第十四章:32
至る所が砂にまみれて、何もかもが薄汚れている。崩れたビルの半径1キロ範囲は、どこもかしこもそんな状態だった。もともとが小汚い街ではあるが、それでもここまでひどくはなかったと。走りながら、ヨシはそんなことを思う。
ビルの崩落を目の当たりにしてから、30分以上は経っていた。あの爆破が、ユジンたちによるものだとはすぐに分かった。事前に彰が知らせた作戦と同じ、ただどのビルを爆破するかは教えてはもらえなかった。作戦が漏れることをおそれたのだろう、ビルの正確な場所は実行部隊にしか教えなかったようだ。
だが、案外近い。ヨシは歩を早めた。背中に背負っていた合皮の包みは走る妨げになるので手に持ち、粉塵を吸い込まないように手ぬぐいで口元を覆って、ヨシは走った。
(バイクに乗ってくればよかった)
汗を気にしながら、心底後悔していた。砂の中で直接息をしているようなものだ。汗のせいで砂が皮膚に張り付き、いくら口を覆っても喉元にまで入り込んでくる。せき込み、汗を拭い、灰色の空間の中であえぐ。息が、あがっていた。
(黒服たちが追撃してくると思ったから、バイクを捨てたってのに)
現実には、雪久の言うとおり誰も追ってくることはない。奴らが仕留めたいのは雪久やユジンといった戦闘要員で、ヨシみたいな下っ端はどうでもよいと言うことなのだろう。ありがたく思う反面、少々情けなくもあるが、ともかく自分が黒服の標的から外れているならばバイクで来ても問題はなかったはずだ。
(まあこの砂の中じゃ意味はないかも……)
崩したビルは、遠目からみてもあまり大きなものではない。それでも舞い上げた塵は相当なもので、見通しの悪い中バイクを走らせることはそれなりに危険と言える。そう考えれば徒歩でも良かったのかもしれないが。
あまり済んだことを思っても仕方ない。ヨシはかぶりを振った。今はあのときどうするべきだったか、ということを考えなくとも。自分がすべきは、この包みに入っているもの、それを届けることだ。それ以外のことは、後で思えばよい。
とはいえ、それを届ける人間が、そこにいるのかどうか。それもまた問題だった。
(省吾はもう着いたのか?)
舞からは、必ず省吾に届けてくれと言って託されたのだ。いるかどうか分からないと言ったら、あの人は必ず来ますと言って無理に押しつけられてしまった。どんな根拠があって「必ず」などと宣うのかと疑問だったが、妙な迫力に押し切られてそのまま持ってくる羽目となった。仕方なく、今こうして運んでいる。
(必ず、なんて何を根拠に)
運んでいるもの――省吾自身が“焔月”と呼ぶ刀が、包みの中に収まっている。最初この“焔月”は省吾のものであると思っていたが、よく話を聞けばこれの所有権は舞にあるらしい。舞が所有し、戦いの度に省吾に貸す。戦いが終われば返す。どういう経緯でそういう取り決めになったのか知らないが、とにかくそういうことだということだ。
「だからあの人が来れば、この刀が必要になります」
とは、舞の言葉。戦いとは、機械たちとの戦い。つまり、機械のところに行くならばこれを持っていって渡してくれと、そういうことだ。渡すぐらいは何でもないが、機械たちのところにタイミング良く省吾が現れるとは思えなかった。
(でも、必ず、ときている……)
舞は、まるで省吾が現れることを信じて疑っていないようだった。そこまで信じることができるというのも、ある意味幸せだ。省吾はもうどこかでくたばっているかもしれない、とかそんな考えはまるで浮かばないと来ている。
(ひょっとして、あいつ)
ヨシは走りながら、ふと一つの考えが浮かぶ。が、すぐに打ち消す。あまりに馬鹿げた考えだった。まさか、舞が省吾のことを想っているなどと。しかし省吾をあれだけ信じて、刀をヨシに託すことに何の迷いもないということは、少なくとも舞は省吾を憎からず思っているということだろう。それが男女のものに発展しても、何ら不思議ではない。省吾の方がどう思っているのか分からないが――
(大変なことだ)
雪久は、自分のものに手を出されたら何が何でも相手を許さない。別に省吾が舞に手を出したわけではないが、もしヨシが思うように、舞が省吾のことを想っていて、このような行動をとるならば。
かぶりを振った。やはりどう考えても飛躍しすぎて、現実離れしている。刀のやり取りだって単なる契約だろうし、この一事のことで舞の心中を察するには無理がある。
(馬鹿馬鹿しい)
大体がそんなこと、今考えることではない。省吾にこの刀を渡せるかどうかも分からないのだ。
数分も歩いた後、『OROCHI』の襲撃部隊と遭遇した。部隊の一人が、ヨシの顔を見て手を挙げ、ヨシが駆け寄る。
「お前は留守番だろ? どうしてここに」
ディエン・ジンは二本の鉄棒にジャケットを巻いた、簡易式の担架を持っている。体の至る所が擦り傷だらけだった。
「ちょっと頼まれてね、雪久に」
「ああ」
とディエン・ジンは、哀れみめいた視線を向けた。
「大変だあ、そりゃ。彰もいないってなりゃ、あいつがじっとしているわけねえもんな。ここまで案内したってわけか、ご苦労だ」
「や、俺は途中で別れたんだけど」
「そうなん? あっちの方にいるみたいだけんど」
「なんで俺の方が先に出たってのに……」
「さあな。そういや、あっちの方に車が乗り捨ててあった気がするけど、関係あるのかね? 運転席にゃ黒服が一人、ノびてたんだが」
「多分、それだろうな」
襲撃してきた黒服を叩き伏せるのに、今の雪久なら数分とかからないだろう。全員倒した後、あの場にいた黒服の一人を締め上げ、ここまで送らせたのだろうと思われた。用済みとなれば、あの雪久が慈悲などかけるはずもなく、おそらくは案内をさせられた黒服も仲間と同じ末路を辿ったのだろう。
「で、何してんのさ雪久」
「何ってな」
ヨシの問いに、ディエン・ジンは困惑した表情を浮かべる。
「分からんけど。イ・ヨウが言うにゃ、真田の旦那もいるってよ」
「省吾が? いるの?」
「ああ、さっき来たって」
ディエン・ジンは嘆息混じりに言った。
「機械ども、仕留め損なってよ。おまけにこっち、傷を負って。もう動けん、あいつぁ」
「動けないって、誰が」
「ほれ」
ディエン・ジンが指さす方向に、5人ほど人が集まっている。その真ん中に座り込む、玲南。腕の肩から二の腕にかけて、包帯を巻いている。
「機械にやられたんよ。傷も深いから、こいつで」
ディエン・ジンは担架を示してやる。ヨシは玲南の下に歩み寄る。玲南は顔をしかめて、包帯を巻いた腕を押さえていた。ヨシの姿を認めると、睨むような視線で見上げる。それが苦痛に耐えているためと分かっていても、どうにもこの手の人間に睨まれて平静でなどいられない。
「あんた、確かユジンのとこの」
「ヨシ、って呼んでくれれば良い。それより、傷が酷いみたいだが」
「見ての通りだよ。あのクソ女に貫かれた」
玲南の声は、弱々しく、覇気がない。返事をするのも何を言うのも億劫であるようだった。ヨシは屈み込み、刺されたという腕を見る。包帯から血が滲み、右腕だけが血の気を失ったような色をしていた。
「治るのか、それ」
他に言うべきことはあるだろうに、ヨシはふとそんなことを口走っていた。
玲南はかぶりを振った。何とも力のないことだった。
「わかんないよ。骨をやってなきゃいいけどね。もし骨までやられていたら、もうストリート界隈の医者じゃ治せない」
「そう、か」
こういう場合、なんと声をかけてよいのかわからない。ヨシは頭を掻いて、次に言うべきことが何か、考えた。
「まあ、もっとも」
と玲南は、別方向に目を向けた。
「あいつよりはましだろうね」
玲南の視線の先には、韓留賢がいる。襲撃部隊の人間によって、担架に乗せられている。よく見れば右脚には添え木が施され、包帯に血がにじんでいた。
「何されたんだ、韓留賢」
「膝、砕かれたってよ。デカい奴に、真正面から折られたって。もうあれじゃあ、立つこともままならないね」
担架に運ばれる韓留賢は、意識を失っているようにも見えた。それほど痛みが酷かったとうことだろう、膝を砕き、脚が真反対に折り曲げられる光景を想像し、ヨシは眉をひそめた。
「ヨシ、手伝えよ」
ディエン・ジンが簡易担架を、地面に置いた。
「藪医者だが、骨ぐらいは診てもらえる。金さえ置きゃ、誰にも漏らさない。そういう稼業の医者がいっから、そこまで」
「ああ、いや手伝いたいのは山々だが、俺はこいつを……」
そう言って、刀の入った包みを見せる。ディエン・ジンは怪訝な顔でそれを見つめる。
「省吾がいるなら、まずはこれを」
「何か、こいつは」
「大事なものらしいよ、省吾にとって」
「ああ、もしかしてそれ」
と玲南が、担架に身体を移しながら見上げてくる。
「刀かい? あの傷男の」
「渡してくれって、言われて」
玲南はいっそう目を細めて、刀を見る。何か得心いかないという顔だった。
「あの機械どもに、そんなものが通じるとは思わないね」
「でもさっきまでは刃物、使っていたんだろう」
「爆薬んトコにおびき寄せるための囮だ。あたしの標も、韓留賢の刀も、それほど有効じゃなかったし。刀の一本で今更どうとかなる相手じゃないよ」
「そうは言ってもね」
このままおめおめと尻尾を丸めて帰るというわけにもゆかない。自分にもプライドぐらいはある、と言い返そうとしたが、あまりここで議論を重ねても意味はない気がした。血の気の引いた玲南の顔を見ていると、余計なことでやり合っている場合ではない気がして、ヨシは黙った。
「ま、いいけど。ただ連中、なかなか隙見せないから。渡すのにも難儀するよ」
玲南が担架に横たわると、ディエン・ジンは頭側を持った。
「とりあえず、こいつら運ぶっからよ、ヨシ。危なくなったら逃げろよ、お前弱いんだから」
「ああ、どうも」
最後の一言は余計だったが、ともかくディエン・ジンを見送った後に、かかる方向を見つめた。
「さて」
刀を担ぎ、ヨシは向かう。