第十三章:9
韓留賢が踏み込む。身を低く、二連、斬り上げた。ユジン、棍を旋回し、太刀の切っ先を弾き落とした。弾かれた木刀を、韓留賢は上段に構える。
韓留賢の太刀が走る。にわかに勢いづいた、必殺の打ち込みだった。ユジンの胴を捉える刹那、ユジンが跳んだ。空中に身を投げ出す要領で飛び込み、宙で身を捻った。跳ぶことで打ち込みを避け、木刀は空を切る。
着地。韓留賢の側面に回りこむ。振り向きざまに斬りつけてくるのに、身を低く保ち棍を突き出す。棍は韓留賢の頬の皮膚を削り、太刀はユジンの頭上を掠めた。
更に踏み込む。ユジンが体ごと肘打ちを突き出した。韓留賢の胸板を捉える――呻き、韓留賢が後退する。活路を見出す。
無防備な韓留賢の横面に打ち付けた。
不意に、目の前から韓留賢の姿が消えた。棍がまたも、空を切った。
(どこへっ)
いきなり、何かに両足を払われた。天地が逆転し、成す術なく転がされる。脛に、鈍い痛みを覚えた。
「これで、脚を失ったことになる」
韓留賢が見下ろして言った。そこでようやく、足を斬られたのだと知る。棍の打突を避けると共に、しゃがみ込み、木刀でユジンの両足を払ったのだ。
「力で従わせて……」
立ち上がる、力が入らない。何度も膝を突き、棍を杖にして、どうにか立った。
「だけど、それは根本的な解決にならない。目的を同じくするなら、相手を納得させて、そうでないと不協和音のままだと……」
ユジンは黙し、そうする間にも構えは崩さず、胸の前で保持した木刀、切っ先の前に、ユジンは踏み込めずにいた。
(韓留賢の刀術……)
苗刀は日本の刀が大陸に渡って進化したものだ。大陸の刀剣が先重の片手刀が多い中、その姿形は先細の日本刀に即している。だがその刀法は、凡そ日本剣術とは掛け離れている。体術を織り交ぜて用いる倭刀術――目にしたことはあるものの、実際に手を合わせるのは初めてだ。
(隙が、ない)
まさしく上段、中段、下段に至るまで、全てが有効範囲だ。長尺の苗刀は、日本剣術が苦手とする脚部への斬撃を可能とし、拳足を併せて使うため懐にも踏み込めない。死角と呼べる死角はほとんど無きに等しい。
(だけど……)
隙を見つけることなど、今は意味のないことなのだ。そもそもが戦う必要などない。ユジンは構えを解くと、棍を投げ捨てた。
「茶番は終りにして、韓留賢」
呼びかけるに、果たして韓留賢は渋面をつくる。
「どうしてこんな、意味のないことをするの? 私は話をするために来たのよ。戦うためじゃない」
「……人というものは、なかなかに矛盾しているものだな、ユジン」
韓留賢は構えを解いた。ゆったりとした足取りで、ユジンからみて右の方に歩き、ちょうど入り口側の位置に立つ。
「戦うことなど何の躊躇いもない。傷つくことなど恐れないかのように触れ回るあんたが、今はひどく脅えているように見える」
「脅えているわけじゃないよ。意味がないと言っているだけで」
「尚悪い」
悠然とした構えで、韓留賢は対峙した。右手の刀を、弓を引くように張り出し、左手は手刀を作る。その左手が、まるで照準であるようにユジンを指さした。
「棍を取れ、ユジン」
「嫌よ」
「取るんだ」
韓留賢はもはや本物の殺気としか言いようのない、ひりついた空気を醸していた。目の先も、刀を握る手も、立ち居振る舞いそのものがユジンを本気で討つと、全身が殺意に満ちているようだった。
毛筋ほども、手加減などしないという覚悟。
歯の根が凍る思いだった。刃を突きつけられたこと以上に、韓留賢の行動が不可解だった。二人がぶつかれば、どちらも無事ではないはず。一人でも戦力を欠いてはいけないのだ。だから終らせなければならないのに、それなのに。
「理想を掲げるのは容易い」
ぽつりと、韓留賢が言った。
「しかし、実行するとなると難しい。単に本人の器量の問題ではなく、環境がそれをさせないことだってある。だから何かを為すには、そうした現実をふまえた上で理想を掲げる。それならば、人は理想に生きる資格もあるだろう。だが」
じり、と距離を詰めるのに、ユジン半歩下がった。
「だが、ただ理想を吐くだけの人間などは所詮それまでの人間だ。理想だけ吐いて、それでも変える力も無くて結局は不満を抱えて死ぬ。お前は、そういう人間じゃないと思っていたのだがな」
また間を詰めた。半歩づつ、韓留賢がにじり寄るたびに、確実に死に近づく心地がした。もう半歩踏み出せば、韓留賢の間合いに入る。
「話し合いなど無用。協力を仰ぐよりも、従わせろ。俺の力が必要ならば、俺を力でねじ伏せることだ」
「そんなこと」
「できなければ、それでも良い。その場合は死ぬだけだ」
恐ろしげな響きもなく、重みもなく、気負いなく、その言葉を口にした。韓留賢にとって、背景にある街の構造自体がよりシンプルであればあるほど、何一つ特別な意味など持たない言葉だった。
「あんたに勝てば、じゃあ言うことを聞いてくれるっての」
ユジンは右半身に構える。腰に差したナイフに手を伸ばしかけたが、ナイフを取ることはなく、拳を握る。
「俺から、一本でも取れるならば」
しばらく、対峙。信じられないほど長い時間が過ぎた。呼吸を呑み込み、否忘れるほどに、膨大な時間。
ユジンが足を踏み入れた。半歩。それでも充分過ぎる。
韓留賢が跳んだ。3歩の距離を、一歩で飛び越えた。後ろに張り出した剣を横薙ぎに斬り払った。
同時に飛び込む――ユジン。身を低く保つ。木刀がユジンの顔面を捉える刹那、頭を下げ、地面に倒れ込んだ。頭上を剣が掠め、ユジンは地面を転がった。
二の太刀。韓留賢が振り向く。諸手で、上段から真っ向斬りつけ。寸での所でユジンが躱す。地面に木刀を打ちつける。
ユジン、立ち上がる。飛び起き様に棍を拾った。木刀の突きに合わせ、棍の一端を跳ね上げた。剣先を弾き、棍の表面に手を滑らせ、もう一方の先端を打ち付ける。
突如として韓留賢、踏み込んだ。体ごと懐に飛び込み、体の勢いを利用して木刀の柄頭を突き出した。
「な……」
狼狽する間も無かった。柄頭が胸に当たり、衝撃で骨の軋む音を聞いた。一瞬、息が詰まる心地がして、勢いを殺しきれずにたたらを踏む。
更に踏み込む、韓留賢。木刀で両断に斬りつける。飛び退き、躱すのへ、韓留賢の廻し蹴りが襲う。
「破っ」
裂帛の気合と共に、左足が空を掻いた。上体を逸らしてやり過ごし、距離を取ったところに、再びの蹴りが跳ぶ。今度は右、足刀がユジンの額を捉えた。
脳が揺れた。強力な蹴りだった。一瞬、自分の立ち位置を見失うほどの衝撃だった。足元がよろめくのを、どうにか堪え、見据えた先に韓留賢の木刀が迫る。斜めの軌道。
棍を長く保つ。横から打ちつけ、刀身を横から弾いた。
甲高い音。乾いた衝撃。摩擦で灼きついた木肌の焦げた匂い。二連、三連、棍を打ちつけ、木刀と交わるたびに、細かく散る木屑。掛かる刃筋に対して斜めに打ちつけ、斬撃を外し、刃をくぐり抜けて棍を打ち据える。韓留賢、棍を避け、木刀を旋回させて、右左と持ち替えながら斬りつけ、刺突した。
韓留賢が退いた。好機だった。踏み込み、棍を打ち込んだ。韓留賢、木刀で受け流し、そのまま足に斬りつける。
跳び上がった。棍を足がかりに、韓留賢の頭上を飛び越えた。眼下に韓留賢の驚いた顔を見、背後に着地した、と同時に横薙ぎに打ちつける。
韓留賢、木刀で受けた。振り向かずに、背中越しに棍の打ち込みを防いだ。すかさず後ろ蹴りを見舞う。ユジンは上体を逸らし、蹴りを外すのに、韓留賢は振り向きざまに逆袈裟に斬り上げる。切っ先が頬を掠め、前髪を揺らし、耳元に剣の唸りを届けた。
ユジン、下がる。韓留賢、追う――木刀を振りかぶる。
(何をっ)
踏みとどまった。右足で地を蹴り、体ごと突っ込んだ。体裁も何も無く、無我夢中で突き出した。果たして木刀で打ち払われ、それによりバランスを崩し、前のめりになる。
そこに、韓留賢の蹴りが入る。水月に深く、前蹴りが突き刺さった。
内臓に直接打撃を加えられた。そんな感覚だった。無防備に晒された腹筋に、いとも簡単に入った蹴りが、肺腑と胃を同時に圧迫した。空気と、血と、胃の内容物が、腹の中で混合して逆流する。
喉元に込み上げる胃液を呑み込んだ。苦々しさを噛み締め、痛みごと押し込める。腹を押さえ、後退する。素早く中段に構え、対峙する。
韓留賢を瞳の中に捉える。目線の先、戟尺の間。飛び込む姿が急速に近づき、脇に構えた苗刀を肩に担ぐ。その間隙、わずかに刹那。それこそ、呼吸も消え失せるほどの短い間隔――その間だった。今を逃しては決して機は訪れないという確信があった。
己の体が欲するままに動いた。恐怖は消えていた。ただ一点を突く、そのことだけが念頭にあった。
「破ぁっ!」
叫んだ。爆発しそうな呼気だった。
棍をしごいた。不思議と力感は無く、するりと先端が投げ込まれた感触がした。果たして木刀がユジンの顔面を弾くよりも、ユジンの棍が先に届いた。韓留賢の喉元――完全に貫く手前で、棍を止めた。
「どうした」
振りかぶった木刀を、韓留賢は下ろし、止まったままのユジンを見下ろす。
「突かないのか」
「……馬鹿馬鹿しい」
棍を再び、今度はより強く地面に叩きつけた。気が興り、身が奮える、そんな昂ぶりそのままに吐き捨てた。
「力でねじ伏せて、言う事聞かせて、それじゃダメだって。だから説得しようとしているのに」
「ダメだと、どうして言い切れる」
「ここであんたを叩きのめしたところでっ」
息が切れるのを、無理やり抑え込むような心地がした。肺が勝手に動いているかのように、言葉よりも呼吸が先んじてしまう。苦しく、しかし弱みを見せず。韓留賢の見下ろす目に真っ向対峙した。
「無理やり従わせて、それで目的を果たしたところで、それがまた争いの元になるの。それだったら、多少理想に拠ったとしても、時間が掛かるとしても――」
胃液が込み上げてきた。それ以上言葉を発することが出来ずに、膝に手をつき、唾とともに吐き出した。
「お前という奴は」
韓留賢は呆れたように言うと、木刀を担ぎ、背を向けた。
「どこ……行くのよ」
「どこに行こうが勝手だろう、今はプライベートだ」
「待っ……」
手を伸ばしかけたが、再びの嘔吐に見舞われた。空っぽの胃から体液を搾り取られるようで、きりきりと腹が痛んだ。もうどうすることも出来ない、と己の体が訴えているようで、一歩も動ける気がしない。
「棍を捨てたとき」
ちらりと、韓留賢が振り返る。蔑む色は見えなかった。
「それでも、ナイフだけはしっかり身につけていた。お前は、一度は使おうかとした。だが結局棍を取った」
「だから、何よ」
「それがお前の限界だ。説得をするならば、最初から棍など取りはすまい。黙って打たれれば良かった。逆に、理想よりも現実的な路線を取るならば、ナイフを取り俺をねじ伏せただろう。どちらの手段も取れないで、半端な手に逃げる。それならば、最初から武器など必要ないだろうに……」
自分の言動にまるで力などない、と悟っているかのようなおぼろげな視線だった。韓留賢は、あるいは自分の言葉など大して力などなく、無駄なことをつい先走った。そのことを後悔するかのように顔をしかめた。
「……まあいい。ともかく、一本取ったのだからお前のいう事は聞いてやる。命を預ける程とは思えないが、それでも約束は約束」
木刀を投げ捨て、
「協力してやってもいい。だが、今のあんたには、あの連中を抑えられるとは思えない。いや、お前だけでなく、九路彰や真田省吾ですら難しいだろう」
「それは……」
「やはり、ここには『千里眼』が必要だったんだな。お前達のやり方では、烏合の衆をまとめる事など出来ない」
そう言い遺し、韓留賢は部屋を後にした。扉を閉める音だけが、乾ききった空気の中で軋み、響いた。
全てを否定され尽くしたという心持を、置き去りにして。