第十三章:15
《南辺》に至るまでの道すがら、燕は何度も周囲を見回していた。角を曲がるときや人混みの中、誰かとすれ違う度にあからさまに警戒して、果てしなく目を配らせている。人を見たら、すべからく刺客と思えというのは、大戦後に生き残った難民たちの掟みたいになっていたが、それにしても恐れから来る警戒というものはあまり意味を成さないものだ。
「少し、落ち着けよ」
一応省吾も顔を隠してはいるものの、燕ほど脅えてはいない。だからよけいに燕の振る舞いが気になった。
「まさか《南辺》に来るなんて、思ってねえんだもんよ」
ほとんど囁くように燕が言った。『OROCHI』と『STINGER』に順番に痛めつけられたこの男は、《南辺》という場所がひどく恐ろしげに写るのだろう。一生分のトラウマを拾った地で、外套のフードですっぽり頭を覆い隠し、背中を丸めて歩く様は、浮浪者そのものだった。
「堂々としていればいいんだ。かえって目立つ、そんなにびくついていたら」
「堂々としすぎるのも問題だよ。どうしてそんな平気なんだ? 省吾だって、『黄龍』に面が割れているだろう」
「平気じゃあない。これでも気をつけているつもりだ」
省吾はコートの襟を立てた。首に巻き付けた、覆面代わりの晒しをぐいと引きつけ、顔の下半分を隠す。どこか砂漠の民を思わせる格好だったが、寒さに身を竦める振りをすればそれなりに群衆に紛れることができた。実際、ここのところかなり冷え込んでいて、同じような格好の者も少なくない。
「ただ、変に意識すればかえって行動に出るものだ。びくびくしない、視線を泳がせない。警戒はしても、そういうものは警戒ではない。臆病風に吹かれているか、後ろめたいことがある人間のすることだ」
「何が後ろめたいことなんかあるものか。俺は被害者だぞ」
「じゃあ堂々としていろ」
燕はぶつくさ文句を垂れたが、一応納得したようで丸めた背中を伸ばし、伸ばしてからちらりと省吾を見た。これで文句はあるまい、という視線で、省吾は肩を竦めてそれに応える。どうぞどうぞお好きなように、と。そんなやり取りを交わしながらも、目と耳だけは研ぎすませていた。
群衆の中に、かすかに南部混じりの英語を聞き取った。『BLUE PANTHER』が支配的だった頃から、白人というのは珍しくはなかったが、それでも以前より数が増えたように思える。『黄龍』の勢力は今や《南辺》のあちこちに延びて、『OROCHI』も『STINGER』も沈黙しているということは、すでに誰もが知るところとなっていた。こうして歩いているだけでも、『黄龍』のギャングとすれ違う可能性は十分にある。もっとも、ギャングは夜に動くから、白人たちすべてがギャングというわけでもないだろう。だが今となっては誰も彼も敵の可能性があった。燕の気持ちは、実は省吾自身かなり切実に理解できるのだ。理解できるからこそ、自戒の意味も込めての苦言だった。
白人の男が3人いた。すれ違う瞬間、懐のナイフを握りしめた。聞き取りづらい、訛りの激しい英語で、どうやら街のあちこちで頻発する変死体のことを話しているらしい。ハンドラーの女が言っていた、バラバラに切り刻まれた死体のことだった。もっと注意深く聞いてみるが、群衆に紛れてやがて聞こえなくなった。
「それで、どこまで行く?」
燕が聞いてくる。やっぱり挙動はぎこちない。省吾は首を傾けた。
「こっちだ」
大通りを外れ、裏道に入った。人込みは、徐々に数を減らし、誰一人として人通りのない閑散とした路地に至るまでに時間はかからなかった。見慣れた土壁と、廃墟群。突き出した看板は朽ち、今に崩れ落ちることを運命付けられたような傾き方をしている。《南辺》第2ブロックの、ごくありふれた光景であったが、心なしか以前よりも荒れているような気がした。
「近頃、でかいドンパチがあったってからな」
そう言って燕は、弾痕が刻み付けられた土壁を撫でる。まさしく複数方向から一斉に弾をばら撒いたという穿ち方だった。
「連中、すっかり《南辺》を掌握したって感じだな。『OROCHI』も『STINGER』も形無しだ、哀れなもんだね」
「古巣が気になるか? 燕」
「ま、多少はね。でも本当に少しだけだ。思い入れが先行するような所でもないし、記憶としては最悪なものしか残っていないし」
むしろどうなっても構わない。そんな風にすら見て取れて、あるいは本心ではそうなのだろう。だが追求するわけにもゆかず、煤けた壁を背にして先を急いだ。
路地が切れた。幾重にも立ち並んだ天然の城塞群の狭間に、すっぽりと収まるようにその店は存在した。相変わらず存在を主張しない、寂れた構え。看板どころかそれと分かる目印さえない目の前の道具屋は、今は固くシャッターが閉まっている。
「ここは――」
「見覚えある、って面だな燕」
当然知っていて然るべき、というように燕が言った。
「俺の槍もここで手に入れたんだ。『OROCHI』で使っている武器の類は、全部ここで揃えている。骨董品みたいな武器なら、いくらでも買えるしね」
「そうだろうな」
そうでなければ、彰と結託して芝居を打つなんてことはできないだろう。そんなことを思って、省吾は目の前の道具屋を見据える。一月前に彰と舞と出向き、”焔月”を手に入れた場所。その後“焔月”を通じて舞と奇妙な契約関係となり、そしてそれは『黄龍』との戦いに身を投じるきっかけとなり――
「因果なもんだ」
「え? 何」
「何でもない」
ノスタルジックな気分に浸ることなく、省吾は閉ざされたシャッターを叩いた。ステンレスのシャッターががしゃがしゃと鳴り、通り中に響いたが遠慮なく、拳で叩く。
「おい店主。いるんだろう、出てこい」
傍で見ている燕が明らかに狼狽していた。静かな路地裏をうるさくして良いことなど一つもなく、現にあちこちの住宅から不審がって出て来る者もいた。だがそれこそが狙いだった。
「やめんか、大ボケ」
店の脇から老人が出てきた。以前見たときよりも老化が進んでいるような顔をしていた。思い切りしかめっ面でにらみ、省吾の顔を確認するや益々渋面を濃くした。
「何だ、お前はいつぞやの」
「久しぶりだな。だが積もる話は中でしよう」
言って、省吾は背後を指さした。
「目立つのは嫌いだろう? 大衆監視の中で商談する趣味があるならば別に構わないが」
不愉快ここに極まれり、というように老人は舌打ちした。