第十三章:21
どうも、余計なことを口走っている気がした。本来言うべき事からすればそんなことは瑣末、取るに足らないことであるはずなのに。顔をあわせると、つい衝動に任せるままに言葉が口を突く。一体、それが何の得になるのか、とそういう類の。口にしたところで何も解決しない、そういうものだ。
(違うの、本当はそんなことではない……)
いつの間にか水が溢れていた。蛇口を閉め、桶の中に浸る衣類を見つめた。つい先ほど、信頼が大事とのたまった自分の口から、憎まれ口しか出て来ないことに、驚きと苦悶を宿した自分の目が、水面に映っている。あれほどの理想をのたまっておいて、何て様だと。そう語りかけるような。
ユジンは水の中に手を入れると、思い切り下着をすり合わせた。
「それにしても、あんなことを口にするなんて。いくら雪久に言われたからって」
「あなたは信じないかもしれませんが」
舞は意外としっかりした口調で言った。
「雪久は、私がこうすることを予想していたと思います」
「何で? 雪久の女なんでしょ、あなた」
「自分の物でも、躊躇無く差し出しますよ、彼は」
はっきりそうであると確信している話し方をする。舞は、どれほど雪久の事を知り、どういう思考であるということかを知っているというのか。それならば。
「あんたに、雪久の何が分かるというのよ」
「逆にあなたはどれほど知っていますか? 私が彼と過ごした時間は、あなたと同じぐらいのこと。あなたが彼のことを知っている分だけ、私は知っている。でもあなたが知らないことは必ず私が知っているわけでも無いですし、私が知らないことであなたが知っていることもある。これはそのうちの一つです」
自分の知らない雪久もあり、舞が知らない雪久を自分が知っていることもある。至極当たり前のことだ。今更指摘されるまでもない、不変的なことだ。なのに。
「余裕だね、あんた。雪久に気に入られているからって」
違う。そういうことではない。しきりにそう、訴えている。
「それで雪久がどういう人間か、なんてあんたが知っているって? ふざけないでよ、それで優位に立ったつもりなの?」
「そういうことでは……」
「うるさいよあんた。雪久はそんな人間じゃない、ギャング相手に体売ってた売女のいう事なんかっ……」
はっとした。舞の目が変わった。脆いほど透き通った瞳を瞠り、驚愕と悲痛な色を為し、最後の抵抗として開かれた唇も微かに震えていた。
瞳の中に、ユジンの顔が写っていた。後悔か、恐れか。必死に言い訳を捻出しようとして足掻き、しかし何もかも手遅れであることを知っている者の顔だった。きっと何を言っても、二度と修正など効かない類の言質で、それを取り消すことなど。
「あ、いや……」
ユジンが口を開いた。舞は手桶の中の衣類をまとめ、水を切って逃げるようにその場を去った。引き止めようとして伸ばした手が、虚しく空を掴んだ。どうしようもなく疑う余地などない、舞を貶めたのだという証のような指先が、力無く垂れ、腕を下ろした。どうしようもなく、傷つけたのだという思いで、いやそれすらも消え去ったかのように、後には静寂が残った。
水滴が落ち、水面を叩いた。波紋が、広がる。
コンクリートの上に、直に腰かけた姿を見ると、殆ど影がそのまま立ち上がったような。そんな印象すらある。彰の目の前にクォン・ソンギが座り、それを取り囲むように遊撃隊が控えている。そうして座っていると、まるで自分が尋問でも受けているような錯覚に陥る。
「捜索隊とは」
真っ先に口を開いた、クォン・ソンギ。フードの奥に消えぬ疑念の色を抱いたまま、
「貴様は、もう少し考えて動く男と思っていたがな」
背後の遊撃隊の面々も、同意するように首肯した。最初から期待などしていないが、それでも少しは唸らせるぐらいのことはしてもらいたい。その望みすらも断たれたことに対する失望を浮かべた。
(まあ、そうなるよな――)
彰は内心脱力し、しかしそれが顔に出ないようにするのに必死だった。策というほどの策でもなく、決定的に打開するような提案でもない。どちらかと言えば守りの法であり、この街では圧倒的に新参者である彰の口から出されたとあれば。
(失望もする)
だが策など要らない。もともとそのような意図などない。そして決定打など、そもそも現時点では何も無いのだから、わざわざ捻出させることもない。
「元々この同盟は、あんたらの大将がいなきゃ出来無いことだったわけだ。当然、俺らの方でも恩義はある」
「恩に報いると」
およそそんな言葉など似合うはずもない。そう言わんばかりの高圧的な態度だった。クォン・ソンギの態度には、上手くいくはずもないという思いが透けていた。
「お前は《北辺》を知らないだろう。だから簡単に救出に行くなどと言える。《北辺》だけでない、この街がどういう場所かも。貴様如きに分かるものか」
「いいじゃないか。どうせ待っていてもジリ貧だろう? 誰かが探しに行かなきゃならないんなら、あんたらから人を出すよりはいいだろう」
「その分、我らに働けと。そういうことか」
「ははは、それでやってくれるなら御の字だよ。でもそうもいかなそうだし」
さすがに遊撃隊全員が後ろに控えているとなると、不用意な発言は出来ない。注意深く言葉を選び、刺激しないように気を使う。が、正直言って何を口にしても無駄な気もしてくる。既にクォン・ソンギ以下、20余名。膨れ上がる気の昂ぶりは、素人目にも明らかだ。空気が悪い。
「それに」
クォン・ソンギはずいと膝を近づけた。
「機械共に動きを読まれる可能性もある。もし今動きを見せたら、そうでなくとも《南辺》は既に『黄龍』に掌握されているに等しい。勝手に動いて、自爆されたら迷惑だ」
もっともな意見だった。《南辺》をうろつくギャング達の殆どが、ヒューイの息が掛かっている。最後の最後、レイチェル・リーの首を取り、『OROCHI』と『STINGER』の息の根を止める。そのためだけに徘徊しているようなものだ。いずれ動きを見せれば、そこから攻め込まれ、そのせいで全体が瓦解する。今は、ひたすらに息をひそめて辛うじて彼らの追撃を避けている状態だ。
「そんな中で動けば」
「あんたらは、無視してくれていい」
彰はクォン・ソンギの言を強引に遮った。
「すでに人は選んでいる。こいつらは俺達、つまり『OROCHI』とも『STINGER』とも関係ない、仮に捕縛されてもシラを切るよう。そう言い含めてある」
「シラを切るといっても――」
「絶対に口を割らない。奴らにはこう言っておいた、『拷問を受けるよりもひと思いに死んだ方が良いだろう』って」
意図するところが伝わったようで、クォン・ソンギは押し黙った。次の言葉が出るまでに、かなりの時間が必要だった。
「それで見つかるという保証はない」
「そりゃもっともだが、動かないよりはマシだろう。何、心配しなくとも戦力に影響がないようにはするさ」
彰はそう言って席を立った。
「今日はその報告だから。後はゆっくりやってくれ」
「気遣い、痛み入る」
最後のクォン・ソンギの言葉は、どういう意図で放ったものか分からなかった。多分、厭味のつもりだったのだろうが。皮肉が似合わない人間もいるものだ、と妙に関心しながら部屋を出た。
「食えん奴らだ、相変わらず」
廊下を曲がった所で、彰は足を止め呟いた。
「ああいう連中と今までつきあっていたってことだけで称賛に値するよ」
いつの間にか背後についた影に向けた言葉だった。猫のように用心深い身のこなしでもって、背中に回りこみ、最短間合いへと入り込んだ連の姿を見やるのへ、連はフードの奥から鋭い目を向けた。
「ユジンから、あんたは忍びだって聞かされた。何のことか分からなかったけど意味が分かったよ。確かに忍びだ、あんたは」
軽口を叩いても、あまり連には意味がないらしい。彰の言う事には何の反応も示さず、連はフードを深く被った。
「彼らと付き合うのに、分かり合おうとしないことです」
連はぼそりとそう言った。
「分かり合うために歩み寄ることは、こちらの弱みを見せてしまうことにもなりかねない。それは隙に過ぎません。だからその隙を見せないこと、それが秘訣です」
「見せた後で言われても」
苦笑し、彰は煙草の箱を差し出した。
「あんたはやるのか?」
「心肺機能をわざわざ低下させることもありません」
「そうか」
と彰は煙草を咥え、火をつけた。連が煙を避けるべく身を捩り、フードの奥で顔をしかめたように見えた。




