第十四章:38
孔飛慈の額を捉えた。
頭蓋を打ち砕く。反動が、手の中に残り、しばしの痺れを残す。孔飛慈は仰向けのまま天井をにらみ、否にらむと言うよりも茫洋とした瞳を晒し、そのまま動かなくなった。
雪久はとどめを刺そうとした。だがその途端、足下がふらつき、気づいたら地面にうずくまっていた。痛み、あるいは出血、ここにいたるまでいくつ刻みつけられ、流失し、脳髄を揺さぶられたか分からない。すでに、雪久の体は限界に近づいていた。
自分の体が何か別のものに変わってしまったかのように、まるで意識通りに動かない。立ち上がろうとして手をつくが、力が入らずに倒れ込む。鉄パイプを杖にして、それに身を預けるようにしてどうにか立ち上がる。自分の手足は鉛であるかのように重く、真綿めいた筋肉の感触は、それ以上は力が入らないことを意味していた。
「この……」
孔飛慈が半身を起こす。身をねじり、剣を拾おうとするが、その動作も弱々しく、立つこともままならないかのように見えた。
「頑丈なものだ。機械の体ってのは」
孔飛慈の体は足下にあった。鉄パイプを降り下ろせばそのまま頭を砕くことなど造作もないことだったが、もう雪久にはそうするだけの力が残っていなかった。
「これだけやっても、まだ動けるとはよ。普通ならとっくにくたばってるけどな」
「うっさい」
孔飛慈が剣を取った、同時に剣を降り抜いた。ほとんど勢いのない斬撃であったが、それでも雪久をよろめかせるには十分だった。不意をつかれた雪久は、のけぞり、多々良を踏む。四歩ほど後ずさった後、尻餅をついた。
「けど、やっぱり完全というわけじゃなさそうだな」
雪久はもう一度立ち上がる。よろよろとおぼつかない足取りで構えを取るのに、孔飛慈もまた起きあがった。
「受けすぎだ、あんた」
孔飛慈はなにも返すことなく、剣を構えた。すでに何度も目にしたその構えが、今はどことなくぎこちなく見えた。何度も打ち据えた結果の、構えの崩れだろうか。どれだけ取り繕っても足元がかすかにふるえているのを、雪久は見逃さなかった。
「武術家は自分の体の壊れやすさをよく知っている、ってな。こいつは受け売りなんだが、壊れやすいことを良く知っているから修練を積む、人一倍臆病なのが武術家なんだと」
孔飛慈――剣を水平に構えた。そこからどう飛び込むのか考えあぐねているように。
「あんたは、どうやら違ったようだな。臆病ではないし、壊れることがないと信じている。どれほど受けても平気とでも、思ったのかよ」
「だったら何だよ」
半歩、近づく。孔飛慈の目は、未だ消えぬ火が点っているようだった。
「だったら何だよ!」
もう、今すぐにでもくずおれそうであるというのに、この少女はどうあっても諦めないつもりらしい。雪久は鉄パイプを中段に据えた。それはこちらも同じことで、雪久は今すぐにでも倒れ伏してしまいたい衝動に駆られていた。
(次で最後か)
一歩ずつ、近づいた。こちらがどう反応しても、まるであちらには響かないかのような心地だった。それほどまでに力なく、孔飛慈は剣を向けている。
もう一歩、前に出る。互いに。孔飛慈がじりじりと間を詰め、雪久もまたにじり寄る。あと数メートル、数センチ。わずかでもいい、差を縮める。
一挙に、駆けた。
孔飛慈の剣が突き込まれる。空を裂き、最短距離を突く剣が、雪久の喉に伸びた。
雪久があわせる――鉄パイプを、剣先に接した。剣が、逸れ。鉄パイプが割り込んだ。
身を転じる。雪久は右足を軸にし、背中を向ける。体を回転し、その勢いのまま、廻し蹴りを打つ。
踵が少女の細い顎を捉えた。孔飛慈が仰け反ったところに、雪久は鉄パイプを振り抜いた。横面を打ちつけるに、孔飛慈の顔が弾けた。
孔飛慈の体が崩れる。剣を落とし、膝を落とす。
孔飛慈がこちらをみた。もはや目の中に、一切の光も差し込んではいなかった。一度だけ、何かを言おうと唇が動き、しかしその直後にうつ伏せに倒れた。
(終わったか)
もう一度起きあがったりはしないだろうかと身構えたが、孔飛慈はぴくりとも動かない。しかし、まだ意識はあるらしく、顔だけこちらの方に向けていた。
「頑丈だな、やはり」
孔飛慈の目の前に雪久は座り込む。
「機械ってのは。どんだけ叩いても響かねぇ」
「……殺らないのかよ」
孔飛慈は手をついて、苦労しいしい半身を起こす。やっとこ顔を上げるぐらいまで起きあがっても、そこから先は望めそうになかった。
「殺す前に一つだけ訊く。お前らみたいなのは、この街にはどれぐらいいるんだ」
「お前らみたいって、あたしと兄さんのこと」
「そう、お前ら機械。ユジンがいつか、千里眼を見たと言っていたし、他にもこの界隈でバラバラの死体が見つかっている。全部が全部お前らの仕業とも思えないし、他にもお前みたいのがいるんだとしたら」
ずいっと顔を近づけると、孔飛慈が嫌悪感を示すように顔を逸らした。雪久は孔飛慈の髪を掴み、その顔を強引にこちらに向かせる。
「そう簡単にぶっ壊れないだろうから、答えなきゃその体に直接訊く、ってのも難しいだろう。だから、答えなきゃ叩き潰す。どんだけ時間かかっても潰す。だからその前にチャンスを与えてやろうってんだ」
「チャンス? バカにしてんのかあんた。いつからそんな偉くなったんだよ」
孔飛慈は髪を掴んだ、雪久の手首を握りしめた。どれほど弱っていてもその力は衰えず、万力のごとく締め付けてくる。
骨がきしむような音を聞いた、ように思った。雪久は手を振り払い、飛び退いた。腕に、孔飛慈の指のあとが残っている。
「あんたなんかに同情されるいわれなんてないんだよ。あんたなんかに」
孔飛慈がそろそろと立ち上がった。ひざをつき、折れそうな腰をあげ、何度もよろめきそうになりながら。一度でも突き飛ばせばそのまま倒れ込みそうだったが、雪久はそうしなかった。
立ち上がる。生まれたての子羊めいて足下が揺らぎ、それでも精一杯の意地とばかりに、にらみを効かせた。
「最後までやろうってか」
雪久が構えをとる。しかしもう、戦う力など残っていないように思われた。足はすでに、鉛めいていて、左手は痛覚も通り越してただの冷たさとして残り、感覚のすべてが断ち切られているように、体が重い。
あとどれだけ出来るのか。
腰を落とす。右手を差し出す。その手の先を孔飛慈の右肩と結び、攻脈線を意識する。
せめてあと一撃。
右足を繰る。孔飛慈の右手側を攻めるべく、左に回った。孔飛慈は無手のまま対峙し、右手を差し出した。
雪久が前に出た。まっすぐ踏み込む。孔飛慈が迎え討つ、その瞬間。
つと、雪久の横をかすめるものがあった。
銀色の輝きを伴い、飛来した。
とん、と軽く何かを突き飛ばす音がした。孔飛慈の頭が、軽く左側に弾かれるのを見た。
首筋に目を落とす、孔飛慈の首。雪久の目の前、少女の首を貫く、鋭角の物体。白く細い喉を正確に射抜き、場違いなほど輝くそれを。
「あ……」
孔飛慈は呆けたような声を出す。自らの首に手をやる。武骨なパンテラコードを巻いたナイフを引き抜き、刃から血なのかオイルなのかわからない黒い液が滴り落ちた。
「何、これ――」
孔飛慈、膝を崩した。信じられないという顔でナイフを見つめた。等しくそれが、自らを貫いたという事実を受け止めきれない顔で。
雪久が振り向き、ナイフの飛んでいた方向を見るに、廃墟の入り口付近に人影が立っているのを見る。
顔の下半分を布で覆っているが、立ち姿から察するに、女のようだった。長いブロンドの髪、体にぴったりと密着したスーツを纏い、さらにその上から黒灰色のジャケットを羽織る。白人にしては小柄で、雪久とあまり変わらない、華奢な骨格をしているが、その手には体に似合わない長柄が握られている。
薙刀。それも、かなりの大物だ。刃は柳葉刀のように幅広で、反りが深い形をしている。長い柄は女の身の丈ほどはあり、長大な薙刀は女の体格にはかなり不釣り合いに見えた。
「どうやら、これまでのようね。孔飛慈」
女が覆面の下から声を発する。訛のない英語の発音だ。
「あ、あんた……」
孔飛慈が声を発しようとする。かすれた声をしていた。喉を貫かれたせいだろうか、ひゅーひゅーと風の漏れる音を響かせ、苦しげに喘いでいる。
「もう少し粘るかと思ったけど、やはり出来損ないは出来損ないね。一番弱い相手で、このザマなら」
女は雪久に目もくれず、孔飛慈の元へ歩み寄った。孔飛慈を見下ろし、薙刀をその首筋にあてがう。
「残念だよ。せっかく目をかけても、それに応えてくれる連中ばかりじゃないから」
「最初から……こうするつもりだったのかよ」
孔飛慈、哀れみと怒りが混じりあったような目をする。
「あんたは」
「言ったでしょう。チャンスは一回だって、それを分かっていてついてきたんだろう。じゃあしくじったらそれで終わり。当然のことだよ」
「じゃあ何だ」
孔飛慈は薙刀の刃を掴んだ。握り込むに、指先が刃に食い込んだ。
「最初から、あたしと、兄さんを使い捨てるつもりで」
「そうでないと考えていたのか? おめでたいね」
「ふざけるなっ」
孔飛慈が立ち上がると同時、女は孔飛慈を蹴飛ばした。間髪入れずに女は薙刀を短く取り、よろめいた孔飛慈の、左の胸に突き刺した。
刃が半分ほど、少女の胸に埋まった。まるで抵抗なく刃が通り、貫くに、雪久は呆気にとられる。孔飛慈の驚きに満ちた顔が、刃と、女の顔を順番に見、そして一瞬だけ雪久の方を見た。見開かれた目が、やがて虚ろなものに変わり、その目が永遠に光を失ったのを雪久は目の当たりにした。
薙刀を引き抜く。黒っぽい液が溢れた。孔飛慈の体が前のめりに崩れ、自らが作った黒液の中に沈んだ。
「相手を見ることが出来ない者に用はない」
女は孔飛慈の体をかつぎ上げた。機械であろうと何だろうとまるで関係ないというように。実際、孔飛慈の体の重さを鑑みれば、女一人で持ち上げられるようなものではない。
だが、問題はそこではなく。
「待てよ、おい」
雪久が呼びかけるのに、女は顔だけこちらに寄越した。
「今は、おまえの相手はしていられないよ『千里眼』」
「そうかい、でも俺はそうもいかないんだよ」
孔飛慈が落とした剣を拾い上げ、雪久は女の方に突きつけた。
「そいつは俺の獲物だったんだ。いきなり乱入してきて横取りして、勝手に幕引きってわけにはいかねえだろ? そいつにはいろいろ訊きたいことがあったんだが」
「それで?」
女はあくまでも平静であった。雪久の存在など、まるで歯牙にもかけないという様子で、それがますます気に食わない。
「それで、じゃねえよ。そいつに訊けなくなったんだったら、代わりにあんたが応えてくれるかって、そういうことだ」
雪久が剣を振りかぶるのに、女は嘆息した。
「やめておいた方がいい。お前ごときじゃ相手にならないよ。無駄に命を捨てることもないでしょう」
「そう思うかよっ」
雪久、走った。剣を振り、女の背中に切りつけた。
女の薙刀が躍った。長柄を突き出し、薙刀の石突を、後ろ向きのまま突いた。雪久の水月に、刺さる。
圧迫感を覚える。腹を突き破られたような痛みが走った。唾を吐き、その場に崩れ落ちる。
「お前はまだ殺すなと言われている、『千里眼』」
女が薙刀の刃を突きつける。切っ先が、雪久の鼻先にあった。
「だからお前は殺さない。だが、それ以上やるというならば手足の一本は覚悟もらうよ」
肩で息をしながら、雪久は女を見上げた。先ほどまではよく見なかった女の顔が、間近にあった。覆面のせいで表情は分からないが、無機質でなおかつ鋭さを帯びた視線が突き刺さる。
どこかで見たことがある瞳だと思った。根拠などなく、漠然とそう思っただけだ。だけど雪久を見据える目が、いやに鋭く、その鋭さが自分のよく見知ったもののように思えた。
「これから先はお前の出る幕ではない。そこで大人しくしていなよ」
女は孔飛慈の亡骸を担ぎ直し、刃を下ろした。雪久に背を向け、廃墟から出て行くのを、雪久はただぼんやりと見送るしかできなかった。