第十二章:17
目の前を、光がよぎった。
鋭い刃。そうとしか言えない、銀色の鋭角が斜めの軌道で空を駆けた。細い筋。それが一つ、二つ、尾を曳く。塗り込められたような濃い闇に染められた空間を断つように、真っ直ぐに切り閃く。
ひゅっ、と風切る音。それとともに、孔翔虎が差し出した腕が横に弾かれる。ぶつかる瞬間に銀色は火花を生じさせ、高く金属の音色を奏でた。
孔翔虎が瞠目して見た先。上腕に深く、銀色の矢が突き刺さっている。針の如くに鋭い尖角と、鉈のように重々しい刃。銀の地金は、くすんだ色を放つ。矢は孔翔虎の人造皮膚を破り、その先。機械部分に貫いている。
「お出ましか、ようやく」
女が溜息混じりに言う。それと同時、ビルの上から弩の矢が飛来するのが、見えた。幾重にも銀の軌跡が刻まれ、空気を切り裂く。孔翔虎は後退して矢を捌き、壁に背をつけた。
ユジンは天を仰いだ。月を背にして、紺色の姿が確認できる。遊撃隊の改造弩の照準が孔翔虎一人に絞られて、有効射程ギリギリの位置から狙っていた。また一つ矢が放たれ、孔翔虎の左肩に突き立つ。
(刺さっている?)
刃物の類は無効と思われた孔翔虎の体に、矢はその役割をきっかり、果たしていた。貫通し、臓器を傷つけるに至らないまでも、孔翔虎の鉄の体に突き立っている。孔翔虎は顔を歪め、矢を抜いた。さらに降ってくる矢を避けるべく、後退した。尚も振り続ける矢の雨を、手刀で叩き落とす。
孔翔虎の目が、ユジンの方を向いた。ユジン、身構えた。
「ユジン!」
背後から怒鳴り声がした。
「頭、下げぇっ!」
ほぼ反射的に首をすくめた。唸りとともに、標がユジンの頭上を掠め、真っ直ぐ孔翔虎の元に飛んだ。孔翔虎が標を弾き返したのに、玲南は縄を繰り標を回収。ユジンを庇うような位置取りで、孔翔虎に相対した。
「悪りぃ、見失って」
苦痛を噛み殺したような表情をしていて。玲南はどのようなそしりも受ける、というような思いつめたように言う。
「私服は?」
「片付けたよ。けど、まさかこんな事になっているとは」
上方から影が飛び降りた。連は玲南に倣って立ち、峨嵋刺を抜く。
「《南辺》の地理に詳しくならないといけませんね。機械に頼ると」
「まあ、土地勘が無ければ」
つらい、そう言ったときには遊撃隊が集まっていた。一様に孔翔虎の姿を認めると、各々、弩の照準を向けた。
「迂闊に近づかないで」
ユジンが警告するまでもなく、射手たちは無理に近寄らず、ただ弓の射程距離ギリギリの間合いで構えを取る。孔翔虎を取り囲むような配置についた。
「形勢逆転、か」
女が言うのに、孔翔虎はわずかばかり眉を顰めた。
「足止めを、したつもりか」
孔翔虎はそれでも、構えを崩さず、女の方に対峙していた。他のことよりも、この場にいる敵は灰色の女ただ一人であるかのような振る舞い。
「どうする? 続きをやるか?」
だが、女が問うのに、孔翔虎は少し考え込むそぶりを見せた。己の腕を見、肩に触れ、ちらりとユジンの方を見やる。さすがに自分の身体を傷つけた矢を警戒しているようだった。
ゆるりと、孔翔虎の上体が動いた。その瞬間、ユジンから見て斜め左の射手が、弩を撃った。
それが合図だった。遊撃隊が一斉に矢を放った。飛来する矢の雨を、孔翔虎は打ち払い、掻い潜り、後退した。
「逃げるか!」
連が峨嵋刺を投げ打つのに、孔翔虎はそれを叩き落とした。それが最後だった。一瞬だけ、無感動な目をこちらに向けたのち、孔翔虎はあっという間に暗がりに溶け込んでしまった。
「追うな」
ぴしゃりと言い放つ声がした。追撃しようとした射手を押し止める、クォン・ソンギの姿が確認できた。
「深追いすれば、また兵を失う。目的は達せられたんだから」
いかにも着の身着のままといった様子だった。よほど慌てて出てきたのか、息も乱れている。それでも、平静さを保った声で告げる。
「ユジンを保護する、という目的がな」
そう言ってユジンの方に向き直ると、睨みつけるように対峙した。
「私服共は片付けた。まさか、あの男が出張っていたとは思わなかったが。それにしたってユジン、少し不用意過ぎないか。あいつと交戦することは避けろ、と言ったはずだが」
「そう、責めてやるな」
声の方に、全員一斉に振り向いた。女が悠然と腕を組み、壁に背をつけてこちらを眺めている。
「真田省吾を殺った、憎き相手だしな。それに、不可抗力でもある。しかしまあ……それにしたって随分必死だったね。親の仇でも、ああはなるまい」
くすくすと女が笑いを洩らした。殺気立つ射手達を前にしても全く動じない。その場にいるユジン以外の誰もが、ことと次第によっては、という空気を滲ませているにもかかわらず。
「っていうか、あんた誰だよ。さっきから」
案の定、一番初めに突っかかったのは玲南だった。
「玲南、その人は」
「口出すなよ、ユジン。あんたの恩人だとしても、あたしの知る限り、こんな女見た事ない。知り合いじゃなきゃ敵、知り合いでも敵。この街にいるんなら、その辺分かっているんだろう?」
ずかずかと女の方に近寄ると、秀麗な眉をひそめて女の顔を覗きこむ素振りを見せた。女は帽子を引っ張り、つと顔を背ける。
「ちょっと顔貸しなよ」
くっ、と女の喉が震えた。同時に馬鹿にしたように、唇が歪む。
「自分が間に合わなかったからといって、そう当たるなよ」
「ざっけんなよ、あんたが何モンか。言わないなら、体に聞いてみようかね」
玲南が乱暴に女の襟首を掴んだ、その瞬間。女の体が沈んだ。玲南の腕を掴み、体を密着させると、襟ごと玲南の腕を巻き込み、そのまま地面に引き倒したのだ。
「貴様!」
クォン・ソンギ以下、射手たちが一斉に弩を構えるが、しかして撃つことは出来ない。女の手にはナイフが納まり、うつぶせに組みしかれた玲南の首に、ぴたりとつけられていた。
「命が惜しければ下を見ろ。相手を選んで、物を言え。この街にいるのなら、その辺分かっているだろう?」
玲南が何かを言いたそうに口を開けたが、声を発することが出来ない。女が玲南の身体にのしかかり、膝で背中を圧していたのだ。胸を潰されて、圧迫されている。
「クォン・ソンギ。弓を下げさせて」
ユジンが告げた。自分でも驚くほど、落ち着いた声音だった。クォン・ソンギは憮然としたような表情になった。命令されたことそのものが不快であるというような顔だったが、しかし事実、退くより他ない。クォン・ソンギが攻撃中止を告げる。果たして遊撃隊は全員、弩を下げた。
「まず、玲南を離してもらえないかしら?」
「離したら、こいつがまた突っかかってくる」
「私がさせない。だから、離して」
「まあ、いいだろう」
言葉どおり、女は玲南を離した。最初にナイフを仕舞い、玲南の背中から膝をどける。関節をほどき、最後に玲南の手首を離した。玲南は腕を押さえながら、よろよろと立ち上がった。
「てめえ……」
今にも食って掛かりそうに、玲南が睨みつける。
「やめなよ。あなたの敵う相手じゃないわ、今わかったでしょう」
ユジンがやんわりと嗜めると、玲南は舌打ちしたがそれ以上、女に何かするでもなかった。文字通り、身を以って体験したのだから。
「とりあえず、ありがとう。助けてくれて」
ユジンが礼を述べるが、女はゆっくりと首を振った。
「さっき言ったように、肩入れするつもりはないよ。だから別に、お前の助けになりたかったわけじゃない」
「でも、結果的に助けてもらった。肩入れしないなら、どうして」
「興味本位だよ。あいつが入れ込んでいる女が、どんなものなのかと、見ておきたくて」
「それって、どういう」
最後まで言い切らないうちに、女は背を向けた。遊撃隊が弓を構え、連がガビシを抜いた。
「待って! さっきあなたは、真田省吾の関係の者、と言った。あなたは省吾を知っているの?」
「よく知っている。あんたと省吾が出会う前から、ずっと深く、ね」
女の物言いが、何となく癪に障る言い方だったので、思わず声を荒げた。
「何者よ、あなた」
「一つだけ、いい事教えてやるよ」
女は、ユジンの問いには答えず、ゆったりとした足取りで路地の方に歩いてゆく。クォン・ソンギが停止を命ずるのにも、聞かず。そもそも、遊撃隊の存在など無いかのように、振る舞った。
「“あいつは俺が倒す”」
「え……」
「真田省吾からの伝言。今日は、それだけ伝えに来た」
「伝言ということは、つまり――」
生きている。そういうことになる。
「それは本当なの?」
「嘘をついても始まらない」
素っ気無く、感慨も無く、女が言った。それを聞いて、どこか胸のうちにつかえていたものが外れた。もはやそれ以上聞くべくもなく、女の素性や動機など、全て頭の中からきれいさっぱり消えてしまった。ただ、省吾が生きている、という事実。それのみが、在った。それだけで十分すぎるほどの。
止まれ、とクォン・ソンギが怒鳴った。
「行かせて、クォン・ソンギ」
意図するまでもなく、ユジンが口にした言葉に、クォン・ソンギは怒りと驚きを以って睨めつけた。
「だがユジン、奴は」
「敵ではない。今は、それで十分よ。それに、矢を無駄にする余裕はないはず」
果たしてクォン・ソンギは、苦虫を噛み潰したような顔になった。徹底的に不本意であるが、状況を見て引かざるを得ないことを理解している。それが故に歯がゆい、という顔だ。
遊撃隊が弓を下ろした。
「最後にひとつ、いい?」
ユジンが声をかけると、女は少しだけ帽子のつばを持ち上げた。紅を曳いた唇が覗く。
「省吾が生きているなら、今どうしているの? 何でここに来ないの」
「動ける状態ではない。傷は癒えても、それ以上に負ったものは、少なくない」
去り際、女が言った。
「あんた、私が来たときに、誰の姿を期待した?」
「何を――」
「省吾じゃなくて、がっかりしたか」
その問いに何と返してよいか考えているうちに、女の姿はもう路地に入り込み、闇に呑まれるように消えた。
加熱した夜がさめてゆくように、静寂が街に降りてゆく。
第十二章:完