第十四章:2
《東辺》から来たというこの女が、援助を申し出たのは突然のことだった。まだ夏の中頃、《南辺》で和馬雪久らがギャングどもと一戦交えていた頃だった。個人的に接触を図り、ただ一言だけ告げたのだった。
西を穫らせてやる。
そこから先は早かった。『黄龍』の内部で、密かに私兵を作り上げた。何しろ、私服たちはほとんど自分の言うことを聞くようにしてある。兵をまとめるのは難しいことではなかった。ただ、いよいよ反旗を翻すというときに、私服たちと『OROCHI』が衝突し、時期を逃してしまった。『OROCHI』を引き入れようとしたその試みも無になり、レイチェルの暗殺も失敗した。これ以上の失態はこちらの命を縮めることになる、それだというのに。
(余計なことばかり)
とはいえ、それを補って余りある戦力を提供された、その負い目はあった。もし一人で、レイチェルに刃向かおうとするならば、おそらくはもっと、かなりの時間をかけなければならない。機械の殺し屋、という存在は大きい。
「しかし」
とヒューイは、木人の腕を掴んだ。
「ここは西、あんたは東だ。西にいる間は、俺が長だ。東に行けば従うしかないだろうが、ここでは俺の言うことに従ってもらう」
「兵力もないのにか」
「誰も彼も、お前たちにひれ伏すと思ったら大間違いだ。もし不服なら、ここで俺をやれば良い。そうなったとしても、俺は主張を曲げる気はない」
実際にそうすることはないだろう、とは思ってもヒューイは自分の拳を意識せざるを得なかった。半歩でも、女が室内に踏み込めば、構えをつくり、相対しなければならない。そんな予感があった。実際のところ、この女の力量というものはなかなかに不透明で、一戦構えるということにかなりの勇気が必要となる。
だが、女は鼻先で笑うばかりだった。
「東、と言えば大抵の奴は慄くだけなのだが。そこまで言えるなら上出来だ、たとえ虚勢だとしてもな」
「本心かよ、そりゃ」
「吹けば飛ぶような塵芥でも、何の中身がないものに援助などしない。これでも『マフィア』はお前を認めているのだよ」
「そうかい。有り難くって涙が出るね」
本気でやり合えば無事では済まないという予感があったので、少し安堵した。その安堵が表に出ないよう、ヒューイはわざと気のない返事をした。おそらく、女の方でも本当に潰しにかかればいつでもやれるという余裕があるのだろう。だから敢えて今は手を出さないという意識の現れであるかのようだった。
「ただ、独断専行を許せば、それだけ士気に関わる。認めているなら、少しは控えてもらいたいね」
「お前たちの作戦には支障はない。あれはあぶり出しているのだから」
「何をだ」
「不穏分子を」
「訳が分からん。分かるように説明しろ」
などと言っても、おそらく女が答えることはないだろうとは思っていた。しかし、意外にあっさりと女は答えた。
「観察官が、この街に紛れている可能性がある」
「存在自体眉唾なんじゃないのか」
「眉唾ならば、それで良かったのだが。ただ国連の内部にも動きがあるから、あながち眉唾とは言い切れない」
「意外だな。『マフィア』は国連と結びついているんじゃないのか」
「国連も、一枚岩ではない。内部では色々とあるんだ」
なにやら含みのある言い方だが、ギャングたちが結びついているというのはせいぜい現場の職員であって、特区全体を管轄する国連の内部にまで入り込んでいるわけではない。ヒューイ自身も『黄龍』に入って初めて知ったことだったが、特区に派遣された総督府の連中は極めてギャングたちに甘い。商売するにしても、また大きな抗争があっても、少し鼻薬をかがせてやれば見て見ぬ振りをする。観察官とは、そうした現場の状況を憂いて、国連の上層部が派遣したものだと、もっぱらの噂だった。風紀の引き締め、賄賂が横行している現状を調査しているのだと。だが、
(本当にそんなものがあるものか)
いまいち信じられない理由は、そのような存在が潜行しているとしても間近に感じることはない。それもあるが、果たして街そのものに潜入して何ができるかということだった。潜入するならばもっと具体的な、街とかそういう曖昧なところではなくピンポイントに潜り込むものではないかと。
あるいは、街そのものに潜らなければならない事情でもあるのか。いずれにしても、存在が確認されたわけでもなく、あくまで噂に過ぎない。
「信じられないという面だな」
「今の段階では、信じるに足ることではないが。それでもあんたがそう言うということは、ある程度は真理なのだろう。俺たちとは別に、あんたらが西で暴れているのもそういう事情か?」
「何人か、それらしい人間は始末したが、しかし背後のつながりは見えない。おそらく観察官自体は街のチンピラを集めて使っているのだろう、どこかの組織に属しているようでもなかった」
「あの娘を襲わせたのもその絡みか」
「あの娘とは」
「蛇どもの、棍使いの女。名前は忘れたが、あいつに千里眼をぶつけたのも、奴が観察官とにらんだからなのか」
「あれはまた違う」
女は、まるでヒューイが聞いてくるのを心待ちにしていたかのように微笑を浮かべた。
「あの女は、炙り出すのに使ったまでだ」
「炙り出すとは、観察官をか」
「今言ったように、こちらが目星をつけたとしても、それもただのチンピラに過ぎない。背後につながるものは何もない。だからまず、目星をつけたものが観察官である、と確かな証拠を見つけなければならない」
「その証拠が、どうしてあいつを襲うことになるんだ」
「一人、目星をつけている」
女の目は、ヒューイの方を見ておらず、逡巡するように視線を空に漂わせていた。
「あの女を襲えば、目星をつけたそいつも動く。そうなれば奴を操る連中も、予定外の動きを見せるだろう」
「そんなまだるっこい方法で、背後関係を洗おうとかいうつもりか」
「他にも色々やっている。それに」
つと、女は視線を傾けた。
「まだるっこいと言うならば、お前はどうなんだ。敵の数は多くない筈、さっさと南に攻め込めば良いものを」
「相手がレイチェルじゃなければ、そうしている」
ヒューイは拳の先で木人に触れ、言った。
「南の、どこに潜んでいるのか分からない今、機械どもを闇雲に差し向けるわけにもゆかない。確実に、今いる場所を捜し当て、その上で叩かなければ」
本当ならば、本部にいる間、そして西辺にいる間に叩くべきだった。南に潜り込まれては、ましてや『OROCHI』に身を寄せていたのでは、捜索に手間取ることは目に見えていた。だからこそ和馬雪久を抱き込み、南辺にレイチェルが逃げ込む隙がないようにと、そのための同盟だったのだ。雪久もまた、『STINGER』に手を焼いている、だから簡単に手を結ぶものと思っていたが。
(その『STINGER』と通じていたとは)
これは、はっきり自分の見通しが甘かったとしか言えない。ヒューイは己の失態を恥じていた。数の上でいくら優位であっても、地の利は明らかに『OROCHI』の方にある。南辺の、あの入り組んだ構造体は、西辺にはないものだ。そこに逃げ込まれ、匿われては厄介になる。そう分かっていたことだ。
(まだるっこいのは、俺の見通しの甘さ)
もっとも、それをこの女に言うのも癪なので、ヒューイは黙し、木人を叩いた。裏拳を振り、人で言うところの側頭を打つ。