第十四章:36
背後から追ってくる、孔飛慈の気配を感じていた。雪久は壁に背をつけて、顔だけ出して様子をうかがう。彼方で、影が動くのを見て、慌てて顔を引っ込める。
「どこ行ったんかなー? チキン野郎」
孔飛慈、苛立ちと嘲りの中間位置にあるかのような声を出し、ビルの中を徘徊している。雪久はというと遮蔽物に身を隠し、必死に自分の気配を消そうと努めた。わずかな呼吸が、察知されないとも限らないので、荒く息をする己の口を塞ぎ、痛みの前に漏れそうになる声をかみ殺した。
(くそ……)
そうまでして逃げ、身を隠し、やり過ごそうとしている自分が情けない。だが情けないといっても、そうするしかなかった。剣先から逃れると同時につまらぬプライドもかなぐり捨て、ひたすら逃げ回り、ようやく今撒いたところだ。ここで見つかるわけにはゆかない。
靴音が聞こえる。無秩序に歩き回り、石か瓦礫を蹴り飛ばす音がした。音は徐々に近づき、ついには雪久が隠れている壁一枚隔てたところまで来た。
声を殺し、息を止めた。そこから一刻も早く立ち去れと、心の中で念じた。まさしく祈りにも似たことだった。早く、早く行け――そう、何度も。
やがて音が遠ざかる。雪久はそのまま壁づたいに移動し、ビルの外に出ようとした。このままでは不利だ、一旦退却しなければならない。そう思い、雪久は逃げた。
音が聞こえなくなった。雪久は壁から背中を離した。そのままビルの外に出ようとした。
「見ぃーつけた」
背後から声。全身が凍り付いた。
風が起こった。鋭く切り裂くような風。雪久が身を退かせるのに、遅れて耳元で刃が鳴り響き、耳朶を切った。
雪久はよろけ、地面にへたりこむ。孔飛慈がそんな雪久を見下ろし、馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「だっさいのね。あの嬢ちゃんの方がまだ骨があったよ」
剣を振り払い、血を落として孔飛慈は言う。剣はすでに雪久の喉元を向いていた。
「そのまま逃げても無様なだけだよ。せめて蛇の頭張ってたんなら、ここで死ねよ」
孔飛慈が切りつけた。刃が到達する寸前、雪久は手元に転がった石を投げつけた。孔飛慈の顔面に当たり、刃が逸れたのを受け、雪久は跳ね起きる。そのまま孔飛慈の脇をすり抜け、走った。
「逃げんなぁ!」
孔飛慈が刺突した。雪久の肩を傷つけた。雪久は足を止めずに走るが、後ろから孔飛慈が切り、刺突し、雪久を追ってくる。追いつめられるに時間はかからず、雪久は壁際で足を止めた。
向き直る。孔飛慈がこちらに歩いてくる。雪久は左目を押さえた。だいぶ痛みはひいたが、それでも「千里眼」はもう使えないだろう。目は、失明したわけではないらしくぼんやりとだったら見ることができる。だが視界は暗く、遠近感もはっきりとは掴めない。
こんな状態のまま死ぬのか、俺は。一度目に屈辱を味わされ、二度目もなんら価値を示せずに、死ぬ。戦いとも呼べない、一方的になぶり殺されることだけのために、俺は在るのか。
「どったのさ。お祈り? そんな殊勝な心がけなんてあんたが?」
街の外は地獄だった。この街に来てからも相応の地獄だったと、ぼんやりと思った。でも地獄であるならば、まだマシだ。かつて逃げ出した場所は地獄ですらなかった。飼育されたガラスケースの中で、ただひたすらに自分の番を待つだけの生きているともいえない状態。今もそう、ただ自分の死を待つばかりの、贄となるばかり。
――未熟!
ふとレイチェルの言葉が脳裏に浮かんだ。今際の際まで、あの女のことが浮かぶなど笑えない冗談だ。死んでからも説教するつもりなのかと問いつめたくなるような声が、はっきり聞こえた。
(俺は――)
孔飛慈が剣を降り上げた。雪久はつと、身を沈めた。
突き刺した。長穂剣の銀色の刃がしなり、えぐる軌道で刺し込まれた。
雪久は避けるでもなく、前に出た。迫る刃に自ら刺されにいくかのようなタイミングだった。それそのものにも何の意図もなく、自棄気味に身体を倒しただけだった。
顔に刃が届いた。切っ先を見た。雪久は何の気なしに首を傾けた。
刃が行き場を失い、流れた。刃が頬をかすめ、雪久の背後に抜ける。雪久はそのままさらに身体を倒す。孔飛慈の距離が近くなり、ほとんど密着するような間合いまで、近づいた。
(あ?)
目の前に、孔飛慈が迫っている。刺突を逸らして狼狽する少女の顔が、間近にあった。雪久と孔飛慈、互いの腰がもう少しで接するのではないか。そういう間だ。
瞬間、孔飛慈の顔が嫌悪感を露わにする。後ろに飛び退き、雪久から離れた。
(何だ今の)
いつの間にかあれほど近づいたのか。剣が迫った瞬間、自分でももうダメだと思った。そのまま刺し貫かれて終わり、そう思ったのだが。なぜか剣を踏み越えて、孔飛慈の懐に飛び込んでいた。特に何もしていないのだが。
戸惑っていると、孔飛慈が再び突っ込んでくる。水平に剣を振り、切りつけの体勢で飛び込んだ。
雪久はまっすぐ前に飛び込んだ。孔飛慈の剣に対するように、右手を前にした。
孔飛慈が切りつける、直前。雪久は中心に向けて足を前に出す。自ら身を預けるかのように、前に倒れ込むようにして。
雪久の右手が孔飛慈の右手首に触れた。それだけで孔飛慈の剣が封じられる。孔飛慈が下がろうとしたところ、雪久は体を密着させ、孔飛慈の足に自らの足を重ねた。
踏み込んだ。体重を孔飛慈の身体に預け、そのまま身体を転回させた。孔飛慈は脚を払われた格好で倒れる。ちょうど雪久の転じる体に巻き込まれ、投げられた。そんな感じだ。
「く、このっ」
孔飛慈は慌てて起きあがり、縦横に切りつける。雪久は下がりながら避け、避けながら今自分の身に起きた現象を分析しようとした。
(何で倒れたんだ?)
ほとんど意識はしていなかった。ただ剣に対して攻脈線で結ぶよう、右手を置いただけだ。トンファーバトンと同じように、相手の剣先の延長上に、自分の右手を置く。剣が貫かれると同時に踏み込み、剣を持つ相手の手に触れた。そしてそのまま体を密着させ、足をかける。
(意図など、まるでしなかった)
だのに、自分の体が勝手にそれを実行した。自分の体だから勝手も何もないはずなのだが、雪久にはそうとしか思えなかった。一体これは――
「はぁ!」
孔飛慈が突っ込む。剣を刺突した。喉に伸びる剣に対して、雪久は右足を斜めに踏み込む。剣が、肉に届いた。
転回。右足を軸に回り込む。剣を避け、雪久は剣の間合いの内側に踏み込んだ。孔飛慈が避けるよりも先に、雪久は身を沈めて左肩で当たった。少女の固い胸の感触を覚え、孔飛慈がバランスを崩したのに、雪久は左腕を孔飛慈の首にあてがった。体重を入れ込み、後ろに押し倒した。孔飛慈は地面に後頭部を打ちつけた。
起きあがる、距離を取る、孔飛慈は一気に飛び下がった。心底驚き、目をみはっていた。それ以上に当の本人が驚いているのではあるが、雪久はぼんやりといま行ったこと全てを思い出した。
折れた左手を見る。どんなにがんばっても動かせそうにはなかったが、その腕を使って今、俺はあの機械を引き倒した。全く意識はしていなかったが、そんなことがどうして出来たのか。
「よそ見してんなよ」
孔飛慈が言った、と同時に飛んだ。剣を切りつけるのに、雪久は身を開いて避ける。顔の横を三日月の軌道で切り裂く、刃を見やる。耳が切り裂かれ、熱を受けた。
離れた。そのまま孔飛慈の側面に回り込む。孔飛慈が振り向く前に、雪久は体当たりを繰り出した。孔飛慈の肩と接するように要領で当たり、密着したまま右腕を孔飛慈の首に押し当てる。孔飛慈の上体が逸れたのを受け、雪久は体を押し込んだ。果たして孔飛慈はバランスを崩し、三度目の転倒を強いられる。
雪久は孔飛慈の体を踏みつけた。少女の顔に踵が埋まるのに、孔飛慈は仰向けのまま剣を振り抜く。雪久が離れたのを受け、孔飛慈は立ち上がった。やはりどこか納得行かないという表情で。
(妙な感覚だ……)
足に何か触れた。見てみると手頃な長さの鉄パイプが転がっている。腕の長さよりは少し長く、先端にエルボがついた、おそらくはガス管の一部。雪久はそれを拾い上げると右半身に構えた。
動き出しは、孔飛慈。一気に間を詰め、剣を突き下ろした。雪久は慌てず、鉄パイプを前に差し出した。剣と鉄パイプが触れ、交差し、一瞬だけ剣の動きが止まった。
雪久、身を沈めた。一歩、前にでた。孔飛慈の右脇に、潜り込むと、左腕を孔飛慈の首にあてがった。剣を持つ右手を巻き込むような形だった。
孔飛慈の上半身が反り返る。雪久はさらに足をかける。孔飛慈が後ろに転倒する。
転んだ孔飛慈に、雪久は鉄パイプを振り下ろした。寸でのところで孔飛慈が避けるに、パイプは地面を打つ。孔飛慈は飛び起きると、今度はかなり遠く距離を取った。
(体が技を覚えている……自然に体が動く……)
これは一体何の技なのだろうと、ふと考えたが、しかし結論に至るまでは時間がかからなかった。
(ああ、そうか)
思い出すだけでも、憎たらしい。雪久は苦々しく、顔をしかめた。どうあっても、俺の邪魔をするつもりか、と。
相手の体を巻き込むような体術。拳よりも掌を使うことからその名がついた。2年前に散々たたき込まれた技の数々。
「あの女の技かよ、くそったれ」
紛うことなき、八卦掌の動きを。