第十四章:39
ひどく、息が苦しい。
胸を打たれたから、腹をやられたから、あるいは孔翔虎とずっと対峙していたことからなのか。息を喘がせ、呼吸を速くしても、体の中にずっと空気が溜まっているかのような苦しさを覚える。
省吾は立ち上がろうと、手をついた。壁に背中を預けながら、徐々に徐々に、足に力を入れてゆく。だが途中まで立ったところで、膝を崩して尻餅をついてしまう。もうそこから一歩も動ける気がしない。
正面に、孔翔虎を見据える。省吾はナイフを携えるが、そのナイフも刃が欠け、役をなさないものとなっている。どれほど突き立てたとしても、響くことはないだろうと思われた。
「殺される覚悟がある、と言ったな」
孔翔虎は構えを解いて、訊く。右目をかばうように、やや右半身を引いた状態で。
「考え直す気はないか」
「ないよ、クソ野郎」
喘ぎ、息を切らして、精一杯の虚勢を張るが、果たして幾ばくかの効果もなく。省吾が漏らした言葉は、弱々しいものだった。
孔翔虎は淡々として告げる。
「この体になってから、ここまで粘ったのはお前が初めてだ」
「そうかよ、そりゃ光栄だね」
もはや悪態をつくのでさえ一苦労だった。今すぐにでも座り込んでしまいたいところを、気力だけで持ちこたえている。気力なんて、長くは続かないものであると知ってはいるのだが。そうしなければならないと、言い聞かせた。
「投降しろ。そうすれば、お前の命は助けてやる」
「偉そうに」
何度でも、己を奮い立たせた。倒れてはならないと、己の身体から発せられる警告に耳を傾けないことは武術家として失格である、と分かっていても。
「偉そうに指図するな。死ぬ覚悟なんてとうに出来ていると言っただろう。やるならさっさとやれ」
「そう意地を張らずともいいだろう」
孔翔虎は構えを解き、省吾を見下ろすような格好で言う。そうしなくとも、今の省吾であれば反撃を食らうことがないと分かっているからそうするのであって、省吾もまた反撃出来る状態ではないと、自覚していた。
「お前が勝てないのは、機械であるかそうでないかの違いでしかない。そういう男は、敵であろうと認めるのが俺の信条だ」
立ち上がろうとする。足に力が入らず、省吾は崩れ落ちる。それでも大分、体の痛みは引いてきた気がした。もう少しすれば、あるいは立つことは出来るかもしれない。立ち上がったところで武器はもう無いが。
「俺を殺すようにって、ヒューイの奴からは言われているんだろう。ならばここで俺を見逃すなんて出来るわけが」
「ヒューイなど、どうにでもなる。お前に機械の体を付与することも」
「なるほど。つまりあんたら、ヒューイとは別の奴から命令を受けているってことか」
答えない。孔翔虎はただ黙って見下ろしている。省吾は苦労しいしい立ち上がる。両の足は、鉛であり、ゴムであり、かと思えば木材であるように中身がない。とにかく、自分の足ではないものを引きずっている感覚だった。
「強情だな。ならばこういうのはどうだ」
孔翔虎が、つと横を向くと、視線の先にユジンの姿があった。体を丸めて倒れたまま、ユジンはぴくりとも動かない。気を失っていた。
「お前が投降するなら、あの娘の命は助けてやる」
「何を」
「お前が東に来るならば俺はここで引く。あの娘も助けてやる。ただし、南の蛇はここで潰すが」
「取引、ってか」
省吾はちらりとユジンの方を見る。様子をうかがうことは出来ないが、ユジンの体はもう限界なはずだった。先ほどの一撃で、回復しきれないダメージを負い、今は気絶しているとはいえこのまま放置しておけば明らかに危険だった。
(どうする)
最善はここで孔翔虎を倒すこと。だがそれが出来れば、今こうして追いつめられてはいない。ならば、取るべき道は限られる。
(しかし、それをしたら俺は)
機械になる、そうすれば東に行く。『OROCHI』が潰れようとも、ユジンは助かる。だがユジンはきっとそれを許さない。『OROCHI』と運命をともにするだろう。
だが俺の目的はなんだ? まだ何も達成していないというのにここでくたばる位ならば誘いに乗った方が良いのではないか? 一時でもユジンの命が延びるならば――
(どうすればっ)
じり、と孔翔虎が間を詰めた。そろそ答えを出せと促しているようだった。
「東には、お前が望むものもある。機械になるには、完全な体になるには東でしかない。この街で、最終的に生き残ろうとするならば、機械になるより他はない」
もう半歩だけ、近づいた。省吾は反射的に下がるが、後ろの壁に背中を接する。
「確かにな」
やがて、息をついた。もう選択の余地はなかった。
「そうなればやはり――」
顔を上げた。孔翔虎の肩越し、その向こうから誰かが駆けて来るのが分かる。瓦礫に蹴躓きながら、危なげな足取りで走り、何事かわめいていた。
「省吾、省吾っ!」
名を呼ばれた。駆けてくるその男が発したものだった。孔翔虎も気づき、振り向くに、その人物が足を止めた。
「……ヨシ?」
背中に細長い合皮の包みを背負い、どこからか拾ってきた銃を突きつける。完全に腰が引けた構えで、ヨシは狙いをつけた。
「し、省吾から離れろ、鉄くず野郎っ」
銃を持つ手が震えている。あんな状態で撃ったら当たるどころか省吾の方まで飛んで来かねない。
「何だ、ヨシ。何でここにいるんだ」
省吾が言うに、ヨシはおびえきった顔をますます強ばらせた。
「あんたに、こいつを持っていくよう頼まれたんだ! あんたならきっとやるって、舞に!」
舞が、何故。そう問うよりも先に、孔翔虎が口を開いた。
「まだ残っていたか。どのみち、もう終わりだが」
「黙れ、化け物」
唐突にヨシは発砲した。銃弾は孔翔虎の頭上はるか上を飛び、省吾の上、壁にめり込む。コンクリートの破片がぱらぱらと降り懸かった。
「やめろヨシ、お前がかなう相手じゃない」
「かなうかなわないの問題じゃない!」
再びヨシが銃を構えた。やはり手が震えている。
「こいつは敵だ、紛れもなく敵だろう。ならば俺だって戦う、弱いかもしれないけどあんたに仇なす奴は俺にだって敵だ」
「いや、それ以上撃ってもらいたくないだけだが……俺に当たりそうだし」
「皆そう思ってる!」
ヨシがいっそう声を張り上げた。孔翔虎は呆れの表情すら浮かべている。
「だから舞も、こいつを俺に託した! あんたは『OROCHI』じゃないけど、皆にとって仲間だから、きっとそうしたんだ。俺も、皆も同じ思いだ、だから!」
おびえた目。ヨシはどうあっても、戦いに向く人間ではない。簡単に当たる射程距離ですら外し、相手に攻撃の意図がないにも関わらず、恐怖を隠そうともしない。それでも精一杯の虚勢を張っている、無様としかいいようがない。
(あの馬鹿)
孔翔虎が省吾の方に向き直った。
一瞬の間隙。省吾は意を決して飛び込んだ。孔翔虎の脇を抜け、走った。
孔翔虎が蹴りつける。省吾の腰を掠める。足が痺れ、転びそうになる。どうにかこらえる。
「ヨシ、寄越せ!」
叫んだ。瞬間、ヨシが包みを投げた。
受け取る。包みを解く。現れる、漆塗りの鞘、黒糸の柄。左手で取り、柄に手をかけた。
孔翔虎が踏み込む。省吾前に出る。撃尺の間に入る。
「はあっ!」
抜きつける。鞘走り、刃がほとばしった。右で抜いた刀が、孔翔虎の目の前で閃いた。
孔翔虎が足を止める。前髪が数本散る。孔翔虎は忌々しげに顔をゆがめ、距離を取った。
「意地張るなとか言ったな」
省吾の手にある刀――しっくりと手になじむ三日月の刃が、陽光に照りつけられて輝いた。省吾は鞘をベルトに挟むと、刀を諸手に握り直す。ぴたりと、剣を正眼につける。
「意地張って何が悪い」
その刀の、“焔月”の重みを、しっかりと保持する。正面に向かい合った。