第十四章:1
下界が騒がしい。そう思った。
それそのものは、珍しいことではない。騒がしいといえば、《西辺》の夜はいつだって騒がしく、ここの住人は眠ることを半ば放棄しているのだから。しかしこの騒がしさは、もっと別な部分で感じていることだった。いつものような街の喧噪、ネオン街の賑わい、そうした諸々をすべて飲み込むほどのもの――熱狂だったり、恐慌感だったり、または悲壮感が、今この街には潜んでいる。その原因は明らかに、《南辺》にいると思われる、レイチェルや『OROCHI』に関することだった。
今もまだ、レイチェルに対して期待する向きはある。西をほぼ完全に掌握したとはいっても、それは表向きのことで、レイチェルの息の根を完全に止めない限りは安心出来ない。ヒューイが新たに『黄龍』の長になったということに、納得していない者は確かに存在していて、それらを一掃することで初めて西を制圧できたといえる。
最初は西を、徐々に南を。
それまでの辛抱だ、とヒューイは部屋の中央にそびえる木人に相対した。
等身大の丸太から、不格好に枝めいた棒が伸びている。ストリートの時から、奇妙なこの伝統的な鍛錬具の前に立たない日はなかった。子供の時分に地元のギャングに入り、そこで暴力というものの本質を知った。何も武器がなければ抵抗することも出来ず、抵抗しなければ何の後ろ盾もないガキどもは慰み者になるか、さもなくば殺されるかしかない。ストリートではいつも弱いものから食われていく。
そのためには力をつけるしかなかった。スラムで生を受け、そのころから見よう見まねのストリートボクシングで喧嘩に明け暮れ、ギャングに入って初めて殺しを覚えた。最初の殺しは銃でもナイフでもなく、素手によるものだった。そのときに格闘の才を見いだされ、フィリピン人の武術家から 截拳道を教わった。真似ごとではない、本物の武を修め、それを武器にのし上がり、地元ではヒューイの名を知らぬものはいなくなった。
一通りの技を覚えた後も技を磨き続けた。実戦で腕を試し、日々の鍛錬では木人を叩き続ける。木人は相当に丈夫なものではあるが、毎日叩いていたので消耗が早かった。いまある木人は、もう3基目だ。
その、木人に対して、右半身に構える。顔面の辺りに、レイチェルの顔を思い浮かべる。じっと見続けると、木人がレイチェル・リーの顔かたち、体、そうした雰囲気を帯びてくる。木人そのものが、レイチェルに完全に置き変わるまで、ヒューイは対峙していた。
唐突に、間をつめた。右手の指を伸ばし、指標を放った。間髪入れずに、右拳を作り、裏拳を叩き込む。ちょうど相手の目とこめかみを打った格好になる。 下がる。今度は右足で、木人の鳩尾を蹴った。足を戻さず、そのまま回し蹴りに変化させて側頭部に打ち込んだ。
樫の木で出来た本体が、わずかに揺れた。足を戻し、突き出た木の棒を掴み、膝蹴りを食らわせる。木人が揺れ、徐々にその揺れが収束してゆくのを見ながら、ヒューイは言った。
「こんなところを見ても」
背後に向けた言葉だった。目にすることなくとも、気配だけは感じる。今の今まで感じることがなく、いきなりその気配だけが戸口に現れた、そんな印象だった。おそらく気配を消して、ずっと前から見ていたのだろう。
「何も面白いものなどないだろう」
「そうでもない」
と、女の声が返ってくる。振り向くと、都市迷彩の軍服に、紺色の防弾ジャケットを着込んだブロンドの女が、いかにも挑発めいた目で見据えてくる。
「お前さんの言いたいことはわかる」
ヒューイはタオルで汗を拭い、隣の椅子に腰掛けた。
「孔翔虎みたいな、機械の四肢ならばこんなことをしなくとも済む、無駄なことをしていると、そんな風に思っているのだろうが」
「別にそんなことに興味はない。ただ、面白い動きをするとは思う。前の手足を用いるというものは、近代の格闘技とはまるで違うコンセプトだな」
「詠春拳をベースにしているのだから、それも当然だろう。伝統武術というものは、大抵が利き腕を前にするものだ。それはあんたも、分かっているんじゃないか?」
特に確認するまでもなく、ヒューイはそういう気がしていた。身のこなしや醸し出す空気、女が纏っている気迫は、単なる異様さとは一線を画していた。武を修めた者でなければ出せない気だ。
「武術は嗜む程度だ。私はそれほど詳しいわけではない」
「どうだか。あんな機械のガキを派遣するようじゃ」
最初に、ヒューイのところに協力を持ちかけたのはこの女だった。剣術と拳法に秀でたものがいる、そうただ一言投げかけた。実際に目にしてみればただのストリートチルドレンにしか見えない兄妹が、機械であることを知ったのは、レイチェル・リーを襲わせる少し前。一見しただけでは生身の人間と変わらぬ外見であるから、最初に見たものはまず騙される。その異様さも去ることながら、全身機械のあの二人をいとも簡単に派遣してみせるこの女。
(得体の知れない)
そのように感じてはいても、お互いに余計なことを詮索しないという条件である以上、深く追求することはない。
「おまけに、あんたの知り合いはあいつらだけじゃないときている」
「何のことだ」
「俺のところに派遣したのはあの兄妹だけ。だが、千里眼の満州人とフィリピン人のガキ三人組は、俺の預かり知るところではない。あいつらを動かしたのは、あんたたちだろう」
女は何もいわなかったが、その沈黙こそが返答だと思った。《東辺》から来たこの女から見れば、西も南も等しく取るに足らない土地であり、そこに住む人間などは、やはり取るに足らない存在であるのだろう。そう思えばこその沈黙なのだろうと、思われた。
「何を考えているのか分からんが、あんたたちは手は出さず、金と人だけ出す、そういう約束だったはず。それなのに、最近西や南の界隈でも、かなり好き勝手してくれているようだが」
「勘違いするなよ。この街はお前のものではない。ここが誰の街なのかを考え、誰の所有物なのかと思えば、そんな言葉は吐けないはずだ」
「つまり、成海の街はあんたのものだということか?」
ヒューイは、問いつめるようにいう。成海市そのものを自らのものであるかのように振る舞うこの女の、真意を確かめたかった。本心なのか、あるいは別な意図があるのか。女は、曖昧な薄笑いを浮かべた。
「余計なことは考えぬようにな、ヒューイ・ブラッド。貴様がこの場所に立っていられるうちは、《東辺》は援助を行うことができる。それが無くなれば、貴様も西に巣食う破落戸にすぎないのだから、口は慎めよ」
脅迫ではなく、事実を述べる。そういう口調だった。実際、それを行うだけの力がある、その力を背景にすれば誰も逆らうことはできない。そういう確固たる自信に裏打ちされた文句だった。
「ビジネスパートナーにかみつく真似はしねえよ」
ヒューイは木人に向き直った。一歩、間合いを取り、今度は左半身に構える。踏み込み、真っ直ぐ縦拳を叩き込んだ。人体でいうところの水月に突き刺さり、木人が小刻みに揺れた。
「利害が一致している限りは、口出しはしない。ただし、それもこちらの邪魔にならない範囲でのこと。あまりお前たちが出張って、作戦に影響を及ぼすようにならないようにしてくれよ」
「偉くなったな、破落戸風情に指図されるいわれはないが」
「破落戸ってか」
確かに、そう表すのがふさわしいだろう。だがただの破落戸ではない、と思っている。考えなしに動き、暴力を目的としたギャングとは違うのだと、しかしそれを伝えたところで真意の半分も理解されないだろうから黙っておくことにした。
「金と人、兵力の半分を負担して、それで口を出すのはまかりならんと言いたいのだろうが、それでも作戦に支障のないようにという約束ではあった。あのフィリピンのガキをけしかけたことで、奴らに無用の警戒を与えてしまった。こちらとしては徐々に網に掛けるつもりだったのに、だ。余計に深く、地下に潜ってしまってどこにいるのか見当もつかない」
「見つからないのは、貴様等の無能が故だ。そちらに援助を行ったとしても、こちらはこちら目的を果たす、そのための行動を起こす。最初に確認したことだろう」