第十四章:10
蛇去りて龍来る。《南辺》では半ば諦めを含んだ悪態を以て、新たな支配者を迎えたと。ほとんどの難民たちがそう噂していた。
アジア系ばかりが占める『OROCHI』が、この《南辺》で歓迎されていたかと言えば、実はそうでもない。彼らは難民上がりであるがそれでも一介のギャングらしく、傍若無人に振る舞うことも多かった。南の支配者面してのさばるのを、面白く思わない向きもあった。だが今度の『黄龍』は、実際に支配しようとしている。難民を自らの所有物であるかのように振る舞う、青ずくめのギャングどもとまるで変わらず、否もっと酷いともっぱらの評判だった。
ヤナも、その影響は少なからず受けた。『黄龍』が路上で商売するものすべてから場所代を取ると言い出したのがきっかけだった。ヤナが故国を出て、この成海に来てからもう5年にもなる。夫を亡くし、一人息子を女手一つで育て、生活は屋台を曳き、わずかな収入を頼りに暮らしていた。一日の稼ぎで粥一つ、それを親子で分けあい、口に糊をする毎日。この上、場所代など取られては親子二人野たれ死ねというものだった。だから『黄龍』が来たときには、当然のごとく抗議をした。天下の往来で商売して何が悪い、と。黄色い私服たちはそれならば、といきなりヤナの曳いている屋台を蹴飛ばした。商売道具の果物が路上に散乱するのを、私服たちはにやにやと笑いながらそれらを踏みつぶしていった。ヤナは必死で止めようとしたが、突き飛ばされ、腰を打った。一人に捕まり、殴られ、組伏せられた。なければ身体で払ってもいんだぜ、などとひどく訛った広東語で言い、私服たちは下卑た笑いを漏らす。抵抗しようにも、身体を押さえつけられて動くこともままならない。
そのとき、遠巻きに見ている人垣から、一人の女の子が歩いてくるのを見た。私服たちも気づいたようで、果物を潰すのを止めて女の子の姿を見る。襤褸をまとった難民とは違い、上等な生地の衣服を身にまとっていた。背中に届きそうな黒い髪を揺らし、何か恐れる風でもなく、悠然と歩いてくる少女。私服の一人が訝しみ、少女に近づいた。濁った発音の英語で、子供は去れ、とか何とかおそらくそんなようなことを言う。
少女が顔をあげた。その瞬間、いきなり少女が拳を浴びせた。男の顔を打ち、顎が外れる音がした。男は一瞬のうちに意識を失い、倒れ込む。
私服たちが色めきたった。少女は躊躇もなく飛び込み、手前の男に蹴りを打った。少女のつま先が水月にめりこみ、男が悶絶して倒れた。
私服たちが銃を取った。少女に向けた瞬間、少女が飛んだ。5歩の距離を縮め、男たちの懐に入る。拳と蹴足を順当に浴びせ、正確に急所を穿った。引鉄を引く暇もなく、私服たちは倒れた。この間わずか4秒足らずの出来事だった。
ヤナを押さえていた私服が立ち上がった。貴様は何ものか、とか何とか喚き、銃を抜いた。大口径の回転式を突きつけられても、少女は薄笑いすら浮かべている。
銃が火を噴いた。身体の芯に響きそうな轟音だった。男が撃ったと同時に、少女が走り出した。銃弾が少女の頬を掠め、それでもひるむことなく、前へ。一気に間を詰める。
男がもう一度撃とうとする。それより早く、少女の手が届く。男の右手を握りこみ、手首をひねりあげた。男の手首が折れ曲がり、皮膚から骨が突き出た。男が悲鳴を上げかけた瞬間、少女はもう一方の手で男の喉を突いた。男は泡を吹いて倒れ、ヤナは唐突に解放された。
ヤナは少女の顔を見た。まだ10代そこそこの、あどけない顔立ち。5人の屈強な男たちを倒したなど、まるで信じられない程の、どこにでもいそうな女の子だ。
「通りを歩いていたら、腐れギャングが面白そうなことしてたから」
少女は、ヤナの顔を覗き込む。屈託のない笑みを浮かべた。
「もうちょいヤれるのかと思ったけど、やっぱりギャングはギャングってか」
「今何をしたの」
ヤナはなんとか自分の身を起こした。屈強な男たちが折り重なって倒れている図は、どう見ても異様だった。他の難民たちがざわつくのに、ヤナは屋台を片づけた。
「意外と弱っちいんだね、成海のギャングスタも。これなら、難民出の奴らの方が、骨はあったよ」
自分のしでかした事の意味をまるで理解していない口振りだった。ヤナは急いで屋台を畳み、その場を後にした。後ろから少女がついてくるのにもかまわず、足早に駆ける。
「礼ぐらいあってもいいんじゃない? あたしあんたの命救ったんだし? まあ金目のモンは期待できそうもないけど」
と、少女は勝手に、屋台から痛んでいないドラゴンフルーツを取り、一口かじった。
「感謝はしているけど。でもあんな往来で暴れられちゃ、次から商売が出来なくなるよ。果実の一つぐらい勝手に食われるよりも、そっちの方が怖い」
「何が怖いんさ?」
「あなた、この街は初めて?」
ヤナが聞くと、少女は視線を空に漂わせながら言った。
「まあ、大体3ヶ月ぐらい」
「じゃあ無理ないわね。この街で、白人ギャングに逆らうってことは自殺志願とみなされる。あなた、何かやっているみたいだけど、どれだけ腕があっても彼らは組織力がある。個人で立ち向かうには、荷が重すぎるわ」
「そんなん、蹴散らしてやらいいじゃん」
「よっぽど恵まれたところに住んでいたのね。難民が束になっても敵う相手じゃないよ。ましてや『黄龍』、絶対奴ら、報復してくる」
少女は、何やら納得いかないというように唇をとがらせた。
「そんなん言ってたら、あんたもやられっぱなしじゃん。ムカつくんなら、殴りゃいいんじゃん?」
「簡単に言わないで頂戴。あなたは強いかもしれないけど、私たちみたいな人間はそうはいかないんだよ。もう余計なことはしないで」
助けてもらっておいて、そんな言い方しか出来ないのかと、自分でもおかしいとは思っていた。だが事実、『黄龍』のやり方は日を追うごとに酷くなる。<西辺>で反乱が起こってから《南辺》に進出してきた『黄龍』の私服たちは、噂によれば南から人を連れ去っているらしい。女子供が主で、多くは外国に売り飛ばすためのものだとか。多くのギャングたちと同じく、企業と連携して、女は娼婦に、子供は臓器を取り出されるか、あるいは変態どもの慰み者にされるか。いずれにしてもろくな末路はたどらない。
「私には子供もいるんだから。あまり目を付けられたくないのよ」
「変なの」
少女は、今までそういう事態に直面したことがないのだろうか。とても考えられないことだった。顔つきからして中国人であることは間違いなさそうだが、言葉に少し訛りがある。ここよりは比較的治安の良い、台湾辺りの出なのかもしれない。
「それで、どこまでついてくるの」
ヤナが振り向くと、丁度少女は、屋台から二個目の果実を取ろうとしているところだった。
「もう家なんだけど」
「家? どれが?」
目の前の密集住宅など、まるで眼中にないかのように、少女は辺りを見回した。嫌みでも何でもなく、腐食した壁の構造体を、少女は家だとは思えないらしい。ヤナはため息をついた。
「これが家だよ、私の」
「これ? この街じゃよく見るけどこれって家なの? 冗談でしょ」
「この中の一つが、私の家。冗談でも何でもなく、難民というのはこういうところで生活しているんだよ」
少女は不思議そうに、土壁の構造体を見上げた。こういうところが珍しいらしく、好奇に満ちた目をしている。
「その歳まで、そうやって無事で過ごせたってのが」
ヤナは、屋台を停めて言った。
「私には驚異だよ」
話し声を聞きつけて、二階から子供の声が近づいてきた。7歳になる息子のシンは、最近はヤナの気配でも感じ取っているのか、ヤナが帰ってくるとすぐに降りてくる。いつもなら満面の笑みでヤナの胸元に飛び込むのだが、この日は違った。
「誰?」
とシンは、少女の方を見て言った。見知らぬ人間に、警戒しているようだった。少女は、人懐っこそうな笑顔でシンに手を振った。そうしてみると、先ほどギャングたちを吹っ飛ばした本人とはとても思えない。普通の少女だ。
「あたしは母さんの命の恩人だよ? だのにあんたの母さんと来たら冷たいんだよ。恩人だってのに、邪険にされたんだよあたし、泣いちゃうよ」
恩人恩人と、そればかり強調するが、本当に助ける気があったのかは疑問だった。結果としては助けられた形にはなったが、あんなことはそうあるものではない。
「恩人って、なに?」
シンには、その言葉の意味を知るには、まだ早かったようだ。少女はシンの背丈にあわせるように屈みこんで、
「いいことしてあげた人ってことだよ。あんたの母さん、危ないところを助けてもらっても、その人を追い返そうとするんだよ。どう思うよ、ねえ?」
シンは、少女の言うことを真に受けたようで、母親に向かって疑念の目を向けていた。自分の親が、何やら知らぬ人間からこういう言われ方をすることが、納得いかないらしい。まさかこういう手段で来るとは思わなかった。
「食事でもしていく?」
ヤナはため息混じりに言うと、少女はしてやったりというように微笑を浮かべた。