「崩っ」
気勢。それと伴に孔翔虎の蟷螂手が躍る。刀を弾き、そのまま突きを放つ。省吾が下がったところ、孔翔虎が体当たりをかました。
頂肘が、胸に突き刺さる。胸郭を押し、息が詰まった。体を崩した省吾に、鉄の手刀が襲いかかる。体を開いてかわし、そのまま省吾は距離を取った。
「くそっ」
息を吐いた。爆発しそうな呼気だった。胸骨の当たりが呼吸の度にずきずきと痛みを主張してきた。
(このままじゃさっきの二の舞)
いくら武器を手にしたからと言って、まずはあの鉄の体を破る方法を考えなければならない。刃なら、どれほど鋭くてもそのまま切りつけたのでは、せいぜい表面の皮膚を切り刻む程度だ。
(ならば)
省吾は左手を離した。右足を大きく引き、左真半身になる。刀を頭上に掲げ、左手を切っ先に添えた。
猿回の構え。相手から見た場合、もっともこちらの身を狭く見せる。狙われる表面積が正眼や上段よりも格段に少なく、またこの構えはほかの構えに比べて自由度が高い。左右に、斜めに、対応できる。まさしく猿が回るがごとくに。
孔翔虎、左半身でにじり寄る。距離、二歩と半分。この間合い。
飛び込む、崩拳。拳を突き出す。省吾もまた、前に出た。
踏み込む、刀を突き出す。半身のまま孔翔虎の目を突いた。
避ける、孔翔虎。首を傾け、刃をやり過ごす。刃が孔翔虎のこめかみを傷つける。
すれ違う、省吾と孔翔虎。同時に向き直る。
刺突。省吾の諸手突き。孔翔虎の肩に刃先が刺さった。
孔翔虎の崩錘。巨腕がしなる。省吾の鼻先をかすめるに、戦慄する。省吾は刀を引き抜き、大きく退く。刀を正眼につけ、孔翔虎もまた構え直した。
再び膠着。省吾は中段に構えたまま、歩を進めた。孔翔虎は構えをとったまま動かない。省吾が突いた肩口から黒っぽい液がにじんでいる。
(ダメか)
省吾は刀を、霞に構えた。切っ先は、孔翔虎の左目に狙いを定めていた。
ふと、刀身が曲がっていることに気がついた。ほんの少しの歪みで、見た目では分からないほどだが、それでも刀の重心の変化で曲がっていることが分かる。無理もない、日本刀というものは曲がりやすいものだ。その柔軟さこそが、鋭さと頑丈さを併せ持つ刃物の完成形態とまでいわれる形に進化させたのだから。
(やたらに突けるものでもない、か)
再び構える、猿回に。刀を頭上に掲げた。
出る。まっすぐ向かった。
孔翔虎の蹴りが襲った。つま先が迫るのを省吾は身を転回。危うく避けるのに、鉄の手刀が打ち下す。
入り身になった。手刀が省吾の目の前を過ぎた。
追撃する、孔翔虎の沖錘が突き込まれる。
省吾、左手を差し出す。孔翔虎の突きを受け流した。掌で突きの軌道をやんわりと逸らしてやる、それだけで突きが流れる。孔翔虎が頂肘を突き出すより先に刀の柄尻をかち上げ、孔翔虎の顎を捉えた。
孔翔虎の体が傾いだ。
刀を持ち替える、逆手。そこから一気に切り上げた。剣先が孔翔虎の面を縦に切り裂く、皮膚の表面を切る。
下がる、孔翔虎。追う、省吾。逆手に握ったまま刺突した。
喉。
伸びる鉄の蟷螂手が寸前で弾く。そのまま手を拳に変化させ、突きを放った。省吾は左の手刀で受け流すのに、さらに孔翔虎が打ちつける。右、左、掌と拳、貫手を連撃で突き出し、両の手がまるで速射砲であるかのように次々と繰り出した。重い八極拳の突きとは違う、早い拳撃。二度三度、省吾の顔面に届くのに、省吾は刀の柄をかち上げ、受け流し、捌く。突きが手刀に、手刀が掌打に、めまぐるしく変わり、正確に急所を狙ってくる。
飛び下がる、突きの圏内から省吾は逃れた。一気に間合いを取ると、ふと足下に違和感を覚える。
右足の下。鎖分銅の切れ端だった。孔翔虎に引きちぎられた契木の残骸。
孔翔虎が向かってくる。近づいてくる、踏み越える、間合いの内。
剣を下げる。剣先に鎖の端を引っかけた。
降り上げた。
剣先に絡んだ鎖が、孔翔虎の目の前に飛び込んでくる。孔翔虎の顔面打ち付けるに、一瞬だけ隙が出来る。
その間隙。
「せいや!」
気勢、それと同時に刺突。剣先が喉を狙う――わずかに逸れる。刃が首筋を滑り、人造皮膚に真一文字を刻みつける。
再びの突きを、繰り出すよりも先に、孔翔虎が前蹴りを繰り出して来た。つま先が省吾の耳を掠める、金属が破裂するような音を耳元に受ける。さらに崩錘、掌打を連続で繰り出すのに、省吾は飛び下がり、受け流し、間合いの外に逃れた。
(まだ足りない)
刀を霞に構えると、それに合わせるように孔翔虎も斜に構えた。左足を前に出して、右半身を大きく引いた構え。そのまま一定時間、にらみ合った。
前に出る、二人して。省吾の剣と孔翔虎の拳が交わった。
ぶつかる、直前。省吾は体を開いた。
空を切る――拳。省吾のいた虚空を突き込んだ。
孔翔虎の面に、狼狽が浮かぶ。省吾の姿を追う――右。拳の外に、省吾の姿がある。真半身に切り、拳を避けると同時に、間合いに踏み込んだ省吾が。
踏み込んだ、省吾。体を密着させ、右手を孔翔虎の顎にあてがい、押し込んだ。
上体が逸れた瞬間、省吾はさらに密着する。孔翔虎の足を払った。巨体が投げ出され、宙を舞い、地面に落ちる。 横たわる、鉄の体めがけて剣を突き下ろす――わずかに早く、孔翔虎が飛び起きる。剣は地面に突き立った。
距離を取った。孔翔虎は左半身のまま大きく下がる。初めて、孔翔虎の面に警戒の色が浮かんでいた。
(今の感覚)
捨て身のつもりで踏み込み、拳を打ち出してくるのと同タイミングで体を開いた。その程度であるが、若干の違和感があった。数秒の間、まるで孔翔虎は省吾を見失ったかのようになっていた。拳が流れたことに対して、それが心底意外であるかのような表情になり、いとも簡単に技にかかった。
(あの程度で)
孔翔虎はまだ動かない。五メートルほどの距離を保ったまま、構えていた。さっきまでならばこの程度、一足飛びで踏み越えてきたはずだが。
省吾は脇構えに取った。身一つ、飛び込んだ。
踏み込む、間合いの内。拳の圏内。
突き下ろした。孔翔虎が猫手を叩きつける。省吾踏み込み、さらに奥。孔翔虎に体当たりする要領で飛び込んだ。
すり抜ける、孔翔虎の脇。右側に抜け、二人してすれ違う格好となった。省吾が振り向くより先に孔翔虎、下がり、再び距離を取る。
(まただ)
また、孔翔虎は見失った。そうとしか思えなかった。たとえ省吾が攻撃を避けたとしても、間髪入れずに次の手を繰り出すことなど、孔翔虎は造作もない。すり抜け、そしてそのまま間合いを切るということは。何かを恐れているかのような。
孔翔虎が構えを取る。その構えそのものに、違和感があった。
(どうしてあんな構えを)
孔翔虎は、常に右半身に取っていたはずだった。左半身になっても、腰は落として正面を向く。しかし今はどうか。完全に体を斜に取って、腰の位置は高く、大きく体の右側を引いている。まるで右の半身を庇うような構えだ。 省吾は孔翔虎の右側を見る。右手、右肩、順繰りに。
孔翔虎が突っ込んでくる。
飛び込み、回し蹴り。左脚が唸る。間一髪、省吾が避ける。前髪数本を犠牲にして下がり、額に熱を受ける。その瞬間でも、目を離さない――肩から首、そしてその面までを。
ふと、目が留まる。
(そうか)
拳。孔翔虎の崩拳が襲う。刀の柄で受け流す――省吾、そのまま孔翔虎の手を取る。肘を折りたたみ、柄を手首にあてがい小手を極め、投げ飛ばした。孔翔虎が背中を打ち付けるに、地面が震えた。すぐに立ち上がり、孔翔虎はまた、間合いの外に逃げる。
(見えてないのか)
孔翔虎の右目から、壊れたセンサー部品が飛び出ていた。ユジンの突きが目を潰し、そのせいで孔翔虎は右側が見えない状態になっている。だからこそ、右に避けた省吾を追うことが出来なかった。
(そういうことなら)
省吾は刀の切っ先を向けた。
「まだだ」
左半身に取り、剣先を孔翔虎の右目につける。我知らず、省吾は口の端を持ち上げる。
「まだまだやれるだろう?」
省吾の言葉に、孔翔虎の面が最大限に歪んだ。