第十三章:4
彰が告げるのに、皆一様に信じられぬといった表情になった。ざわめきが大きくなり、明らかに動揺が広がっている。
「それはどういう……」
まさに絶句というがふさわしい、黄が苦しそうな声で訊いた。
「文字通りだよ。《北辺》に出向いた金からの定期連絡が途絶えた。最後の連絡は、今より10時間前。ユジンたちが帰ってきた直後ぐらいかな」
「何それ、やばいじゃん」
思ったことをすぐに口に出すのが、黄の欠点だ。危機感丸出しなその発言に、皆がほとんど悲壮めいた表情を浮かべるのが分かる。
「もともと無茶ではあったんだ。東辺以上に、北辺は状況が分からない。東はまだ「マフィア」の巣窟だってことが分かっているけど、あの辺一体を牛耳っている勢力なんて誰も……そんな勢力の存在すら疑わしいって言われていた」
もっとも、雪久の話では北辺は「何もないバラックが並ぶ」ということだった。それ以外の情報は、彰にも分からない。
「じゃあよ、何で金はそんなとこに。そんな得体の知れない――」
「あんたらと一緒にするなよ」
黄が言うのを遮って、玲南が言った。
「あんたら、南に篭もって出てこないもやし野郎とは違うんだ、金は。あちこちに出向いて情報を集めた結果、北辺には確かに地下勢力がいる。そいつら頼みにいけるっていったら、金だけだろ」
「だが、その地下勢力に捕まっていたら?」
韓留賢が発するのに、皆が振り向く。苗刀を抱える格好で座りこみ、壁際に寄りかかっていた。尋問官のような口調で、玲南に問いかける。
「北の連中とやらが、友好的とは限らない。金大人が言ったところで話の通じる奴か。そもそも、何の根拠があって北の方まで行ったのか。すぐに殺されるという可能性もあるだろうに、それを加味しないで突っ込んで行けばどうなるか」
「金はそんなやわなやつじゃない」
唐突に玲南が言った。異論は一切認めないというような確たる意思がこもった口調だった。
「あの男だって、人間だろう」
対し、韓留賢は嫌味なほどに淡々としている。感情を捨て去ったような、模範的なほどの冷静さを以って。
「浅はかな考えで、北の連中とやらを頼っても、一歩間違えばすぐに死体に化ける。ここは、そういうところだ」
「うるせえよ、あんた。金の何が分かるってんだ?」
玲南はもはや、韓留賢を一個の標的認めたかのような振る舞いだった。見下ろすその目線が、明らかに敵意を帯びている。その目はもはや蔑んですらいた。
「何も分からないが、だから何だと言うんだ。飽くまで行動で評価する、そこに温い仲間意識などが介在する余地などあるか」
韓留賢が言うのに、玲南が舌打ちした。腰に提げた縄標の一端を握る。
「抜くか? カマ野郎」
玲南が凄む。韓留賢は苗刀の鍔に指をかけた。一発触発、そんな空気が流れた。
「ちょっと待て、話が逸れている」
慌てて彰は割って入った。
「何でもかんでも突っかかるんじゃないよ。どうしてもトラブル持ち込まないと気がすまないのか、お前は。もめ事を起こす趣味でもあるのかよ」
「どきな、チキン野郎。あたしらの大将、コケにしやがったんだこいつ」
彰もろとも、貫いてやろう。そんな、玲南の気迫に気圧される。
「絶対許さない」
「待てってば……韓留賢、お前もだ」
「先に仕掛けたのは、こいつだが」
淡々と、しかし確実に獲物を狙う。そんな口調だった。自ら動くことはないとしても、少しでも挙動を関知すれば、斬る。玲南もまた標を投げ打ち、まさに次の瞬間で仕留めるという、明確な殺意の現れだった。そして、その場にいる全てのものが、空気に呑まれ、居着き、誰しも目を瞠る。氷を飲み下したような、得体の知れない緊張感を抱いた。
「……金大人のことは」
意外にも、均衡を破ったのは、全く予期しない人物からだった。
「私も、独自に連絡を取ってみます。玲南の言うように、その程度でどうにかなるとは思えませんが、韓大人のいう事も分かります。あの人はいつも、気まぐれですから」
全くその場の空気を恐れる風でもなく、連は言った。さりげなく両者の間に割り込んで、その手の内に峨嵋刺を忍ばせている。
「だから、ここで揉める意味はない。そうでしょう、玲南? 余計に引っ掻き回すことでは、いつまで経ってもあの人に認められることはない」
「何、あんた。こいつの味方かよ。あたし達より、そいつをとるの?」
「どちらが、今後のためになるのか」
くるり、と。峨嵋刺が指の間で回転するのに、銀色の光を放つ。玲南が眉をひそめた。
「あたしら、仲間の絆より、そっちの方がお好みってわけね」
「そうは言ってないでしょう」
「何が違う。あたしらのボスを、侮辱されたんだよ」
「だからといって、一時の感情に走ることで全て無かった事にするつもり?」
玲南が睥睨する、視線の先に玲南の目があった。フードの奥から睨みつける目は、何も恐れる必要が無いという意思がこもっている。
先に目を逸らしたのは、玲南だった。
「そうかい、そういうことかよ」
興ざめというように、玲南は縄標を収め、また腰の定位置に提げた。
「あんたの言いたい事は、よっく分かったよ。そういう事なら、もうあたしは知らない」
何も得ることなどないという、殆ど一方的な断行宣言だった。玲南は背を向けて、成すべき用が済んだというように立ち去ろうとする。
「おい、どこに行くんだ」
彰が言うのに、玲南は応じるのも面倒であるらしく、掌をひらひらとさせて、投げやりに返事した。
「だから好きにすればって。あたしは降りるよ、こんなところで無駄な議論しても意味ないし」
「な、何を勝手に――」
一瞬、彰の方を向いた目が、言い知れぬ鋭さを帯びていた。もしそれ以上言及するなら、再び標を抜く、理性よりも手が先に出るという、狂気じみた視線だった。厳しく、誰もかもを黙らせるには十分過ぎるほどの威圧感に、喉元まで込み上げた言葉を飲み込んだ。それ以上言えば、言葉を発することもままならなかったかもしれない。
黙って、見送るより他なかった。それは、広間の人間皆がそうであったらしく、ユジンですら、その迫力には言葉を失ったらしい。血の気が失せた顔で、後ろ姿が見えなくなるまで眺めていた。連、クォン・ソンギ、韓留賢――そして、後ろの壁で事の次第を傍観していたレイチェルだけが、平静さを保った目をしていた。
「……彰」
ユジンが心配そうに覗きこみ、彰は咳払いをして、向き直る。
「合議を、進める」
どうにかそれだけ搾り出した。汗で濡れた額を袖口で拭い、皆を落ち着けるように、明るく振舞う。
「しょうがない奴だ」
その時の顔――おそらくは、相当にぎこちなかったに、違いない。
クォン・ソンギが、小さく溜め息をついたように、見えた。