第十三章:13
ゆるく、息を吐いた。
丹田に溜まった空気を、口の端から徐々に押し出す呼気は、細く曳く糸だった。凪いだ水面、あるいは蝋燭の火すらも揺らすことのない微かな、吐息のような呼気。
吸気は最も隙のできる瞬間である。筋肉が強ばり、体が居着くことを防ぐため、吸気は短く行い呼気はできるだけ長く取らねばならない。間を計り、機を伺い、体を完全な状態に保つ呼吸は、武の基本とされる。
省吾が右半身に構えを取り、燕が向ける木槍に対する。手には四尺ほどの棒が収まっている。
杖である。棒術の一種たる杖術は、剣の技法を多く含む。一心無涯流では、合気の捌きを学ぶため、杖の技法を取り入れている。杖は、剣であり、棒であり、長刀となる。
「破っ」
燕が気勢を発し、木槍を突き出した。鋭い刺突が省吾の喉に伸びる。
杖の一端を跳ね上げた。木槍の、槍と杖がかち合い、槍が弾かれた。すぐさま燕、槍を戻して二連、三連に突き出す。槍の穂先が螺旋状に描き、赤い房が躍り、槍が大きく撓った。速い連撃を、省吾は杖の両端を交互に打ちつけ、槍の切っ先を外し、後退しながら捌いた。
燕が追う。
槍を突き出す。
杖を長く持った。刺突する槍の先端に、杖の一端を接触。一気に踏み込み、槍を上から押さえつけた。燕が下がるのに、押さえながら間合いに踏み込む。杖を、槍表面上に滑らせ、割り込んだ。
燕が槍を引く。省吾は杖を、燕の脇に差し挟んだ。腕を固め、燕の首に杖を押しつけ地面に引きずり倒す。暴れる燕の肘を固め、うつ伏せに抑え、無防備な後頭部に模擬ナイフを突きつけた。
「参った」
つぶれた声で燕が苦しげに発した。伏したままの燕に、省吾が手を差し伸べるとそれにぶら下がるようにして立ち上がる。
「まだ、本調子じゃあないようだな。薬が残っているみたいだ」
省吾が言うのに、燕は薄く開けた目をさらに眇めて、申し訳なさそうに笑う。
「それもそうだけど、所詮はどこぞの田舎で野良仕事の片手間にやっていた武術じゃ、敵わないよ。その、一心何とかってのとじゃ」
「一心無蓋流」
「そうそう、それ。前から疑問だったけど、一体いくつの武術体系を含んでいるんだ?」
「そもそも武術は、いろんな技術を含んでいるものだ」
木製の模擬ナイフを鞘に納めると、もう一度杖を構えた。逆手に杖を持ち、中心部分を基点に船の櫂を漕ぐように、左右に振る。これで打ち、突き、武器を絡め取って押さえつけるのだ。どちらかといえば捕手や護身用の意味合いに近い、合気杖の捌き。
「杖は、体の捌きと間合いを覚えるために、最初に叩き込まれる。杖から剣、短刀、鎖と飛び道具。最後に、体術を教え込まれた。俺はな」
「それで、今回は一番基礎に戻るというのか」
「刃は通じないし、奴を捉えるにはこの方法が一番だと、思ったからな。捉えたところで、こいつで仕留める」
腰から、模擬ではない小刀を抜いた。刃部分は黒金で、反りのない直刀だった。刺突のみを目的とした、鎧通しの類。
「でも、奴ら機械だが」
「駆動部には必ず隙間があるから、そこを狙う。前に青豹の頭、やったときもそうした」
「ふうん、そう。まあ、俺はその時いなかったから、分かんないけどさ」
「そういや、別動隊だったんだな、お前」
「ああ、あいつは俺を遠ざけたがっていたんだろうよ、あの頃から」
まだ過去の事と片付けるには時間が経っていないのだろう、刺々しく響いた。そう簡単には消えない禍根が垣間見える物言いで、燕にとってはこれから先もずっと引きずるであろう事実だ。心中は、察する事は出来ずとも、その心内を想像するには十分だ。
「んで、この訓練の意味は?」
「そりゃ、もちろん……」
「気休めだろう」
突然、省吾の言を遮るものがあった。鉄屑の山に、灰色の影が浮かび上がった。スモッグの粒子に投影された虚像であるかのような姿に目を凝らして見れば、やがて見慣れた帽子とコートが確認出来た。 「杖か……」
女が省吾の得物を一瞥すると、帽子の隙間から覗いた唇が、馬鹿にしたように歪んだ。
「悪くない選択だが、それは決定力に欠ける。元々が護るための武術であるが故に」
「分かっている、そのぐらい。あんたに言われるまでも無いさ」
いちいち突っかかっても仕様が無い、と分かっていても、この女に対してはどうしても刺々しい口調になってしまう。生来的に合わないところがあるのだろう。口調にどうしても嘲る色が垣間見えるからなのかもしれない。そんなことで心を動かされるというのも、癪ではある。
「杖は飽くまで転ばせるための手段だ。だから確実に留めを刺す方法を考えている」
「そんな、ちょっと考えてうまくなったり強くなったりなんか、するものか。短期間で奴を斃すことが出来るなら、誰も苦労しない」
「言われずとも」
「では、何故」
女が鉄屑の上から飛び降りた。ふわりとコートの裾が広がって、空中に浮き上がったように見えた。まるっきり重力を感じさせない跳躍だった。
「リハビリのようなものだ。なにせ杖なんか、久しぶりだし」
「それを気休めというんだよ。一年二年のブランクがあるからといって、直ぐに腕が鈍るようなものでは意味がない。そんなものは武ではない」
省吾はそれ以上言わなかった。もう一勝負、と杖を向け、燕はそれに応じて構えを取った。
「まあ、それは置いといて、だ」
女が言うのにも、耳を貸さない。すでに、始まっていた。
燕が歩を詰め、じり、と砂が鳴った。あと半歩、飛び込めば間合いに入るという距離にあった。槍の穂先が、射抜くようにぴたりとつけ、心臓に狙いを付けている。
「あの、ユジンとかいう娘に会ってきた」
「……は?」
顔を向けた瞬間だった。燕が猛然と突っ込み、槍をしごいた。螺旋に回転する槍が深く、何の抵抗も無しに省吾の胸に突き立った。それこそ、本身だったら骨も貫き背中まで抜けたのではないか、という勢いで。
息が止まった。たまらず、膝を突いた。肋の間から突き抜ける衝撃が肺腑を穿ち、気道まで断ち切ってしまったかのように感じた。
「わ、悪い。まさか避けないとは思わなくて」
燕が駆け寄った。まるっきり、予期していないといった様子だった。自分の一撃がこうも簡単に入るわけがないと、頭から信じていたらしい。
女が鼻で笑った。
「今のは油断だな。省吾が悪い」
「おまえ、が。変なことを……」
「何が変なことだ、お前が頼んだことだろう。言付けを」
言い返すことができず――と言っても、まだ呼吸が戻らないという事情もあるが――返事の代わりに大きく咳込んだ。
「お前が頼んだのだろう、お前自身の生存を伝えろと」
あきれたようにいって、女はつと省吾の背後に立つと、
「気張れ」
平手で、省吾の背中を打ちけた。弾みで呼吸が戻り、溜まっていた空気を吐き出す。
「そんな気が散っているようでは、先が思いやられるな」
「放っとけ」
肩で呼吸をしている省吾を、呆れたように女は見下ろしている。女が手を差し出すが、何となくそれに掴まることがはばかられ、自力で立ち上がった。
「で、どうだったんだ」
肋が痛むのを堪えて省吾が訊いた。
「何が」
「伝えたのだろう」
「まあ、一悶着あったが、滞りなくな。お前の望み通り」
その一悶着というものが何なのか、説明する気はないらしい。腕を組んで、全くの黙秘を貫くような態度を見せた。
「無事だと言ったところで、特に状況が変わるわけでもないだろう。あの娘、そんなに拘るようなものか」
「拘るってわけじゃない」
杖を拾い上げて、右手で持ち、一歩足を踏み出して構える。燕の木槍と、杖の切っ先が、延長線上で切り結ぶ位置に差し出した。
「あの娘が心配なのか?」
女が訊くのに、省吾は答えず、対峙。突き込む槍の先端を弾く。跳ね上げ、間合いを詰め、杖を突き出した。燕の肩を穿ち、のけぞる。更に杖を持ち変え、上段に振りかぶり、剣のように真っ向斬りつけた。
燕、槍で防いだ。そのまま身を寄せ、燕の足を払った。難なく倒れた燕の上に乗り、首に杖を押し当てて動きを封じた。
「……あの男はそう簡単に倒れはしないだろうな」
そうひとりごちて立ち上がり、燕を助け起こす。
「心配なわけじゃあない。ただ、あいつは何でも背負い込むきらいがあるからな。俺が行くより先に、動かれたら困る。それだけのことだ」
汗を拭った。体はほぼ回復したと言えるだろう。むしろ、以前より体が動く気がした。
「俺が行く前に、くたばられたら元も子もない。あいつなりの理想があって、あそこにいるのだろう。その理想だって、命あってのものだからな」
「そうかい。まあ、そう思うんならそれでいいが」
深いため息をついた。女は呆れたような口調だった。
「入れ込むのだな、あの娘に」
「だから、そういうんじゃないって」
少し苛立ちながら返したので、語気が荒くなった。
「何で皆、そういう目でしか見れないかな? そんな浮かれた気で、俺がここにいるとでも思っている。迷惑だから、そういうのは。俺に当てはめないでくれるか」
杖で一回、地面を突いた。もう話すことはないという無言の警句だった。杖で燕をせっつき、再び槍を構えさせた。相対する。
「何でもいいが、お前はそれでいいのか」
女が言うのに、無視する。槍が突き込まれるのを杖の先端でいなし、上から押さえつけた。杖のもう一端を燕の首に当て、地面に押し倒した。もがく燕の喉に、模擬ナイフを突きつける。
「貴様には関係ないことだ」
立ち上がり、省吾は吐き捨てた。
「人に使い走りさせておいて、関係ないとは随分だな」
女の口調が強くなった。酷く感情が高ぶったのをどうにか押さえ込んでいるという物言いに聞こえる。
「そんなことをしていれば、今に後悔するぞ、省吾」
女の目が、帽子の陰から覗く。鋭利さを帯びた眼差しに射抜かれた気がした。
「お前はそれで満足なのだろうがな。中途半端に関わりを持っても、いずれは選ばなければならないことがある。その選択を、お前は今以て先延ばしにしているだけだが、街はそうはいかない」