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監獄街  作者: 俊衛門
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第十四章:12

 娘がいたら、こんな感じなのかもしれない。

 少女が来てから、ヤナは毎日の生活に張りが出来たような気がしていた。屋台を曳き、ただひたすらに耐えるだけの毎日は、味気ないものだった。それが普通のことであると思っていたし、息子のシンを食べさせることが自分に出来る唯一のものであると思っていた。もう若くもない自分の体に鞭を打ち、ひたすらに、耐える。シンにかまってやることも出来ず、寂しい思いをさせているだろうと申し訳なく思っても、それが普通なのだ、仕方がないことなのだと、言い聞かせていた。それが、少女と一緒にいるだけでも、そうした心のあり方が変化しているような気がしていた。少女の笑顔を見るだけでも、気持ちが落ち着く気がしていた。少女のおかげで、シンに寂しい思いをさせることもなくなった。本当は母親である自分がするべき役割だと、そんな後ろめたさもあったが、それでも少女は屈託なく笑う。

「あたしが好きで来ているだけだからさ」

 だが、同じビルに住むものたちが、全て彼女を歓迎しているわけではなかった。少女が『黄龍』を相手に大立ち回りをして、それで『黄龍』が黙っているはずなどない、という向きがあった。 

「南の蛇どもが、また動き出したらしい」

 少女が通うようになって、一月は経っただろうか。あるとき、チャイ老人がそんなことを口走った。

「どういう意味」

「『黄龍』の連中、蛇どもにまた襲撃かけられているらしい。《南辺》の拠点の、あちこちを突っつかれてるってよ」

 難民たちは耳聡い。自らの身に降りかかることから真っ先に逃れるため、どれほど些細な出来事でも噂する。どれほどの新顔でも、3日も過ごせばギャングどもの動きに敏感になるのが、成海という街だ。

「蛇が、どうして今になって」

「わからんよ。頭が潰されて、もう連中は完全に死んだと思われてたのによ。あまりうるさいことになるのは勘弁なんだが」

 ヤナは、『OROCHI』の赤い布地を思い出していた。すっかり目にすることがなくなった深紅に代わり、黄土の生地がのさばるようなってから随分経つようになった。

「蛇が息を吹き返したなら、それはそれで歓迎することなんじゃない? 少なくとも、奴らは難民に手は出さないし」

「抗争に巻きこまれりゃ、手を出すもクソもない。平等にあの世行きだ。大体、難民出が難民に手を出さないなんて法はない」

 チャイはかぶりを振った。

「息子がよ、死んでんだ。青豹の、難民出身の突撃隊連中に。ギャング同士の小競り合いなんて、いつだってマシだった試しなんぞない。連中が動いたってことは『黄龍』どもも動きを見せるってことになる。奴らに目を付けられるようなことは、勘弁だな」

 とチャイは目をすがめた。

「あんたのとこに出入りしているあの娘も、『黄龍』絡みでやらかしたってだろう。大丈夫なんか」

「大丈夫って、何が」

 ヤナは、うまく答えることが出来なかった。

「連中の締め付けも厳しくなるんじゃないかと。あんなの、出入り許しておいてこっちの方に火の粉がかかるんじゃあしょうがないだろう。もうここにも」

「あの子は大丈夫だよ」

 ヤナが言うのに、チャイ老人は疑りの目を向けた。

「どうしてそう言い切れる? ギャングどもふっ飛ばすなんて、並の奴に出来るか。あの娘だってギャング絡みかもしれんのに、そんな奴を行き来させて大丈夫って、根拠は何だよ」

 根拠などない。確信を持って言えることでもない。ただ願望にも似たようなことだった。あの子だけは大丈夫なはずだという。


 その日に限って一人だった。『黄龍』が動き出してから、少女が訪れる回数が減ってきた気がする。まさかチャイが言ったようなことになっているわけではないだろうが、ギャングたちの影響が少なからず現れているのだろうか。

 一人で曳く屋台はすさまじく重く感じられた。元々はそれが普通だったはずなのに、いつも一人だったはずなのに。少女が来て、彼女と一緒に曳くことが、もう慣れてしまったのだろう。自分一人での行商が、ひどく孤独なものに思えた。知り合ってまだ一月しか経っていないのに、ずいぶん長いこと一緒にいたような気がしている。はっきり、あの少女がいなければならないほど、それは自然なものになっていた。

 あの子はまた、戻ってくるだろうか。そんな懸念があった。もし、戻ってくるならば、今度はもう、どこかへ行かなくても良いと告げるつもりだった。チャイの言ったことが難民たちの本音だとしても、脅える必要などない。あの少女が来てから、確かにそんな心持ちになっていた。あの子が来たら、三人で暮らしてみないかと告げるつもりだった。

 まだ、朝も早かった。日の光が徐々に差し込み始めたばかりだった。凍えそうな空気の中にあって、息を吐けば白くたなびいた。ヤナは屋台を降ろし、ゴザを敷いて果実を並べ始めた。この時間は人通りなどほとんどないが、早めに場所をとらなければ、良い場所などあっと言う間になくなってしまう。

 だから、こんな時間に客など来もしない。それだから、いきなり目の前に人影が現れた時、驚いて声を上げてしまった。

「こんな場所で、朝からご苦労なこった」

 男は右腕を包帯で固めていた。一ヶ月前に、少女に腕を潰された男。黄色い格好をした男たちを引き連れていて、ギャングどもは皆、屋台を取り囲むようにして立っている。

「あの小娘は、今日はいないのか」

 男は開いている左手で勝手に果実を拾い上げ、かじりついた。ヤナは男を睨みつけた。

「そういう時だってあるよ。それが何? 天下の『黄龍』は、娘一人の行方も気にしなきゃ、難民に手を出せないっての」

 男が種を吐き出した。茶褐色の血の筋めいたものが混ざった、粘質の唾と一緒に地面に落ちる。ヤナが顔をしかめるのに、男は顔を近づけ、黒ずんだ前歯を見せた。

「強気になるんなら、自分一人のときは止めとけよ。ここじゃ跳ね返るにゃそれなりのバックがついていなきゃならねえもんだ。難民にゃ、そんなこと出来ないだろう」

 生臭い息を吐く。ヤニと、腐った肉をそのまま食らったような臭い。思わず顔を背けた。

「難民一人に構ってはいられないんだろう、龍が蛇に突っつかれて泣きを見ているって最近聞くけど」

「その蛇だ、あの娘。どこにいる?」

 背後に、若いギャングが回り込んでいる。完全に逃げ道をふさぐ格好だった。そんなことをされなくとも、ギャングたちが本気になったら、自分などひとたまりもない。

「知らないよ」

「いつも一緒なんだろう」

「いつもとは限らないよ。あの子は気まぐれだから」

「そうか。なら、あんたが来てもらうしかないな」 

 やおら、ギャングの一人がヤナの肩を掴んだ。振り払おうとしたが、無駄だった。腕を固められ、手首をひねり上げられる。関節がきしみ、痛みに声を漏らした。

「何すんのさ」

 脅えを、表に出さないように、ヤナは食らいつくような形相でねめつけた。ギャングどもはそんなヤナを見て、にやにやと笑っていた。

「ちょっとつきあってもらう。ここじゃ難だから、ゆっくり話せるところで、よ」

「ふざけないで。あんたに話すことなんて何もない」

「そうか。残念だな、じゃあこれは」

 といって、男は一枚写真を取り出した。そこに写っているものを見て、ヤナは息を飲んだ。

「フィリピン辺りでな、子供の肉を買いたいって人間がいる」

 写真の中央――両手足を縛られ、猿ぐつわをかまされた小さな体。うずくまるシンの姿があった。涙を浮かべた目が苦痛を訴えている。左頬と目の下にある青あざが、痛々しい。

「あんたが来れば、まあとりあえずは良しとしてやろうかと思ったけど。そうか、残念だな。明日の船便で送るしかないか」

「待って。行くわ、どこ?」

 ヤナの一言で、男がほくそ笑む。男が顎でしゃくると、ギャングどもはヤナの腕を締め上げたまま、ヤナを連行した。

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