第十四章:8
レイチェルは、ユジンに凄まれた程度ではまるで動じることなどなく、涼しい顔をしている。
「別にあいつの何かを知っているというわけではないが、少なくともあんたよりは知っているかもしれないね。たとえばあいつの、左目の由来とか」
ぎくりと、身体に電流が走った気がした。隣の彰を見ると、彰も面食らったように目をみはっている。ここにいる誰も、雪久がどういう経緯で『千里眼』を埋め込み、手に入れたのかを知るものはいない。それをこの女は知っている?
「意外、って面だね」
レイチェルは薄く笑みを浮かべた。
「あいつは誰にも喋らないからね。多分、彰も知らないだろう?」
「脛に傷持っているのは誰もが一緒だから」
ずり下がった眼鏡を元の位置に戻して、彰は努めて冷静に振舞おうとするが、明らかに動揺していた。
「深く聞いたことは無かったけど」
「私以外には、その辺りの事情は言わないからね、あいつ」
まるで自分が特別であると言わんばかりだった。レイチェルの態度が、いちいち癪に障ってならない。
「気になる? 『千里眼』の由来」
ユジンの苛立ちを感じ取ったように、レイチェルが訊いてくる。
「いいよ、別に。そんなことどうでも良いし、あなたの自慢話になりそうだから」
「絡むね、私に突っかかってどうするんだ。雪久を取り戻したいのか、それともただの嫉妬なのか?」
「嫉妬とかじゃないよ」
「そうだね。なら単純に、私が嫌いだからか。嫉妬と言うには、少しばかり気持ちが定まっていないようだし」
何のことかわからずに黙っていると、レイチェルはさらに続けた。
「老婆心ながら教えておいてやるよ」
レイチェルは火のついたままのタバコを投げ捨てた。壁に当たり、火花が飛んだ。
「あんたぐらいの年齢だとね、自分の気持ちがどこにあるのか、分からなくなることがある。その気持ちがどういうものであるのか、思慕なのか敬意なのか、時として見誤ることが多いんだ。特に、あんたみたいに経験が浅いとね」
「何それ、馬鹿にしているの?」
「馬鹿になんてしてないよ。私も経験したことだから、これは誰もが陥る可能性があるんだ。けど、それも長くは続かない。自分の気持ちがどこに向いているのかって、今のうちに良く吟味することが大事だよ」
「だから、何が言いたいの」
彰が隣で身構えているのにもかまわず、ユジンは詰め寄った。
「上から目線で偉そうなこと言わないで。あんたに私の何が分かるというわけでも無し、適当なこと並べて年長者ぶって、私が敬服するとでも?」
「そんなことは思っていないよ」
「じゃあ黙ってよ。裏切られた龍の頭が、講釈垂れる暇なんてないでしょうよ」
彰が明らかに狼狽していたが、レイチェルは涼しい顔だった。ユジンが言うことにいちいち動じることなどない。だが同時に、表情に翳りも見えた。
「そうだね、あまり偉そうなことは言えない。何せ私自身が、そうだったから」
「は? 何」
「何でもない」
レイチェルはタバコの箱を、彰に投げてよこした。彰が受け取ると背を向け、
「私の経験上のことだから、あまり気にしなくてもいいよ。ただそういう気持ちは悪いことじゃないから、大事にしな」
レイチェルはそんなことを言い残し、広間を出た。レイチェルの姿が見えなくなったと同時に、彰が盛大にため息を吐き出した。
「寿命が縮んだ」
「何でよ」
「何でじゃない。この時期に面倒なもめ事はやめてくれよ」
「面倒って言ったって、まあ、その……」
文句を吐きそうになって、しかしユジンは、飲み込んだ。
「悪かったわよ」
「良いけどさ、別に」
彰は今し方受け取った箱からタバコを取り出し、火をつけた。
「あいつの言うことにいちいち反応してたら、保たないよ。たぶん、癖みたいなものなんだろうけどさ。ある程度聞き流すくらいじゃないと」
だからといって、あのような言い方をされるとさすがに気になった。私が何を見誤るというのか? 今の気持ちがどこに向いているか、などと考えた時もないがそんなことに意味があるのだろうか、と。
「レイチェルの言わんとしていることも分からんでもないけどね」
煙を吐き出して、彰が言った。
「どういうことよ」
「いや何、ユジンは正直言って誰のためにやっているのかな、と」
「それは――」
「雪久のためか?」
言葉に詰まった。何か、体の芯の部分を打ち抜かれたような心地だった。口に出す言葉を選んでいると、彰は眼鏡の位置を調整しながら微笑をもらした。
「前は、たぶん即答したよね。今の質問」
「急に言われたから」
「それだけ? はっきりそうである、と言い切れないことがあるんじゃないのか?」
メガネの奥から、彰の目が見据えてくる。言い逃れも誤魔化しも効かないような曇りのない目だった。何をどう繕われようとも、本質を見据えようという風な、沈着さを帯びている。その目を前にしたら、もはや黙るより他なかった。
「まあ、その辺は戦いが終わったら、ゆっくり考えるといいよ。それに、肝心の省吾の行方も分からないからね」
「何よ、なんでそこで省吾が出てくるの」
「あれ、違うのか? てっきり俺は、そっちの関係かと」
にやけ面を浮かべる彰に、ユジンは憮然として返した。
「なんか最近、あなた性格悪くなったよね」
「あの連中を相手にしていたらね」
彰はまるで悪びれもせずに言って、タバコの吸い殻を落とした。靴の裏で踏みしめると、もう一本口にくわえた。火をつける段になって、思いとどまったようにライターを下ろした。
「ここで全部吸ったらもったいないか」
などと言って、今取り出したばかりのタバコを箱に戻した。
「それより、遊撃隊と玲南、説得できたらどうするの」
「即刻配置につけるよ。というより、明日までに奴らが答え出さなくても配置につける。うちの連中に当たってもらうことになると思うけど、そこはしょうがない。もう待っていられるような状況じゃないからね」
「じゃあ、彼らの返事が芳しくないと」
ユジンは背筋が冷えるのを感じた。
「正直、かなり苦しくなるわけね」
「これはもう博打だよ。でも、遊撃隊ははっきり言って了承するんじゃないかな。そんな感じがした」
「結構なことね。こっちはそうだね、韓留賢との折り合いがつかなければ何とも」
「玲南がいれば、それだけ違うけど。もし無理なようだったら3人であの機械に当たるしかない」
「3人? 2人でしょう」
「3人だよ。ユジンと、韓留賢と、あと連を」
意外な名前が出てきた。連は今、南の索敵を続けていると聞いたのだが、まさか戦いにも参加させるとは。いや、それよりも。
「何で、遊撃隊と玲南説得するのに苦労していて、連に話がついているのよ」
「将を射んと欲せば、まず馬を射よ。彼女は比較的話が分かると踏んで近づいてみた。玲南をコントロールできるのも、おそらくあいつが主だろう」
ユジンは先ほどの、玲南の言葉を思い出していた。連に説得された、と言っていたがそれはつまりそういうことなのだろうか。確かに目の付けどころは悪くなかったかもしれない。玲南は、連の言うことは聞く。
「でも、あの子は忍びだというけど正面切っての実戦はどうなの」
「その点は心配ないだろう。あいつ省吾とやり合ったらしいけど、それで渡り合えるなら腕は確かだ」
「省吾と……」
「あのときだよ。”Xanadu”襲ったとき」
彰に言われるまでもなかった。初めて西に攻め込み、『STIGER』の遊撃隊と邂逅した夜。そして省吾に命を助けられた夜でもあった。あの夜で、ユジンは命を落としても不思議ではなかった。飛来する矢を掴みとった、あの手がなければ今頃、ここにはいない。
「そう、あの省吾とねえ」
「どうした、気になるのか?」
彰が不思議そうな顔をして訊いてくるのに、ユジンは頭を振った。
「何でもないよ。ただ、そういえば省吾はどうしているかなって思って」
「生きているとは思うけど、あの黒づくめの女がそもそも正体不明だからね、何ともいえないけど。省吾が動くまでおとなしくしていろと言った、とかなんとか。それすらもいちいち怪しい」
「でも、生きているよ。きっと」
確信めいたものがあった。いくら孔翔虎に痛めつけられたとしても、簡単に死ぬような男ではない。何の根拠などもなく、その女が言ったことが全てではあったが、希望的観測でしかなかったのだが。
「生きていてくれないと困るよ。まだ、助けられた借りも返せていない」
だがもちろん、借りを返したいだけではない。やはりここには、省吾の力が必要なのだ。燕がいない今となっては、強くそう感じる。
「借り、ねえ。まあ何でもいいけど」
彰は腕時計をのぞき込みながら呟いた。左腕に収まったアナログ表示は、長針と短針がちょうど同じ11の数字を指している。
「さて」
と彰は伸びをひとつ、した。
「動くか」