第十二章:15
目を向けると、通りのネオンの光を背負って、白い衣の長身の男が立っていた。
鉄のような無表情。そんな印象を抱いた。彫刻のように彫が深く、アジア系というよりも西欧系の顔立ちに近い。顔立ちが整っている分、切り結んだ唇と鋭利な視線が、凍てつくような殺意を固めたものとして写る。
「南の流儀か。子供には手を下さない、とは」
男が発した。雑音めいた恫喝や、稚拙な侮蔑を口にするだけのギャングとは違う。低く唸るような、それでいて何かしら威圧する意図は感じられない。どこか超然と、己の立ち位置から冷静に物事を見ている。そんな者が発する声だ。
「別にそんなんじゃない、私のやり方よ。南も西もない」
ユジンはひとつ、息を吐いた。棍を中段に構え、先端を男の心臓に向ける。
「初めまして、かしら。あの剣の娘、あいつの片割れでしょ、あなた。確か……」
「孔翔虎」
そう言った孔翔虎の功夫服の下に、岩石めいた体躯が息づくのを感じる。悠然と構えも取らず、孔翔虎はただ立っている。
静かな佇まいだった。何かしらの威圧を含む意図もなければ、感情を滲ませることもない。それでいてぴりぴりと肌を刺激する緊張感があった。孔翔虎――おそらく最初に耳にした時、想起した印象と寸分違わない。人工的に合成された体、それなのに孔翔虎が放つ気迫にはまるで“作った”形跡はない。
「良く知ってる。あなたの相棒もね、有名よ。あなたたち」
「どうせ命を落とす身ならば、覚えたところで何にもならないだろうが」
「そう、死人には意味が無い言葉もあるわね。でも覚えておいても、損じゃないよ。冥土の土産に、名前を刻み込むというのも」
「既に一度、死んだ身なれば」
孔翔虎はまるで気にも止めないという風だった。自分のことなど話題にする意味を見出せない、というような。
それよりも、孔翔虎の意識は別の所にあるようだった。
「お前の技を、見ていた」
孔翔虎が言うのに、ユジンは唇を噛んだ。
「覗き見? 趣味が悪いわね」
「そいつらを差し向けたのは俺の指示だからな」
「私服を動かしたのも?」
沈黙。否定も肯定もなく、ただ黒曜石めいた視線のみ、向いている。
「じゃあ、もう一つ質問。何のために、彼らを差し向けたの? 当て馬にするほど、あなたたちは武芸者が余っているのかしら」
「貴様らの力を見ておくため――」
孔翔虎は緩慢とした動きで、右足を一歩、前に踏み出した。そこで初めてユジンは構えを取った。左足を引き棍を下段に保った右半身。本能とも云うべき、染み付いた習性だった――相手が動けば自分も動く。
「『千里眼』と『疵面』を失えば脆い。そう断ずるのは容易い。だが、それは希望的観測だったことが判明した。貴様らを残しておけば、今後我らに仇なす存在となる。故に、ここで潰しておく必要がある」
我ら、というのが誰を指すのか分からなかった。ヒューイのことを言っているのだろうか。
「それでも、『千里眼』を仕留めそこなったことは失敗だった。何であれ、貴様らを完全に叩き潰すことには失敗した。次は、逃さない」
「だから」
右手を握りこんだ。棍の質感を確めるように。
「だから、省吾を殺したの?」
勝手に指に力が篭る。指が固い棍に食い込むのではないかというほど。力んだ筋肉は動作を遅くする、力の伝達を遅くする――分かりきったことだった。分かりきったことであるのに、力を制御することができない。震えが、全身に満ちる。
「あなたでしょう、省吾を殺したのは」
「『疵面』は」
と孔翔虎は囁くように言って、
「もし、奴が生身でなければ。あるいは俺が生身であれば、あそこまでの力の差はなかっただろう。もっと早くに会っていれば、結果はあるいは……」
「そんなことどうだっていい、あんたがやったのかどうかって訊いているんだよ!」
つい、声を上げた。わけの分からぬ激情が胸を衝き上げ、体の奥底に堆積した澱が溢れてくるようだった。溢れた澱は、言葉になって飛び出してくる。
「あんなところにおびき出しておいて、あんたは省吾に何をした? 省吾を殴って、蹴り殺したのか。答えろ、鉄屑野郎!」
孔翔虎の表情に、わずかな変化が生まれる。眉をひそめた、明らかな嫌悪を示しているかのような。それも、一瞬だった。一瞬でまた、もとの無表情に戻る。完璧なプログラムに介在するバグであるかのように、ほんのわずかな感情表現。
「ああ、そうだな」
孔翔虎が首肯――その動作も、鼻につくほど自動的で。
「俺が殺した」
苛立ちを募らせる。
歯を食いしばった。呼吸が乱れて、全身が燃えるように熱い。
「そう……それなら」
血が逆流する――下から駆け昇ってくる。皮膚の下で筋肉が脈動している。皮膚を突き破りそうなほどに。
理性が訴えている――冷静になれ。それは判断力が鈍る元となる。構うものか――省吾を殺したんだ、こいつは。こいつを殺さなきゃ、収まらない――
「殺さないとね」
半身になった、左足を引いた。いつでも飛べるように、体勢を低く保った。左足に力が満ちる――少しでも孔翔虎が動けば、突き込めるように。
「あんたは、省吾の仇だ」
神経が研ぎ澄まされる。相手が動けば、こちらも動けるように。棍と、敵。視界からは、その二つ以外のものが全て、消え去った。
「やめておけ。俺は貴様の力を見た。並の兵では勝てることはないと知れたが、俺からすればお前など」
「知った風な口を!」
飛び込んだ。左足で地を蹴り、右足を踏み込み、棍に体重を乗せ、突いた。
先端が、孔翔虎の胸に突き立った。岩のような固い感触を得る――棍が滑らないように、しっかりと握りこんだ。
孔翔虎が口を開きかけた、その顔面に向けて掬い打つ。棍のもう一方の端が、顎を跳ね上げる。
だが。
「そういう心づもりならば、それも良い」
孔翔虎の手が、それを阻んだ。右肘を上げて棍の打ち込みを防ぎ、棍は孔翔虎の顎の手前で止められていた。
「どのみち死ぬのであれば、早いか遅いかの違い……」
言った瞬間、孔翔虎の右腕が横薙ぎに払われた。手刀がユジンの喉を抉る瞬間、ユジンが仰け反る。
孔翔虎の腰が沈んだ。虎が地に伏せ、獲物に飛びかかるような体勢を取る。そして、踏み込んだ。
体ごとぶつける崩拳が、一直線に突き込まれた。山塊が迫るような圧力、咄嗟に棍を水平に押し出した。
拳が触れる――棍で防いだ。衝撃を受け止めるが、受けきれず。体ごと吹っ飛んだ。三歩ほど下がったところで何とか踏みこらえ、構え直す。
「その棍」
孔翔虎が呻く。ユジンは構えを崩さない。
「道理で頑丈すぎると思った。それは、カーボンか」
「しかも鉄芯入りだよ。あんたみたいな化け物を斃すために、特別にね」
“シルクロード”の武器商から仕入れた特注品だった。刃物も銃弾も通さない防具には、原始的な鈍器の類が効果がある――唯一掴んだ糸口だった。というよりも、唯一縋りつける最後の支柱とも言えた。
「なるほど」
孔翔虎、踏み込んだ。
「浅知恵だな」
踏み込んだ地面が抉れた。ユジンは棍をしごいた。
がっ、と鉄が触れた。孔翔虎の右掌が棍の突きを止めた。すかさずユジンは棍を旋回し、打ち込む。
右の壁に当たった。打ち込みが阻まれ、その隙に孔翔虎の掌が轟然と突き出された。後退して捌くが、避けきれず。肩先を孔翔虎の掌が掠めた。骨が疼き、唇を噛み締める。飛び退き、距離を取った。
「この空間ではその武器の特性も生かせない。あの三人を追い詰めたことが、仇となったな」
「少し喋りすぎよ、あんた」
息が切れる――それだけに孔翔虎の余裕が鼻につく。突きつけた棍の先が、揺らいだ。
「黙って出来ないの? 男はあんまりべらべら語るものじゃないよ」
激昂をそのままに、吐き捨てた。
孔翔虎の突きが迫った。棍で捌く、その瞬間。孔翔虎が腕を折りたたみ、肘を突き出した。頂肘――鉄の塊が迫る。ユジン、棍で防ぐ。めきりと、棍が軋んだ。一歩下がり、棍を短く持つ。下から掬い上げ打つ、その先端を孔翔虎が掴み取った。
「離せ!」
ユジンが棍を引っ張るが、孔翔虎が強く引くと棍は呆気なくユジンの手を離れた。孔翔虎は右手で棍を繰り、中段に構える。先端がユジンの喉を向く。まるで火炎が噴出しそうな圧力、慄然とする。
孔翔虎、踏み込んで棍を突き出した。唸りを上げ、刺突が迫る。首を捻って突きを避ける。頬を棍が掠め、背後の壁に突き立った。コンクリートとガス管を砕き、棍がめり込んだ。
孔翔虎が棍を引き抜く。破裂した管からガスが噴き出、プロパン独特の人工腐臭が漂う。さらに孔翔虎、棍をしごいた。
刺突が、ユジンの眉間を貫く瞬間。ユジンが跳躍した。左右の壁の配管を掴み、空中で一回転する。孔翔虎の頭を飛び超え、背後に着地。孔翔虎が振り向く刹那、後ろ蹴りを放った。
孔翔虎の左手が空を撫で、脚を払いのけた。足を打ち払われたことでバランスを崩し、地面に落ちた。そこへ、孔翔虎が低空の蹴りを放った。斧刃脚と呼ばれる八極拳の蹴り技、本来は相手の脛や膝を打つものだ。孔翔虎の足裏がユジンの顔面に迫るのに、ユジン跳ね起き、後退した。五歩下がり、足元の直刀を拾い上げる。少年が持っていた物だ。右手に携え、切っ先を向けた。
「まだやるのか」
孔翔虎が呻くように言った。
「当然」
ユジンは頬を滴る血を拭いた。刀の先をひたとつけ、右手を大きく前に張り出す。短刀の、一番基本的な構えだ。
「あんたは仇だから」
「『疵面』のか」
また孔翔虎の、能面めいた面差しに不愉快さが滲んだ。今度ははっきりそれと分かる、嫌悪を含む物言い。
「そこまで激昂する理由が分からないな。事前の情報によれば、奴はお前たちのチームとは関係ないはずだったが」
「チームとか関係ない」
刀の先に、霞がかかっていた。慌てて引き戻す、意識を。傷口を掴み、痛みによって離れかかった己自身を押さえ込んだ。
「省吾は仲間だ。一度関われば、仲間なんだ。仲間傷つけられて、黙っていられるわけないでしょ」
「仲間とは」
孔翔虎は益々渋面を濃くした。ユジンの言葉一つ一つが、いらだちを募らせているかのように。
「久しく聞かない、言葉だな」
「あんたには分からないでしょうね、機械風情には」
舌が回らない、眩暈がする、膝が震える――体を通る芯が抜き取られたような心地がした。真綿の如くにくたびれた筋肉、限界を告げ、崩れ落ちそうになる。踏みとどまる――それが唯一の命題であるかのように感じていた。崩れ落ちた瞬間に、ユジンはユジンでなくなる。
「ここにいて、仲間などと口にする奴を初めて見た、ということだ」
対して孔翔虎は、息一つ乱さない。機械であるから当然と言えば当然、その当然なことが、ユジンと孔翔虎との距離であると――否が応にも自覚させられる。
「薄い、“仲間”を口にして、それを理由にするか……」
抑揚のない、孔翔虎の声が、反響している。皮肉めいた謂い。それが、益々癇に障る。
「薄い覚悟。そんな人間が、意思など貫けぬ。真に問うべきは言葉ではなく覚悟、信条ではなく力こそが全て」
独り語り。誰に聞かせるでもないような、空虚な言葉の羅列。そんな意味のない言葉でも、刻み込むような棘を含んでいる。明らかな非難。
「うるさいよ、あんた」
視界も揺らぎ、思考も判然としない中、その声だけが頭の中に入り込んでゆく。孔翔虎の言に支配され、いくら閉め出しても声は簡単に入り込む。思い通りにならない、それ故に歯がゆい。
「それ以上、何も喋るな――うるさい」
「あるいは」
孔翔虎が言った。
「あいつは、お前の男なのか? だから必死になるのか」
「……え?」
顔を上げた。
眼前に塊が差し出された。最短距離を貫く鉄の拳槍が、今まさにユジンの表を打ち砕かんとする。刀を押し出して防ぐに、刃と拳がかち合った。
衝撃。刃欠け、刀が根本から折れる。鋭角の鉄が弾け飛び、空中に舞上がって孔翔虎の背中側に落ちるのを、ユジンは眺めていた。
孔翔虎の肘が突き出される。我に返り、飛び退いた。献肘が顎の先に触れた。さらに孔翔虎、半歩踏み出し、体当たりを繰り出した。孔翔虎の右肩が胸郭に打ち当たる。
「あ……ぐっ」
肺腑の空気が絞り出されて、内臓ごと呼吸を打ち止められる。一瞬の浮遊の後、地面に叩きつけられたところでようやく空気を吐き出した。同時に胃の奥からこみ上げる反吐に、我慢できずその場でぶちまけた。
「かっ、はっ……くぅ……」
胃の酸と呼気。あらゆるものが、身体の奥から押し出される。肺は新たな空気を求めて吸気を繰り返すが、それ以上に出てゆくものが多すぎる。吐いては吸い込むが、吸いきれずにせき込み、また吐き出した。喉が収斂して、痙攣する。
朧気な視線の先、孔翔虎が見下ろしていた。侮蔑や、哀れみの色もない。ただ見ている、傍観してそれ以上立ち入る必要がない、というような。そんな風情で、佇んでいる。
「舐めるなよ、この……」
足に力が入らない。壁に手を突いて、そろそろと立ち上がる。膝が落ちる、頽れる。もう一度立ち上がったときには、もはや壁に縋りつく体勢だった。
孔翔虎は手を出さない。もう一撃、繰り出せばユジンを殺すことなど容易いだろうに。じっと、こちらの様子を伺っている。
ふいに、支えが消えた。脚の感覚が消失し、重力のままに崩れ落ちる。
とっさに手を伸ばした。壁の白管に中指が引っ掛かるが、それだけだった。掴むことは叶わず、呆気なく身体は崩れ落て膝をつく。それと同時に、最後の望みも断たれた心地がした。筋の繊維一つ、もうままならない。
孔翔虎が歩み寄ってくる。鉄塊めいた拳が、近づいてきた。あと一歩踏み込めば、確実にユジンの頭蓋を打ち抜けるという距離にあった。
(口惜しい……)
心底、そう思った。いいようにもてあそばれ、いたぶられ、子供をあしらうように。省吾の仇どころか、指一つ分の意地も通せない自分が歯がゆい。死ぬことよりも、何一つ報いていない自分が許せない。そう思えども、一歩も動けない、立ち上がることすらできない己の身体が許せない。そして、こんな局面になってもまだ、覚悟を決められない自分の甘さが――許せなかった。
孔翔虎が拳を振り上げた。無防備にさらした首と後頭部に、痛いほどの視線を感じる。数瞬先の、自分の姿を想像した。脳漿を散らして果てる自分の姿を。
「……省吾」
我知らず、口にした。最後まで捨てきれない甘さ故の希みを。