第十四章:11
一人息子のシンは、すぐに懐いた。
少女はほぼ毎日のように訪れ、シンの遊び相手になった。シンと歳の近い子供は、この界隈には少なく、ヤナも帰りが遅いときがあったのでシンの遊び相手と呼べるものはなかった。シンも、女手一つで自分を育てたヤナに遠慮していたのか、一言も不満めいたことは漏らさなかった。それでも、やはり寂しかったのだろう。
少女はシンに、剣術を教えた。剣に見立てた棒を、ただ打ち合うだけのもので、それほど激しいものではない。二人して打ち合って、戯れて、そうやってシンの相手をして日が暮れる。
不思議な少女だった。こちらが警戒をしていても、まるでそのことも意に介さないように、懐に飛び込んでくる。追い返そうと考える間もなく、シンと打ち解けた彼女は、時折ヤナの仕事も手伝うようになった。手伝うといっても、屋台を曳き、あとはどこぞでシンと戯れているだけ。
それでも『黄龍』の報復をかわすには良かった。思えば少女は、責任を感じていたのかもしれない。『黄龍』の追撃を恐れたヤナを守るためという意味もあったのだろう。実際、あの日以来『黄龍』が因縁をつけてくることもなくなった。
だが、それで終わることではない。同じ居住区の人間は、やはり少女を疎ましく思っていた。
「『黄龍』が黙っているとは思えない」
階下に住むチャイは、50歳。この街の難民としては、いつ迎えが来てもおかしくないという年齢だ。占い稼業を営み、難民を相手に商売をしている。占い自体は大抵外れるので、ろくな商売はしていないと知れる。だから、ヤナもそれほど信用はしていなかった。
「だども、あの娘っ子一人で、龍の私服ども片づけたってなりゃ、目はつけられるだろう」
「今のところ、その様子はないけども」
しかし、チャイの言うことは、少なからずヤナも危惧していることだった。難民たちの目の前で、小娘に完膚なきまでに叩きのめされておいて、ギャングどもが黙っていられる道理はない。自分はともかく、シンに危害が加えられたら、と考えたときもある。
「でも、あの子が来ているうちは、『黄龍』も手出しは出来ないでしょう」
「分からんよ。そもそも、あの娘も素性が知れん」
難民の素性など、誰も知らないのだ。だから、チャイ老人の言葉もそれほど訝しむところなどない。
だが少女は、自分の生い立ちについては何一つ話そうとしなかった。難民も様々なので、過去のことに口を閉ざす人間だっている。ヤナ自身も、進んで生い立ちを口にするようなことではない。インド国軍が壊滅的な損害を被り、軍人だった夫はその時に死んだ。悲しみに暮れる暇もなく、故国は西洋国の統治下に置かれ、難民の身となったヤナはこの街に送られた。およそ統治とはかけ離れた成海で、この街の構造を知るのに時間はかからなかった。幼いシンを育てるために必死で働き、時にはストリートで身を売って糊口をしのいだ。ストリートギャングどもには、逆らうよりもすりよった方が身のため。シンが大きくなって、少しは生活に余裕がでてきた後も、その考えは変わらない。
だが少女は、平気でそんな街のルールを飛び越えてしまう。それが、理解出来なかった。顔立ちからいって中国人なのは間違いないが、彼女は地元の人間ではないらしい。だがいくら地元の人間でないとしても、成海の構造を理解出来ないはずはない。特区全体が、成海市と同じ構造で成り立ち、どこにいても難民にとって心地よいものなどないもない。そのことを意に介さずにいられることが、ヤナには不思議だった。
「あなたは」
ヤナは、少女に語りかけたことがある。
「自分に正直ね。何をするにも」
少女の艶めいた髪に触れながら、そうこぼした。もともと彼女は自分の身なりに気を使わない性質なのか、長い髪をまとめてただ縛っているだけだった。それでは髪も痛むということで、ヤナは少女の髪を梳いてやっている。
「良い髪ね」
ヤナが言うと、鏡の中で少女はすこし不満そうな顔をした。
「本気で言ってんの、それ」
「本気だよ。昔は髪結いやっていたけど、こんなにさらさらな髪はまずない」
なめらかな髪が指に絡み、流れてゆくのを、ヤナは心地よいとさえ思った。少女は誉められることになれていないのか、少しだけ憮然とした顔をしている。
「ふーん……まあ本物そっくりには出来ているのかもね、この髪も」
「本物?」
「いい、何でもない」
それ以上は追求せず、ヤナは少女の髪を梳いた。櫛が何の抵抗もなく通ってゆく。
「……あなた、毎日のように来るけど、こんなところに来ていいの?」
「何が?」
少女は、髪を撫でられて心地よいのか、目を細めていた。
「あなたは、この街で一人で暮らしているのかなって」
「あたし一人ってわけじゃないよ。兄貴が一人いるけど」
「じゃあ、毎日こんなところに来ていたんじゃ、お兄さんが心配するんじゃない?」
「心配はしないと思うけどね。あたし一人で何とかなるって、分かっているから」
「でも、一人で出歩いていたら危ないよ?」
「平気だって。あたし、強いから」
そう、愉快そうに笑った。
「それに、あたしがいなくなったら、ヤナも困るんじゃない? 連中、また来るかもよ?」
「そんなこと気にしていたの」
ヤナは、少女の髪を撫でつけた。
「あいつらが報復するかもって、心配していたじゃん。あたしがいたら、手出しできないでしょ」
「あなたがいたからといって、連中が引き下がるとは思えないけど。でも、そんなことに気を取られて、あなたが自分の生活を犠牲にしているみたいで」
「いいんだよ。あたし、どうせ暇だから」
少女の言葉が、どこか投げやりな口調に思えてならなかった。行く場所など最初から存在せず、それ故に何を問いかけても無駄である、そういう言い方に思えた。
「でも、そういうことを言うってことは、ヤナはあたしのこと、ちょっとは心配してくれんだ?」
「そりゃあ、心配はするよ。ギャング相手に、あんな無茶な立ち回りをして、いつかどうにかされるんじゃないかって。助けてもらっておいて言うのも難だけど、あなたは少し、この街に対して無防備すぎるよ」
本心だった。いくら腕に覚えがあると言っても、個人の力量如何で事態が変わるほど、この街は甘くない。『OROCHI』が南のギャングどもを狩っても、結局はそれより強い勢力に飲み込まれたように。より強い力が流れてくれば、その力に淘汰される。力に逆らって、一時的にしのいだとしても、次には新たに、より強い力がさらってゆく。抗うことが、その中でどれほど愚かしいことなのかと、やがて悟る。
「そんなこと言っても、このまま連中にやられっぱなしか?」
少女は面白くないというように吐き捨てた。ヤナは櫛を置いた。
「仕方のないことよ」
「仕方ない、ねえ……まあいいや」
少女は立ち上がると、伸びを一つして、
「ま、あんたらの言いたいことも分かるよ。でもあたしはゴメンだよ。あたしのこと、好きにもてあそんだ連中も許さないし、あたしの家族奪った奴らも許さない。今は好き勝手にさせてやるよ、それこそ仕方ない。でも時期が来れば、あたしだって黙ってはいないつもりだけどね」
「時期って、いつのこと?」
「さあ、いつになるやら」
少女は、柔らかく微笑んで言った。
「でも、それまではさ、ここにいてもいいでしょ?」