第十四章:25
血と火薬の匂いの中に、立っていた。
バトンの先が柔い肉に埋まり、頭蓋骨を砕いた感覚を得てから、10分少々経過した。足下に重なる黒服たちを見下ろし、熱っぽくうねる筋肉が冷めるのを、待った。高ぶる気と、荒く走る鼓動と、爆ぜるような呼吸が。収束し、鎮まるまで、ずっと見下ろしていた。
「調子は悪くない」
雪久はひとりごちて、トンファーバトンについた血を拭う。手に、殴ったときの感触が残っていた。 痺れを残し、しかし確かに打ち勝ったという確かな感触。堅い殻の内にある、一番弱い部分まで到達したときの手応え――強固な抵抗を突き破った瞬間の、達成感にも似た心地。刃物や銃では得られない手応えだ。
辺りには、黒服たちの骸が転がっている。今、雪久がいる階だけで4体、他にも外で10人以上打ち倒し、屋上のスナイパーも叩き伏せた。別の階ではもう何人打ったか分からない。銃も持たず単騎で突っ込む雪久相手に、黒服たちは応戦したが、『千里眼』の前には銃撃など児戯に等しく、呆気なく雪久のバトンの餌食となった。
それが、10分前。とは言え黒服たちも全く手も足も出なかったわけでもない。一矢報いた証として、雪久の左腕に銃弾が掠めた傷が刻まれていた。
しかし、それだけ。それで済めば、御の字だ、悪くない。
「それで、あとはお前だけだぜ」
そう言って睨みつけた、その先に年若い黒服が立っている。右腕を粉砕され、折れ曲がった手首から骨が突き出てはいたが、その他は無傷だった。といっても、もう銃は握れまい。
「俺はすこぶる機嫌が良いんだ。レイチェルの姉御に押し込められてど突き回されて、ストレス溜まってたんだが、あんたらのお陰で今は気分はこの上なく最高、ってことで」
と、バトンを手の中で回した。
「俺は今、歴史上類を見ないほど優しくできる気がする。あんたが、これから言うことを素直に実行してくれりゃ、その腕だけで勘弁してやるよ」
「断ったら?」
黒服は、腕を押さえ、苦痛に表情を歪めながらも殺気がこもった目で睨む。無意識なのか意図的なのか分からないが、圧倒的不利な状況でも戦意を喪失させないということは、なかなかにできることではない。
雪久は薄く、笑みを浮かべた。
「腕以外のあっちこっちから骨が出ることになるだろうな。ああでも、時間もあんまりないからやっぱり頭カチ割る」
「それで求めに応じるなどと?」
黒服が、一歩、にじり寄った。最悪の状況でもまだ、打開策を探っている。
「求めじゃねえよ。命令だ。俺を機械どものところまで連れてゆけ。今すぐだ」
そう告げた瞬間、黒服の左手が動いた。袖口に仕込んであったのか、その手にはダガーナイフが握られている。折れた腕を庇うように、左半身に構えた。
「人が優しく言ってるうちだぜ。俺がそんなもんでどうにかなるはずないと」
言い終わらぬうちに、黒服は動いた。ナイフを投げつけるに、刃が回転しながら飛来する。
雪久はトンファーで弾いた、その隙に間合いを詰めた。新たなナイフを抜き、雪久の首めがけて突き出した。
雪久は真半身に切ってナイフを避け、避けたと同時に男の腕を取る。肘の関節を固め、体を密着させると、男の両足を払った。果たして男の体が宙を舞い、次の瞬間にはもう地面に叩きつけられていた。
「人の言うことは聞くもんだ」
雪久は男の体に馬乗りになった。首をトンファーで押さえつけ、腕を極める。それだけで男は、完全に身動きが取れなくなる。
「しかし、見上げたもんだ。そこまでしてヒューイに忠誠誓ってんのか? 俺が言うのもなんだが」
そういいながら、男の喉仏に乗せたバトンに、ますます圧力をかける。男がバトンの下であえぐのも構わず、雪久は体重をかけた。
「レイチェルの姉御がそんなに良いとは言わないが、ヒューイのクソ野郎よりはだいぶマシだと思うけどな。何がそこまで良かったんだか。姉御とヒューイじゃ、扱いだって差があるだろうよ……」
男がそろそろ泡を吹き始めるのに、雪久はバトンを離した。男は大きくせき込む。
「あいつにつくのは、何でだ」
雪久が頭を小突くのに、年若い黒服は下から睨んだ。
「あの女についていくよりは、有益だろう」
男は精一杯の虚勢を張っている、ように見える。捕虜になれば強気になるよりは従った方がよい、とは軍隊での常識。ここでは通用しない。
「放っておいても、もうレイチェル・リーは《西辺》にはいられない。落ち目の方についていくよりは、そっちの方が良い」
「ヒューイが力をつけたからか」
雪久が訊くのに、男は無言のまま睨む。
「それとも、ヒューイが東の連中と組んだからか」
男の目が、揺らいだ。どんなに平静さを装ってもわずかながらに残る、心の揺れだった。雪久が顔をのぞき込むのに、男は目を逸らした。
「だっ、だいたい前から気に食わなかったんだよ、チャイニーズの女がえらそうに」
いきなり、雪久はバトンを男の口に突っ込んだ。前歯を砕き、喉を思い切り突き込まれ、男はのたうち回った。血反吐と唾を吐き、バトンの下で暴れるのを、雪久はさらに押さえつける。
「そいつが本音ってか。別にそういう考えは嫌いじゃないけど、俺だってムカつく奴はとことんムカつくけど。でも姉御のことに関しちゃ、俺の目の前で言うことじゃねえな。どうせお前等兵隊じゃ、ろくろく姉御のことなんて分かりゃしない」
まだもだえている男の髪を引っ張り、無理矢理顔をこちらに向かせた。男の瞳には、怯えの色があった。
「こっちはそれなりのつき合いだ。俺が何だかんだ文句言うのはいいけど、お前等ごときが言うこっちゃない」
わけもなく苛立ち、雪久はバトンの先で男の頬を軽くひっぱたいた。今すぐこいつの顔にバトンを突っ込んでやりたい、肉の先に埋まる骨の感触を確かめてやりたい。そんな衝動をこらえ、代わりに男の襟首を掴んで引き寄せた。
「さて、そういうの全部ひっくるめて、もう一度だけ言う。俺を案内しろ、これで最後だ。いいか」
果たして、男が頷くのに時間はかからなかった。