第十四章:28
黒い物体だった。唐突に割り込み、孔飛慈の横面にぶつかった。顔面を弾かれ、機先を逸らされるに、孔飛慈は足元に転がるその物体を見る。丁の字型のバトン、ポリカーボン製のトンファーを踏みつけた。
「なんだか、ちょっと遅かったと思ったけど」
声の方に、孔飛慈が睨みつける。ユジンもつられてその方向を見た。果たして、砂煙の中に人影が映るのを認めた。
「なかなか良いタイミングだな。ようやくこれからってとこか」
聞きなれた声。煙が切れて、ようやくその人物を目の当たりにする。銀色がかった白髪と、少女めいた白い肌と、華奢な骨格と。紅く光る眼が、映える。微かに口元にたたえた笑みが、和馬雪久を象徴するかのような酷薄さを醸して、言った。
「待ちくたびれたぜ」
その声に。孔飛慈の顔がこわばる。嫌なものをみた、という表情だった。
「死んだと思ってたけど」
「死んでたな、確かに。ここ数日は生きた心地はしなかった。退屈すぎて」
雪久は何ら構えることなく、孔飛慈の前に歩み寄る。躊躇いもなく近づくが、雪久は何も感じないのか、あるいはいつでも避けられるという自負があるのか、気にせずに剣の間合いに入った。孔飛慈の方も、雪久があまりに自然に振る舞うので攻撃することを忘れているかのように佇んでいる。
「しかし、ユジンよ。俺がいないからって、この程度の連中。どうにかならなかったのかい」
雪久がぐるりと辺りを見回す。瓦礫の山を見て、呆れたように嘆息して言った。
「ビル一個吹っ飛ばしても倒せないって。どういう体たらくだ?」
「馬鹿か、あんた」
孔飛慈が言うことに、不覚にもユジンは同意してしまった。心の中で。
「あたしに吠え面かかされた奴が、偉そうに言うもんだ。せっかく拾った命を、わざわざ捨てに来たってか? ご苦労なことだね」
「機械ごときに命がどうとか、言われる筋はないな。回路にへばりついた、人形風情が」
孔飛慈の目の色が変わった。ユジンに突きつけていた剣を、そのまま雪久に向ける。
「どの口が言うんだよ、クソ野郎。あんたみたいのにそんな物言い許すほど、落ちぶれちゃいないつもりだよ?」
「本当のことじゃんか。いくら繕っても、所詮は」
なおも押し付ける、孔飛慈。刃の先は、雪久の喉を狙っていた。
「怒らせたいんだ? あたしを」
「どうだかね」
「いい度胸さね、『千里眼』。そんな口がいつまで持つ? もう一回泣き見たいなら、そうさせてやる。きれいな顔を刻んで、手足をもいで、目ん玉繰り出されてもあんたがどんだけ我慢できるか試したい?」
「そう、急くなよ」
剣呑な空気が生まれた。孔飛慈が、酷い侮辱を受けたという風であり、雪久は剣を前にしても薄く笑っていさえいて。一度でもその力を目の当たりにすれば恐れを抱くに足るというのに、怖くないのだろうか、この男は。
「役者も揃うことだし」
やおら、雪久が首を傾けた。視線の先をたどると、砂埃の中にもう一人、影が立っている。肩で呼吸して、いかにも急いで来たという風に、都市迷彩姿の男を確認する。
「なんだか、偶然通りかかったって風でもないなあ、省吾」
ユジンははっとして男の顔を見つめた。顔に刻まれた傷が如実に物語っている。久しぶりに見る、真田省吾の表情は、憔悴しているように見えた。落ちくぼんだ目と、こけた頬が、少し前の省吾の姿とは大分違う。
「省吾……」
それでも、真田省吾に違いなかった。ユジンが呼ぶのにも、省吾は顔色一つ変えない。まっすぐ、機械たちを見据え、その鋭い視線と余計なことに気を取られないかのような振る舞い、それこそが真田省吾であるという証のようなものだ。
変に懐かしさがこみ上げた。省吾と会わなかった時間など数週間ほどでしかないというのに、何年ぶりかという心地だった。
何か言わなければ、と思った。だが言葉にしようとすると、声の代わりに空気が漏れる音しか出ない。舌と口が麻痺したように、うまく機能せず、それどころか言葉そのものを忘れたように、何の台詞も浮かばない。頭の中にもやが掛かったような心地になる。精一杯、言葉を選び、相当苦労してようやく口にした。
「……どうやって、ここに?」
「あんな、大きな狼煙が上がれば」
息を整えつつ、省吾は言う。まさかここまで走ってきたわけではないだろう、それは後ろに停めてある三輪のトラックで分かった。だが、大分急いで来たには違いない。
「嫌でも分かろうというものだ、ユジン。俺は大人しくしていろと、言ったはずだが」
「言ったって、あんな風に人づてで警告されたって。こっちにはこっちの都合というものが、あるでしょうよ」
いきなりの高圧的な物言いに少し腹を立てるが、そんなやり取りをしているうちに足に力が戻ってきた。棍の支えはまだ必要だったが、それでもどうにかしてユジンは立ち上がる。
「というか、あの人一体何なの? あなたがこの街に、女性の知り合いがいたなんて初耳ね」
「その説明は後だ……」
省吾は背中に括りつけた杖を抜き取り、右手に提げる。視線は、ユジンの後ろ、孔翔虎に注がれていた。
「そっちの奴が、どうにもうるさいからな」
孔翔虎は黙ってやり取りを見ていたが、やがてため息混じりに言った。
「飛慈の謂いではないが、一度拾った命を易々手放す気か」
省吾はそれに答えず、杖を提げたまま歩み寄った。少しずつ、孔翔虎の間合いに近づき、それとともに孔翔虎の目つきも険しくなる。互いに無構えでありつつも、警戒の色は両者ともに見て取れた。
「拾った命なんて安いもの」
5歩、踏み越えれば互いの間合いが交わる。そういう距離まで、省吾は近づいた。やはり、構えを取るでもなく、左半身に立ったままで。右手の杖を、半身に密着させるように取り、杖をそのものを隠すような所作を取る。孔翔虎はといえば、さりげなく右足を前に出し、右拳を握り込んだり、開いたりしていた。全くの自然体、あるいはそれそのものが構えなのか。
「ユジン!」
イ・ヨウの声がした。瓦礫をかき分けて襲撃部隊が駆けてくるのが見え、遅れて『STINGER』の遊撃隊が走ってくる。遊撃隊の一人が、クォン・ソンギが倒れているのを見て、孔翔虎に向けてクロスボウを撃った。矢は寸分違わず孔翔虎の頭に届くが、孔翔虎は難なくそれを掴み取った。矢の飛んできた方向をまるで見もせずに。片手で矢を折り曲げ、投げ捨てる。じろりと、撃った射手を睨みつけると、射手の男は身を竦め、クロスボウを下げた。
イ・ヨウはいきり立ち、ユジンの元に駆け寄った。腰から手斧を抜きかかるのを、ユジンは押しとどめた。
「あんたがかなう相手じゃないよ」
「だ、だからって生きていたってなれば」
「見て分からない? この場はもう終わりよ。ビル吹っ飛ばしても、あの二人を沈めることが出来なかった時点でね。それに」
ユジンは、雪久と、省吾の顔を見比べる。対峙する二人の機械は、もはや襲撃隊も遊撃隊も、それどころかユジンの存在すら忘れているかのように、目の前の敵を睨みつけている。
「皆を引かせて、イ・ヨウ。あと、連のことも頼むよ」
雪久と孔飛慈、省吾と孔翔虎の方は、ただ睨み合うだけで進展はない。ただ、それで十分だった。
(始まっている)
すでにその間に、両者の中で思惑が交錯している。そう感じさせるものだった。どう攻め、どう防ぐか、そのせめぎあいが行われていた。拳は一撃必殺の武器であり、それを防ぐ手だてが乏しい中では、動き方如何によって変わる。だが孔翔虎の方も、簡単には動けないという風だった。省吾が何かを隠し、また攻め方も分からないとなれば、不用意には攻められないのだろう。いずれにしても、もう始まっている。
「引かせて、イ・ヨウ」
もう一度つぶやいた。イ・ヨウは怪訝な顔をしている。
「これ以上被害を加えたくなければ」