第十三章:11
「こんなところで失礼するよ、ザイード師」
内部から声。何の気負いもない、いつも通りのレイチェルだった。それこそ、彰や扈蝶の緊張感など取るに足らない杞憂であると主張するかのような、自信すら感じさせる声音。
すぐさま扈蝶が訳した。男は少しだけ不満そうな顔で、扈蝶に何事かを告げ、扈蝶はすかさず広東語に訳す。
「移動は別に構わないが、それにしてももう少しましな所はなかったのか」
訳しながら、ちょっとだけ扈蝶は不愉快そうにザイードを睨んだ。だがそれだけだった。今日の自分の役割を心得ている扈蝶は、自分の感情を露にすることはない。
「ここは私個人の所有しているダミー会社のものだ。『黄龍』の名では取引できないから、こういう所も増えてくるだろう」
レイチェルは煙管を咥え、二、三度吹かすと、灰皿に煙草の燃え滓を落とした。相手の出方などまるで関係無いというような、ゆったりとした動作で。滅多なことでは動かされない、という意思表示であるかに見えた。
「噂には聞いている。あなたはこの成海に於ける権力の座からは転げ落ちたとな」
淀み無く、時間を置かずに扈蝶は訳す。まさしく同時通訳だった。語学に堪能であっても、通訳には別の技術が必要となるのに、扈蝶はそれを完璧に習得している。
(何がただの付き添い、だよなあ……)
この場で、何の役割を果たしていないのは、まさしく自分一人である、ということを認識させられる。そうは言っても、全て承知の上で同行を願い出たのだから、今更後悔などしようも無いのであるが。
「権力闘争なんてものは、よくあること。“シルクロード”が安定した試しなど無かったように、この成海だって同じこと」
「この倉庫での取引も、寝首を掻かれた元部下の目を欺くためと聞く。飛天夜叉も落ちるところまで落ちたものだ」
訳しながら、明らかに扈蝶の目には怒りの色があった。深く静かに潜行する、秘めた激情が瞳に揺れていた。愛するものを傷つけられたようなそぶりだった。レイチェルが声をかけなければ、飛びかかっていたかもしれない。
「しばらくの我慢さ。そいつ取り戻すために、こうしてあんたを頼っているんだよ」
自分の役目を思い出し、扈蝶はレイチェルの言葉を伝えた。ザイードは相変わらず怪訝顔であった。
「“シルクロード”に至るまでの道のりも、決して安全ではない。国連と総督府、両方の目を掻い潜らなければならない。何しろ、国連の監視の目が段々と厳しくなってきている」
ザイードは煙草を取り出した。イスラム式の水煙草でも嗜むのかと思えばそうでもなく、ごく一般的な紙煙草だった。米国産の、合成煙草。
「この煙草一つにしても、当局の監視の目を抜けるのは至難の技だ。嗜好品に混じって麻薬の類をもぐりこませようものなら、たちまち総督府と戦争になる。国連の監察官も、特区のあちこちに、麻薬だとか、御法度の武器類を摘発するために潜りこんでいる」
「監察官の噂は聞いたことあるが、そんな存在するかどうかも疑わしいものに脅えているというのかい?」
「どれだけの関門が必要なのか。それらを差し引いた上で、お前に投資する方に益があると判断していたのだよ。その益が無くなったら、取引の意味などなくなる」
「しっかりしている」
最後はレイチェルの独り言だった。わざわざ訳すまでもない、他愛も無い心の内だった。扈蝶も、訳さない。
「それで、何故お前がそこまで追い詰められているのか。それを知りたい」
ザイードが煙草を投げ捨てた。レイチェルの目の色が変わった。扈蝶の面差しに、再び緊張が走った。
「相手は機械だよ、ザイード師」
一字一句洩らさず訳された言葉に、ザイードが目を瞠る。
「それも新型だ。大戦時にはどこにも投入されなかった、全身タイプのものだ」
ザイードはますますもって驚きを隠せず、黙し、考え込んだ後、口を開いた。
「どこから流れたものだ」
「おそらくは東の連中が絡んでいる。“シルクロード”に無いものが、この街にはあると。そういうことだ」
ザイードが唸った。まさか、とか何とかアラビア語で洩らす。
「東の『マフィア』と戦争をするつもりなのか」
扈蝶の口を通して、ザイードが訊く。可笑しそうに、レイチェルが喉を鳴らす。
「そうなれば、色々厄介だけどもな。しかし、奴らがもし本格的に動くのであれば、《西辺》を奪られたままというのはまずい」
つと、レイチェルは身を乗り出した。物怖じせず、自信すら、その顔に浮かべていた。
「《西辺》に費やした、あんた達の投資分も無駄になるしな」
「勝てる見込みは」
扈蝶は、口調こそ平静さを保っていたが、その面にもはや余裕の色はなく、今すぐにでも話を打ち切りたいという焦燥めいた表情だった。この場にいることが耐えられないという様子で。少々心が乱れている印象だったが、それは彰も同じだった。こんな会話早く終わって欲しかった。ぎりぎりの綱渡りのところで、せめぎあっている、圧迫感があった。加えて、疑問もあった。どうしてレイチェルは、わざわざ危うい情報を伝え、あたかもこちらが劣勢であるかのように言うのか。取引が不利になりはしないか、という。
だがレイチェルは、平然と言ってのけた。
「勝てなければ、共倒れになるだけだ。お互いに。あんた達の商売をやりやすくするために投じた資金もお釈迦になる、どころか足が着いて商売自体やりにくくなるだろうが」
ザイードは暫く黙っていたかと思うと、おもむろに携帯端末を出し、どこかに電話をかけた。受話口に向かって何事か話し出す。
アラビア語とは全く別の言語のようだった。訳せるか、と彰は訊いてみたものの、さしもの扈蝶にも解らない言語があるらしい。首を傾げている。
話終えると、ザイードは端末を仕舞い、再びアラビア語に切り替えて言った。
「金は、用意できているのか」
扈蝶が訳すのへ、レイチェルは満面の笑みを浮かべる。
「すべてアメリカドルだ」