第十四章:13
車に乗せられ、20分も走ったところで停まった。街中の雑居ビルに連れて行かれ、ビルの3階まで歩かされた。
「入れ」
扉を開けた瞬間、室内に放り込まれた。倒れ伏したヤナは半身を起こし、室内を見ると、隅の方にシンが小さくなっているのを確認した。
「シン」
駆け寄ろうとしたときに、いきなり髪を掴まれる。そのまま地面に引き倒され、顔を地面に押しつけられた。
「聞きたいことがある」
上から声が降ってきた。ギャングどもとはまた違う、訛りのない英語だった。見上げると、目の前に黒い服に身を固めた男がいるのを認める。この街には場違いな、上物のスーツ。サングラスで顔は伺えないが、厳めしい顔つきの白人だった。
「こんな所に、わざわざ足を運びたくはなかったのだが。正直に話してくれれば、痛い目を見ずに済む」
「話すことなんて何もないよ。それより、シンを放して」
黒服は無表情だった。無表情のまま、いきなり革靴のつま先で、ヤナの腹を蹴り飛ばした。あまりの衝撃に、驚くとともに、痛みと吐き気がおそってきた。胃の上から胸にかけて熱いものがこみ上げ、胃液が喉を焼いた。
「貴様に口答えする権利はない。こちらから訊くことだけ答えればいいんだ。娘はどこにいる」
「私が知るわけないだろう。そんなの、私が知りたいぐらいだ」
「だが、貴様はその娘と通じているのだろう。どこの手のものだ」
「だから、知らないものは――」
最後まで言い終わる前に、黒服がヤナの手を踏んだ。堅い革靴の踵が左の小指を折り砕いた。痛みのあまりに声を上げ、その悲鳴をかき消すように黒服はヤナの額を蹴り飛ばす。後ろでシンがうめき声みたいな悲鳴を漏らしている。
「どうも最近の難民というのは、自分の立場を分からない奴が増えて困る。この状況が分からないわけでもないだろう」
「いくら聞かれたって、分からないものは分からない。あの子がどういう素性だ、なんて。そんなことは一つも」
それどころか、名前すらも知らない。あの子のこと、何一つとして知らない。そんな、知らないことだらけで、勝手に縁を感じていただけだ。
何も、知らないのだ。
「ただでさえ、あの蛇どもがうるさいというのに。これが終わったら、少しお前たちに教育してやる必要があるな」
黒服は近くの椅子を引き寄せた。座り込むと、ちょうどヤナを見下ろす格好になる。
「そいつを呼べ」
黒服は足を組みながら言った。
「呼ぼうにも、連絡先なんて知らないよ」
「呼ばないなら、それでも良い。息子を質に取られても、あの娘が大事とあらば」
ヤナはちらりと、シンの方を見た。シンは脅えきった表情でこちらを見ている。シンの命は奴らの手中にある。少女が来ようと来なかろうと、奴らはシンをどうにかするに決まっているのだ。
「やめて。子供に手を出さないで。私はどうなってもいいから」
「状況が分かっていないようだな。呼べるかどうかでない、呼ぶんだ」
もし、呼べる手段があって、呼んだとしたらこいつらはどうするつもりなのか。あの少女はギャングの2、3人は吹っ飛ばせるとしても、ここは完全に敵の手中。路上とは違う。あの子がどう立ち回ろうと、こんなところに一人で来るのは死にに行くようなものでは。
だが、来なければ。少女が来なければ、シンは何をされるか分からない。だからと言って自分がどうにかすることなど出来ない。
涙がにじんだ。やはり、理想でしかないのだ。あの子が言ったことなど、自分が思ったことなど。分かっていたではないか。ギャングに楯突いたら、どうなるかなど。分かっていたはずだ、自分の思う通りになど出来ないと。
分かっていて尚、思ったのか――。
「あと1分、待ってやる。それまでに呼ばなければ、そのガキをバラす。ついでにお前の処遇も決めてやらなければな。インド女を抱かせる娼館でも紹介してやる」
周りのギャングどもが、下卑た笑いを上げた。ヤナは唇を噛んだ。
ふいに、外の方が騒がしくなった。扉の向こうで、怒号と悲鳴が響き、何かが落ちる音がした。私服の一人が西部のダミ声で文句を垂れながら扉を開け、外の様子を伺う。
その瞬間、私服の後頭部から銀色の鉄が生えた。
そうとしか見えなかった。鉄の鋭角が、首筋から突き立ち、その銀色が血で汚れている。貫かれたまま、男は絶命し、くずおれた。室内の男たちがにわかに殺気立ち、銃に手をかけた。
ヤナは扉の外を見た。銀色の刃を引っ提げた、小柄な影を認めた。影は、白い衣を纏っていた。小さな体には似合わない長剣を振るい、血を払ったその姿が、少女の風貌と重なる。
少女は、今し方貫いたばかりの男を蹴り飛ばし、室内に踏み入った。
「あんた――」
ヤナはそれ以上、声が出なかった。どうやってここに来たのか、とか手にしているその剣は何なのか、とか色々言いたいことは、あったのに。
「何で、来たの」
「シンがさ、家にいなくて」
少女は俯いていた。表情は伺えない。いつも無駄に元気な声をしているのに、か細い声で、言う。
「ちょいとあんたの知り合い締め上げたら、ゲロったよ。あんたおびき寄せるために、拉致ったって。で、露店の連中に、ヤナがここに連れ込まれたって聞いて」
少女はヤナの方に歩み寄るのに、黒服が立ち上がった。
「おい、貴様」
黒服は、何故か驚いているようだった。サングラス越しに、目を見開いているのが分かった。先ほどまでの、余裕に満ちた顔ではない。心底脅えているという顔。
「シンが、世話になったね。ヴィレジット」
なぜか少女は、男の名を知っているようだった。顔見知りであるかのように、気軽そうにそう呼びかける。
「貴様、何やっている」
ヴィレジットと呼ばれた黒服は、明らかに動揺している。震える声でそう言った。
「お前は、何で」
「あたしがここで何しようと勝手だって。そういうことだから、あんたらに与したってこと。忘れてないだろう」
少女が顔を上げた。ヤナは声を漏らした。無邪気な笑みや、少女のあどけなさなど欠片もない。憤怒に満ちた顔があった。
「だからって、これはどういうことだ、どういうことだよ」
ヴィレジットが銃を向けた。
「孔飛慈!」
叫んだ。それと同時に、撃った。
号砲と共に、少女が跳んだ。剣を水平に振るい、遅れて血が飛んだ。
回転式の銃が地面に落ちた。それと一緒に、ばらばらとこぼれ落ちたものがあった。不揃いに切り落とされた、親指を除いた四本の指が、転がる。悲鳴と共に、ヴィレジットが膝をつく。
ギャングどもが一斉に撃つ。少女が飛び退く。剣を突き出し、背後の男の喉を刺した。剣を引き抜くと同時に血の霧が舞い、男が崩れる。それを確認する間もなく、左右の男を素早く斬る。喉と首、正確に裂き、声もなく男たちはくずおれた。
跳躍。少女の白い影が踊った。剣を振るい、2人、貫いた。複数銃声が響き、銃弾が少女の頬を掠めるのにも止まらず、少女は更に振る。剣先が肌を斬り、血が飛んだ。返り血が白い布地を汚し、刃に肉がまとわりついてゆく。悲鳴と銃声が連なり、剣が風切る音と相まって、不協和音を響かせた。
気づけばその場にいたギャングどもは皆伏していた。それぞれ首を斬り、喉を貫かれている。余計な傷など何一つなく、正確に急所だけを突かれていた。
「動くな、貴様」
ヴィレジットが、無事な左手で銃を握り、シンの頭に銃口を突きつけている。流れる血をそのままに、ヴィレジットは必死に声を振り絞っているようだった。
「何故だ。貴様、『黄龍』の人間だろう。何故難民の肩を持つ!」
「別に肩持っているとかじゃないけどさ」
孔飛慈は剣を下げた。ヤナの方を見ずに、語りかけた。
「あんたの言う通りだった、ヤナ。多分、あんたは正しくて、あたしは間違っていたんだ。あんたの下に住んでる爺さんがそこの黒服に報せたのも、結局そういうことだったってことだね」
チャイ老人が、まさか。だがそんなことを思う間もない。
「やっぱり、ダメだった。ダメだったんだ、ごめん」
ヤナが声を出そうとした、瞬間。孔飛慈が剣を投げた。
投げた刃は、まっすぐヴィレジットの喉元へ――ヴィレジットは突然のことで、反応出来なかった。きっちり喉を貫かれ、何一つ抵抗することもなく、倒れた。
孔飛慈がヴィレジットの身体から剣を引き抜くと、血がどっと溢れた。その血をたっぷり含んだ剣で、シンの縄を切り、猿ぐつわを外してやった。血を浴びたシンは脅えた目で孔飛慈を見上げた。もう、かつての遊び相手を見る目ではなかった。獰猛で凶悪な獣に、ただひたすら恐れを抱くより他ないという視線だった。
少女はシンに笑いかけ、背を向けた。
「ばいばい、ヤナ」
すれ違いざま、孔飛慈がこぼした声がいつまでも耳に残った。少女が部屋を出た後も、ずっと。
ビルを出ると、眩しい日の光が瞼に差した。足下にギャングの死体が転がるのを、孔飛慈は蹴飛ばした。
ビルの周りには、野次馬たちが集まっていた。皆して血にまみれた孔飛慈の姿を遠巻きに眺め、ざわめいている。鬱陶しく思いつつも、それをどうにかする気も起きず、孔飛慈は人垣を押し分けた。
「飛慈」
声がした。孔飛慈と同じ、白い衣を纏った兄の姿を、人混みの中に見た。
「哥哥」
「何を遊んでいる。目立つことは控えろと言っただろう」
「ん、ちょっとね」
孔飛慈は、ビルを振り向こうとして、止めた。かぶりを振って、乱れた髪を撫でつける。
「何でもないよ。ちょっと、野暮用があって。ごめん」
孔翔虎はため息混じりに肩をすくめた。
「まあよい。それより、召集だ」
「早いね。どこ?」
「第5ブロック。蛇を討てということだ」
「へえ……」
剣を抜き身のまま持っていることに、気づいた。孔飛慈は手ぬぐいで丁寧に血を拭き取り、鞘に納めた。
「いよいよ連中の揺さぶりを、看過できなくなったということだろう。ここでもう一度、打撃を与えるつもりらしい」
孔翔虎が、ついて来いというように手招きする。孔飛慈は長い髪を、頭の後ろで束ねた。
「全く、予想通りの動きをしてくれる、ヒューイも蛇も」
「だからと言って、気を抜くなよ。『千里眼』や『疵面』がいないとはいえ、連中は侮れない」
「分かってるよ」
踵を返した。背負った剣を、意識した。自分は剣で、兄は拳で。それ以外に許された手段などはないのだと、改めて自覚する。
朝の陽が、照り付けていた。孔飛慈は兄を追った。