第十三章:18
《北辺》の捜索。その話を聞いたのは深夜になってからだった。色々ありすぎた一日の最後にその話を聞いた後ではゆっくり睡眠などとれるはずもなく、約20時間振りに寝床にもぐりこんだもののすぐに飛び起きて、ユジンは彰の所に向かった。
「部屋にいる」
と告げたヨシの顔は、未知のものに遭遇したような間抜けなものだった。よほどユジンの表情に驚かされたのか、それも無理からぬ話。睡眠不足で血走った目とこけた頬が対になれば、どんなに表面を取り繕っても凄絶な面構えになる。
(全く、何を考えているのやらっ)
廊下を駆ける、というわけにもいかなかった。疲労からか、膝から下がまるで他人のものであるかのように感じられる。足だけでない、全身が綿になったかのようだった。血の巡らない手足は、それこそ手足が手足であることを忘れてしまったかのように動かず、ただ断裂した筋繊維がしきりに痛みを訴えてくる。痛みのせいで、どうにかそれが自分の体であると分かる程度だ。壁に体を預けるようにして、ゆっくりと進む。
「彰、いる?」
それでも部屋につくなり、勢いよく扉を開けた。宿直室の片隅で、なにやら秤と向き合っている彰の後ろ姿が目に入った。
「もうちょっと、静かに開けて欲しいね、扉」
言って、彰は手を止めた。
「廊下に響くよ。ただでさえ夜遅いんだから」
「そうね。私も夜遅くに来たくなかったよ。固いコンクリートの上でも、横になれば数秒で眠りに就けそうなくらいに疲れている」
「じゃあこんなところに来てないで、休んだら良いよ。寝不足は美容にも良くないよ」
「あなたの口から」
扉を、今度はゆっくりと閉めてから、言った。
「納得ゆく説明をしてもらえたら、そうする。納得いけばだけど」
秤にかけられた陶器の皿を、彰は注意深く机に置いた。薄い紙が敷き詰められた皿の上に、黒っぽい粉末が盛られている。机の上には同じような皿がいくつも並べられていた。
「何に対して説明して、何を言えば納得するのかわからないけど……ああ、ちょっと待って。これだけ終わったら」
傍らの記録紙を引き寄せ、ペンを走らせる。数式なのか、細かい数字を書き連ねている。
「何やってんのよ、それは」
「ん、ああ火薬だよ。火薬の調合しているところ」
ユジンが訊くのに、さらっととんでもないことを吐いた。
「火薬って、何するのよそんなの」
「今更だね。今までだって散々やっていたことだろう。今度の戦争にはもっと強力なのが必要になるから、こうして作りなおしている」
「今度の戦争って」
「機械どもに決まっている」
彰はペンを置いて向き直った。墨で縁取ったみたいに落ちくぼんだ目をしていた。
「深刻さは、理解しているようね」
「おかげで殆ど寝てないよ。だからひと段落したら仮眠取ろうって思っていたところだ。だから、手短に頼むよ」
にこやかに言ってのけるが、おそらくそれは本心だろう。彰は日に日にやつれ、生気を失って行くように感じていたのは、ユジンだけじゃないはずだった。この2、3日必死で働いているのは、何もユジンだけではない。
それだけ、切羽詰まっているということだ。この状況は。それなのに。
「何で北に捜索隊なんて出すわけ?」
「何だ、もう聞いたのか。明日発表しようと思っていたのに」
彰は眼鏡を取って、眠そうな目を擦った。
「まだ人員は決まっていないけど心配するな。ちゃんとそれなりの奴は行かせるつもりだ」
「人選じゃなくて、そもそも何でそんなところに人を行かせるのよ」
「不満かい?」
「当たり前でしょ。ただでさえ人が少ないってのに、この上余計な人員を裂くって。何考えているの」
「大声出すなって。廊下に響くんだよ、ここ」
彰は脇のテーブルから水差しを取り、湯呑みに水を注いだ。気付け代わりにぐいと煽った。
「捜索ったって、そんな大げさなもんじゃないって。人数だってそれほど、そうだな3人もつければ十分だろ。といっても、あそこら一帯は何が出るかわからないから、それなりに腕の立つ奴は要るだろうけどさ」
「金を探しに? 何でまたそんなことを」
ちょうど二杯目をそそぎ込もうとしていた彰の手が止まった。
「機械ども仕留めるのに、遊撃隊との協調が必要だってことは分かるよな? だけど連中、金の言うこと以外は聞く耳持たないらしい」
「だから金に抑えてもらうって言うの? 生きているかどうか分からないのに」
「見つからなくても、探すっていうポーズ見せるだけでも違うさ。俺らの方で人を使って、得体の知れない《北辺》に差し向けるってことを」
「あいつらに、恩を売るつもり? 義理とか人情とかに一番遠い所にいるような連中なのに」
「そうでもないさ。ドライに見えるけど、仲間の結束が固いってことは、それだけ入り込む余地もあるってことだろう」
「余所者を認めないってだけでしょう」
「あの連中を説得したのは舞なんだ」
聞くはずのない言葉を聞いた。全く予期しない名だった。唐突にその名を口にした彰は、しかしユジンを見て怪訝そうな顔をする。
「どうした? 何か変なこと言ったか、俺」
「え、ああいや……ちょっと意外だったから。あの娘がその――」
「うん、だから連中との同盟の決め手になったのが舞なんだよ」
『STINGER』との同盟が、そもそもの始まりではあったが、それと舞がどこでどうつながるのか。それどころか同盟話に舞が関わること自体が不自然に思えた。
「納得行かないって面だね。まあ舞を、あいつを同盟の調停役に抜擢したのはそもそも俺じゃない。雪久だ」
「何で、また」
理解よりも先に彰が話を進めるものだから、ユジンは考えるのを止めた。考えたところで、意味のないことだ。
「雪久がさ、あいつは使えるって。俺は反対だったけど、実際にこうして同盟成立させるのだからな。世の中分からないものだと思っていたが、何のことはない。古典的な手さ、要するに自分を売ったんだ。売るって比喩的な意味じゃなくて、文字通りのな。自分の身を担保にして、同盟を申し出たってね、そういうことだと。そいつをさ、俺はさっき聞いたばっかりだよ」
情けないことに、と彰は自嘲して笑った。心底自分の意気を呪うというような声音だった。
「だから、あの娘が決め手になったっていうの?」
ふとユジンの脳裏に、宮元舞の影がよぎった。雪久の後ろに隠れて、誰かの後ろにくっついて、喋るときはまともに目も合わせずにか細い声を絞り出す。それが舞のイメージだった。
(でも、自分を売ったって……)
にわかには信じられない。そんな娘が、そんな大それたことをするのだろうか。
「結果がそうなんだから、そうなんだろ。まあよくやるというか、阿呆というか。そんなことを、間接的にでもやらせる俺の不甲斐なさというか……」
「そんなことどうでもいいわよ」
意識を引き戻した。舞のことよりも先に、解決すべきとことは別のところにある。
「それがどうして捜索隊につながるの」
「分からないか、連中の言いぐさ」
彰は煙草を取り出して、ライターを手にしたところで、ふと気づいてライターを置く。目の前にあるものが取り合えず意識の範疇になく、ごく反射的に煙草を求めている、そういう印象だった。
「舞の申し出が決定打となったなら、当然あいつらはそういう連中ってことだ。理はもちろん重んじるけど、十分情が入り込む隙があるってこと。特に朝鮮民族は義理を重んじるって言うし」
「そうでもないと思うけど」
「いや、意外とあるよ。少なくとも俺の知ってる奴は」
彰が意味ありげな視線をよこすのに、ユジンは顔を背ける。