第十二章:16
孔翔虎、拳を振り下ろす。頭の上で、轟と風が唸るのを聞いた。
暗闇が訪れた。
数瞬、間があった。衝撃が響く――ユジンの頭上で。おそるおそる目を開けると、光が瞼を刺激した。
(生きている……?)
続き、頭をもたげた。目の前には孔翔虎の姿はない。人影が、ユジンと孔翔虎の間に、割り込んでいる。その人間はユジンに背を向けて、孔翔虎に相対していた。
瞬きをした。
灰色の衣服を纏っていた。剛性繊維特有の、光沢のない鈍色の金属を思わせる生地の質感。足下を覆い隠すほどの長い外套だった。
孔翔虎が打ち込んだ拳は、手前で止まっている。否、受け止めているのだ、その人間が。何か、棒状のもので拳を止めている。
よく見るとそれは鎖だった。鎖の両端に、カカオナッツほどの分銅がぶら下がっている。
「あ――」
声を絞り出した。かさついた口の端から空気が漏れるような、弱々しいものだった。締め付けられたようになった喉を、無理やり動かすが、何一つとしてこぼすことが出来ない。
孔翔虎が下がった。鉄の面に、灰色の人物を警戒しているような緊張感が垣間見えた。灰色の人物が手に持った分銅鎖を投げつけるに、孔翔虎が拳で弾き返す。鎖と分銅が一瞬制御を失って空を掻いた後、灰色の人物の手に戻った。
「ほう、見切ったか」
吐息めいた感嘆を漏らした。女の声。聞き覚えのないものだった。訛りの無い広東語、女にしては低音だと思った。
「何だ、貴様」
孔翔虎は構えを崩さず、問うた。威圧する物言いではないものの、詰問する口調だった。平静を装った言葉の端々に、棘を含む。
「先刻から、見ていたのは貴様か」
「あんただって見ていたんだろう、お互い様だ」
女の口調は対して、余裕を含んでいた。圧力もなく、脅迫するのでもなく、恫喝もしない。どこか達観して、自分の言質がそれほど重要でもないと捉えている者の喋り方だった。
「まあでも、手は出さないつもりではいたけどね。一応、私はさ、ほら。部外者なわけだし」
「そうだろうな。貴様のような人間、『黄龍』にも『STHINGER』にも存在しないはずだ」
「そう、存在しない。それこそ、この街には存在しちゃいないんだよ、最初っから」
意味深な言葉を投げかける。孔翔虎は不審さを露にすることもなく、ただ少しだけ、細かいものを見るように目を眇めた。
「さて、あんた。ええっと……ユジン、って言ったっけ」
「は、え?」
唐突に女から問いかけられ、上ずった声で返事をしてしまった。続いて振り向いた女の、顔を見ようと覗き込む。だが、つばの広い帽子を目深にかぶっているため、表情は伺えない。ただ血のような紅を引いた唇が、わずかに笑みを象っているように、歪んでいた。
「走るよ」
女がそう言った瞬間、いきなりユジンは抱え上げられた。肩に担ぐようにして。
「ちょ、ちょっと……」
「だから、走るっていってんだ」
ユジンが足をばたつかせるのに、女は腰のベルトに手をかけた。女が手を掛けた瞬間に少しだけジーンズがずり下がってしまった。腰が空気に晒されて、冷たい風が吹きこんでくる。
「暴れると、尻が丸出しになるよ。大人しくしな」
言ってから、女は走り出した。人一人を肩に担いでよくも、という速度で路地を駆け、入り組んだ狭路を抜けた。迫るような左右の壁が、ようやく開けたところで、ユジンは地面に下ろされた。下ろされたというよりも、投げ出されたといった方がいい。乱暴に落とされて、尻餅をついた。
「何するのよ!」
当然のごとく声を上げたユジンを見下ろして、女は鼻を鳴らした。
「見えてるよ」
女が指摘するのに、ユジンは自分の腰周りの異変に気づいた。きつくベルトを締めていたのだが、ジーンズが下がって華奢な腰が露出して、あまつさえ下着の端が見えてしまっている。
「あ、あんたっ」
気恥ずかしさに、顔が燃えるのが分かった。慌てて直してから、女を睨みつけた。
「だから暴れるなって言っただろう。まあ、全部脱げなくて良かったな」
「ふざけないでよ、あんた誰? これは何の真似よ」
「そんだけ騒げりゃ、まあ大丈夫だ」
女がユジンの顔を覗きこんだ。ふいに近づいた瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。白梅の香りだ。女がつけているのだろうか。
「骨には異常ないようだけども、出血が多すぎる。呼吸も乱れているようだね。何キロも走りっぱなしというのもあるんだろうけど、まあプロパンなんて吸ってたら気分も悪くなるな」
とん、と女の指がユジンの額を小突いた。分銅鎖を扱う者の手とは思えない、しなやかな柳の枝を思わせる指だ。
「結論。無理をしすぎだよ、あんた。無理しても、体がついてこなきゃ意味がないよ」
まるでいたずらな子供を叱りつけるような調子で言う。強い口調だが、問い詰めるというよりも嗜めるような口調だった。
「あんたに言われるまでも……だから、あんた誰よ」
「まあ、誰ってはっきりとは言えないけど」
孔翔虎が追いついてきたのが分かった。闇の中から白い功夫服が、滲み出るようにして姿を現した。
「真田省吾の知り合いの者、とだけ言っておこう」
「えっ」
女はそれ以上応ずることなく、孔翔虎に相対した。
「早いねえ、随分」
女の挑発めいた言葉にも、孔翔虎は眉一つ動かさない。それどころか益々、威圧感を高めているような佇まいだった。膨れ上がる殺気をどうにか鉄の体に押し込めて、今にも爆発しそうな衝動の塊といった風情。いつでも飛びかかるという、獣の気概だった。
「貴様」
孔翔虎の押さえつけたような声音が、重苦しく響いた。
「いきなり乱入してきてどういう了見だ」
「まあ落ち着け。別にここでお前をどうこうしようというつもりはない。お前の体には興味があるが、お前達の抗争に肩入れするつもりはない」
「ならば、何故邪魔をする」
「そりゃ悪かった。けど、強引な手ばかりじゃ女は落とせないよ。たまには引くことを覚えなければな」
女がくすくすと笑いを漏らす。孔翔虎の愁眉が引きつった。
「この街で、やたらと嗅ぎ回っている連中がいると聞くが、貴様のことか」
「知らないねえ、そんな噂。私はむしろ、鉄の塊が服着て歩いているって事しか聞いてないよ。粗末なスクラップが、阿呆みたいな支那の拳法を」
女はそういって、右手の指で分銅鎖を弄び、分銅を小さく振り回した。鎖が指に絡み、解き、分銅が手の中で躍った。
「ヒューイ・ブラッドごときが、まさかあんたみたいな奴を隠しているとは思わないよ。大方雇われ者か。《東辺》の連中が、そこまでの武力を保持していても不思議はない」
じゃり。分銅を掴み、鎖を引き伸ばした。それがまるで空気が張り詰めるときの音であるかのように、感じた。
「あるいは、台湾からの、か。お前」
孔翔虎は押し黙っている。女に好きなだけ喋らせて、女がどこまで知っているか。そして何を知ろうとしているのかを探っているように思えた。
「それを確かめるには?」
孔翔虎が告げた。挑発の響きはないが、明らかに誘っていた。
「あんたの体調べる必要は、まああるけどね。私はそういう専門じゃあないから。あんたを殺すための、消えても構わない駒がちゃんとある。私はその駒じゃない、今の所はね」
気づけば女は、構えを取っていた。鎖を左右の手で保持しつつ、左足を前に踏み出して対峙している。それ以外は何の変化もなく、ただ立っているだけに見えた。威嚇するような、臨戦体勢とは違う。殆ど無構えといった風情。孔翔虎が向けた拳に戦慄している風でも無く、あくまでそこに在るだけの、自然体な構え。気負い無く、焦燥に駆られず――水のように佇む。こんな場面であるのに、ユジンはその構えを美しいとさえ思った。
「どうする?」
真に覚悟を問うかのように、女が訊いた。
「ここで引くか、あるいは斃すか。どうせここで私を斃しても、それでお前の生が伸びるわけでもない。所詮、鉄屑は鉄屑だ。どこかで錆つく運命だ」
「戯言を吐くな、犬が」
それ以上、語るべくものはないというように、孔翔虎が低く応じた。
「犬か、まあ……当たっている」
女が吐息めいた風に、言った。その途端、二つの影が動いた。
どちらが仕掛けたのか、判断しかねた。気づけば拳と分銅鎖が交わっていた。
拳が分銅を弾いた。間髪入れず、孔翔虎が肘を打ち付けた。
献肘が迫った。顔面を砕く寸前、女が体を真半身に切った。肘が流れ、女は孔翔虎の側面に回りこむ。
女が鎖を投げた。分銅が孔翔虎の後頭部に伸びた、その分銅を孔翔虎が弾き返す。振り向き、孔翔虎が縦拳を突き出した。その拳を女が左手で受け、流し、孔翔虎が勢いを余して前のめりになるところへ、女は鎖を手繰り、分銅を横薙ぎに打ちつけた。
孔翔虎が下がる。分銅が鼻先を通過した。再び鎖を繰り、投げつける。孔翔虎の足に鎖が絡みついた。
女が鎖を引いた。足を取られ、孔翔虎が一瞬バランスを崩した。すぐに体を持ち直し、踏みとどまる。女がさらに引くのに、孔翔虎は両足の膝を落とし、重心を低く保ち、これに対した。
ぴんと張った鎖を隔てて、両者が対峙していた。双方が鎖の端にある思惑を読み取り、また読み取らせまいとして、探り合っていた。どちらかが仕掛ける、その瞬間に仕掛けるのだという、先の取り合い。それが、鎖の危うい均衡となって、現れている。
「さすがに簡単には転ばないか」
女が発した瞬間、孔翔虎が踏み込んだ。一足飛びで女の眼前に飛び出し、手刀を薙ぎ払った。
鎖が弾け飛んだ。数秒経って、孔翔虎が分銅鎖を断ち切ったのだと解した。孔翔虎、畳み掛けるように頂肘を差し出す。岩の体躯を押し付け、打ち当たった。女が交代してそれを避けるに、さらに孔翔虎もう一歩踏み込み、突きを放った。女の表に伸びる。