第十四章:6
コンクリートを踏みしめて、玲南が突きを放った。空中に向けて打った拳は、見えない何かを斬り裂いたような鋭さを纏っていた。
体を入れ替える。腰を入れ込み、横蹴りを放つ。膝を戻し、軸足を替え、今度は左上段に蹴りを打った。しなやかな脚が伸び、見えない敵の首を刈り込んだ、ような気がした。
玲南が先刻から繰り出す形は、ユジンには未知のものだった。棍を扱うとは言っても、ユジンの術はみよう見まねの我流で、誰かに教わったようなものではない。それでもギャング相手に立ち回ることが出来ていたので良しとしていたが、改めて形というものに対峙すると見入ってしまう。自分にはない技の鋭さ、流麗さ。そうした見栄えばかりに目がいくが、よく見ればかなりの正確さを以て、計算し尽くされた動きをしていることが分かる。だからだろうが、ユジンは玲南の打つ形を、美しいとすら思っていた。
「なんだか浮かない顔だね、ユジン」
唐突に声をかけられて、ユジンは我に返った。玲南は形を終え、ユジンの顔を覗き込みながら言う。
「浮かない顔って、私が?」
「思い詰めたようなさ。まあここ最近、あんたの気が晴れたような顔なんて拝んだことないけど、今日は特に沈んでる感じ。何かあったのかい」
何かあったか、と問われれば色んなことがありすぎて、特定は出来ない。だが、最近のことと言われたら、おそらくは一つしかなかった。
あれから、舞とは口を聞いていない。それどころか、目も合わせていない。互いに互いを避けている。いくら取り繕っても、一旦口にしてしまった言葉は、早々取り消せるものでもなく。結局そのままの状態だった。
(何故あんなことを……)
嫌気が差していた。本当はあんなことを言うつもりはなかったのだ。いきなり和解をしようなどとせずとも、ただ黙っていればそれで良かったはず。それなのに、舞を目の前にすれば、憎まれ口しか叩かない。そういう自分に対する嫌気だった。韓留賢に対しては、力ではない方法で説き伏せるべき、だとか何とか偉そうな口を聞いておいて。
だからといって、それについて謝罪したり、言い訳したり、そういったことも出来ないでいた。顔を合わせればまた、余計なことを口走ってしまいそうだった。罵倒や嫌みの類しか口に出来ないのであれば、もう会わない方が良い。だがそれで良いのか――そんなことをあれこれ考えているうちに、北の捜索隊が決まり、南の拠点攻撃が始まった。あれこれ考えているうちに事態が動き、引きずったまま今に至る。
「別になんでもないわよ」
ユジンは無理にでも、そう言うしかなかった。これは個人的な問題であって、今はそんなことにかまけている暇はないのだ。玲南を説得できるかできないか、それで今後のあり方も変わってくる。内輪の問題は、今は封印すべきなのだ。
「ま、何だっていいけどさ」
玲南は手ぬぐいで汗を拭った。新しい布地など用意できるはずもなく、玲南が手にしている布もところどころ破けてボロボロだった。
「んで、今日は何? あたしを説得しに来たっての?」
「ま……そんなところ、なんだけど」
「説得ってもねえ」
玲南は手ぬぐいを肩にかけて、
「この間、連の奴が来てさ。言われたよ、さすがに大人げないだろうって。まああたしも、あんときはちょっと頭に血が上ったなって、反省はしているんだけど」
珍しく、玲南は殊勝なことを口にする。反省という言葉から、この娘は一番縁遠い存在であるかのように思っていたので、ユジンは少しばかり驚いた。
「じゃあ、協力してくれるの?」
「あの男がいなきゃね。あいつと組むのは、やっぱり嫌だよ」
玲南にとって、そこはどうしても譲れないところであるらしい。頑ななまでに韓留賢を拒絶するが、しかしそこを認めるわけにはいかない。
「韓留賢は主力なんだから、それはできないよ。私とあなたと、それに韓留賢で、あの機械に対するんだから」
「気に食わない奴とは一緒に仕事したくないものだろう」
「私からも良く言っておくから、何とか折れてはくれないかな」
「それなら、あたしは降りるよ」
にべもなく玲南は言った。どうしても気分が乗らないようだった。
「金のこと、悪く言ったから。だから韓留賢が嫌いなの?」
「そればっかりじゃないよ」
玲南は手ぬぐいを投げ捨て、
「なんとなく信用できないんだよ。いつも腹に何か抱えているような感じで、真意を隠しているようで。あいつ、たまに見るけどどっかに連絡しているんだ。知ってた?」
「さあ……」
最近、韓留賢には女ができた、という話は聞いたことがある。韓留賢がどこかに電話しているのも、実はその女のところである、というのがもっぱらの噂だった。だからどこに連絡しているのか、またどのぐらいの頻度で連絡しているのか、などとは気にしたこともない。気にして、それを聞くのも野暮な気がして躊躇われた。
「じゃあ、玲南は」
あまり玲南を刺激しないように、言葉を選んだ。
「ただ、韓留賢が嫌なだけなんだね。別に私や彰が気に入らないとか、そいういうことじゃない、と」
「ま、まああんたはさ、ほら。何というか、借りもあるわけだし」
何故か玲南は、気恥ずかしそうに目をそらした。まともに顔を見てはおれないようだった。
「じゃあ玲南は、私のことは信じてくれるの?」
まさしく、攻めるならばここでしかない、という気持ちでユジンは訊いた。韓留賢の話題をあまり引っ張るよりも、この娘を協力させるにはそれしかない。
玲南は、少し考え込むように視線を宙に漂わせた。
「あんたを信じるとしても」
ややあって、玲南が言った。
「あの男と組まなきゃ、なんだろう」
「韓留賢と組むんじゃなくて、私と組むと思って。確かに彼の力が必要だから、彼には協力してもらわなければならない。だけど、すべての指示は私が出すようにしている。彼とコンビネーションをとらなくても、私とあなたで組めるよう、誘導するから」
「それで、3人であの機械とやり合うのか」
「私と韓留賢だけでは、とてもじゃないけどあの機械を押さえられない。あなたの協力が、必要なの」
「必要、ってもねえ」
玲南は明らかに迷っていた。気持ちが傾きかけているが、最後のところで韓留賢のことが引っかかっているようだった。
だがそれで良い。あまり勢いで押しすぎても、玲南自身が納得しないまま了承させることになってしまう。不満を抱えたままで戦いに臨まれることとなる。それでは意味がない。嫌々従わせるようなことになれば、どこかで気の弛みにつながる。玲南が持てる力のすべてをぶつけてもらわなければあの機械と――孔翔虎と孔飛慈の二人とやり合うことはできない。
「答えがまとまったら、また言ってよ。私は待つから」
ユジンが腰を上げかけた、時。玲南が思い出したように口にした。
「あんたさあ、あの男のことどう思ってんの?」
「あの男って」
玲南は、まるで疑念を拭えきれないという視線をしている。
「あの『千里眼』さ。あんたがそこまでするのは、やっぱりあいつのためなんか?」
「それは――」
もちろん、雪久のためばかりではないが、多くは雪久のためになるのだろう。ただそれを伝えるべきかどうか迷った。玲南の質問が、どういう意図のものか良く分からず、答えに窮していると、玲南はさらに追い打ちをかけるように言う。
「別に私情を差し挟むなとか言わないよ。それについちゃ、あたしも人のことは言えないし。でも、あいつのこととか、その周辺のこと引きずったまま説得しにかかっても、効果は薄いと思うけど?」
長い脚を組んで、椅子によりかかりながら、玲南は合成水のボトルを傾けた。なんと答えて良いのか考えていると、玲南はボトルの水を飲み干してから、
「ま、とりあえずさっきの件は考えとくよ」
玲南は一方的に話を打ち切ると、早く出ろと言わんばかりに手を払いのけた。ユジンは退出を余儀なくされ、部屋を出たところで玲南の言葉を反芻していた。
引きずったままでは、と。舞のことを、あるいは見透かされたのかもしれない。いや、自分が言わなくとも、周りのものだって皆、ユジンと舞との確執は明らかだろう。
(参ったなぁ……)
どうやら、隠し通せるようなことではないらしい。今のままで、どうにかなるなどとは考えない方が良いのかもしれない。せめてこの戦いが終わるまで、とは考えていたが、そういう訳にもゆかない。
情けなく思える。彰や韓留賢に、偉そうな講釈を垂れても、自分自身が人を信じていない。自分がダメなものを、どうして他人に強要できるだろうか。
(とは言っても、いきなり和解は難しいだろうし)
だからなるべく距離を置きたかった。和解など無理にすれば、どこかでこじれるのは目に見えていたから。だがそんな風にすれば、二人の間の確執が、他の人間には見えてしまう。どうにも八方ふさがりの状況だった。
「やってらんないわ」
廊下を歩きながらひとりごちて、ユジンは広間に向かった。とりあえず彰に報告するべきことはしておかなければならない。