表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
監獄街  作者: 俊衛門
177/349

第十二章:11

 家を出たのが、30分前だった。『夜行路』の市へと赴く途中のことだったが、外に出た瞬間から違和感を覚えていた。視線が八方から張り付いて、《南辺》の土壁ごとユジンを監視するような居心地の悪さ――得体のしれない不快さが肌に張り付いていた。

 足を早めると、何者かの足音が駆け出すのを感じる。早足でビルの物陰に隠れたところ、最初の銃声が上空で鳴った。さらに早める――走った。ビルの屋上で緑色の閃光が瞬いて、土壁を銃弾がうがった。廃屋の壁づたいに走れば、どこからか銃声が聞こえてくる。

 路地に入り込む。やがて通りから、潮騒のようなざわめきが聞こえた。壁に背をつけて、ナイフを抜き、磨かれた刃を鏡に見立てて大通りを伺う。

 通りを、『黄龍』の私服兵たちが駆け回っているのが見えた。一般的なSMGが多いが、一人だけ大口径のショットガンを提げている。

(囲まれた)

 事態を飲み込むのに、そう時間は要らなかった。崩れた英語の怒声に混じって、北京語法の規則正しい話し声が聞こえる。断片的な情報は、兵たちが最初からユジン目当てであることを示していた。

 予想は出来たことだった。ヒューイの目的はレイチェル・リーと《南辺》の勢力を叩くこと。もともと、ヒューイが侵略してきたのだ、この《南辺》に。あの程度で――雪久と省吾を排除しただけで、済むはずもない。

 朝鮮女はどこだ、というブロークンイングリッシュの叫びを耳にした。その声は四方から聞こえ、段々と範囲を狭めてきているような錯覚に陥った。

 非常階段の陰に座り込み、息を整える。そうでなくとも心臓は飛び跳ね、血が異常に早く体内を駆け巡っていた。下腹が締め付けられて、まるで鉛か水銀の湯を飲まされたように熱を持っている。

「不用意だったかしら、ね」

 誰にもわからないような声で、呟いた。棍を持つ手は、じっとりと汗ばんでいた。高まった体温を冷ます、唯一のものだった。深い泉の底と同じ色をした、特注の棍。救いといえば、それだけだ。棍を腰だめに構え、両手で保持して身を低く保つ。耳を、すませた。

 敵はどれほどいるだろうか。辺り構わず怒鳴り散らす兵士たちの声からは、推測できない。だが、規則正しい足音よりも、雑でバラバラな足音の方が数が多い。黒服ではなく私服の――ギャング上がりの雑兵たちだと知れた。視覚に入るだけでも20人、見えないものを含めればかなりの数だろう。

 端末のメール画面を開いた。クォン・ソンギによれば救援を寄越したという。最低でも、20分はかかるということだった。どうすれば20分もかかるというのだろうか、そんなフットワークの悪さで遊撃隊? 笑わせないでよ、などと毒づきたくもなる。その間、持ちこたえることができるかどうか。

(やるしかない)

 地の利はこちらにある。『黄龍』がどれだけ《南辺》を調べているかわからないが、少なくとも《南辺》を拠点としている『OROCHI』より精通しているとは思えなかった。

 空気を吸い込む、止める。ゆっくりと吐き出す――腹の底にたまった澱を押し出すように。鼓動が少しだけ、収まった気がした。

 非常階段を駆け上った。建物から通りに突き出た漢方の広告板に飛び乗る。下を見ると、私服兵が3人、うろついているのが確認できた。

 地面までは5メートルほど――妥当な距離だ。棍を諸手で持ち、振りかぶった体勢で、飛び降りた。

 落下とともに、棍を直下へ振り下ろした。真下にいた男の、脳天を砕く感触を得る。先端が頭蓋骨にめり込む感触を確かめる間もなく、隣の男に対する。男の目が見開かれた、その顔面に向けて突き。顔の中心が大きく窪み、柔い肉と骨を貫いた。

 跳躍――3人目めがけて。男が銃を差し出すより数瞬早く、ユジンの棍が横薙ぎに走った。男の腕を弾く、手首が曲がる。悲鳴が上がる、と同時に棍をしごき、突き。きっかり喉を抉り、黙らせた。

 足音がした。背後、斜めの方から。振り向くと黄色い服装が、真っ先に網膜に焼き付いた。

 ライフルが向く。とっさに地面に伏せた。頭上で銃声、壁に着弾。ユジンはナイフを抜き、銃撃の方向に向かって投げつけた。銀色のダガーが回転しながら闇に吸い込まれ、遅れてどさりという物音がした。

「当た……った?」

 確認する暇はない。通りの向こうからまた何人か駆けてくるのが見えた。すぐさま起き上がり、路地に転がり込む。背後から銃声が響いて、怒鳴り声が追いかけてきた。

 廃屋の一つに飛び込んだ。壁に背をつけると、どっと汗が吹き出た。あんな無茶苦茶な投擲で、よくちゃんとナイフが刺さったものだ。とても省吾のようにはいかない、と思う。ナイフは一本しか携帯していなかったので、ここから先は棍のみで戦わなければならない。

 息を整える。肺にたまった汚れた空気をすべて吐き出し、埃を含んだ酸素を腹に落とし込む。そこでようやく、屋内の様子が観察できた。

 バーカウンターがある――元々は大衆向けの酒屋のようだった。酒の瓶やグラスがそのまま放置されているところを見るに、どうやらつい最近店を畳んだようだ。ギャングか、あるいは西からの侵略で逃げ出したのだろうか。

 声が、迫ってくる。ユジンは棍を肩に担ぎ、戸口で身を低くして待ち伏せる。足音が近づくに

 扉が蹴破られ、白人男が飛び込んできた。銃を差し出す、その腕に思い切り打ち据えて銃をたたき落とした。肘が砕けるに、男はドイツ語の発音で悲鳴を上げた。続き、踏み込んだ男の首を打ち据える。血の泡を吹いて、今度は一言も発せずに倒れた。

「次……」

 そう呟くに、また通りの方から足音がした。奥に逃げ込むと同時に雑兵たちが踏み込んで来る。バーカウンターに飛び込むと同時に、銃撃を浴びせてきた。暗い店内が銃火の閃光で照らされて、断片的な影を浮かび上がらせる。棚のグラス類が砕かれて、ガラス音響を甲高く奏でた。

 店の奥に転がり込んだ、その先に階段があるのを見つける。迷うことなく駆け上る――足下で銃弾が爆ぜた。

 2階。雑然と椅子が積み上げられている。そのうちの一つを取り、階下に蹴り落とした。ちょうど階段を上ってきた男の顔面に直撃し、さらに他の男にも当たって二人もつれるように転がり落ちた。それでも追っ手はひるむ様子もなく、駆け上がってくる。ユジンはきびすを返し、窓へと走った。飛び込み、ガラスを突き破って――外へと躍り出た。

 着地とともに走り出した。怒鳴り声に続き銃撃。すぐさま路地に駆け込み、難を逃れる。

 耳元を、銃弾が掠めた。破裂したような唸りが鼓膜を奮わせ、耳たぶを焦がす。思わず身をのけぞらせた、その視線の先。雑兵たちが集まってきている。

 ユジン、駆けだした。先頭の男が拳銃を差し出す。

 火線が閃いた。それと同時、あるいはそれより数瞬早くユジンは棍を薙払った。棍の先端が銃を弾き、銃弾が大きく逸れる。呆気にとられ男の顎をかち上げた。男が頽れるのを後目に、横薙に転ずる。もう一人の顔面を弾き、間髪入れずに突きに変化させ、二人仕留めた。

 3歩先、別な男が銃を構えた。ユジン向き直り、跳躍した。

 男が発砲。銃弾は太股をかすめ、肌に灼熱が刻まれる。ユジン、空中で捻転し、二発目が放たれるより先に棍を身体ごと叩きつけた。

 先端が男の肩にめり込む。鎖骨を捉えた感があった。一瞬、男の目が見開かれ、やがて男はゆっくりと倒れた。倒れ込む瞬間に血を吐き出し、アスファルトに転々と黒い点が刻まれた。

「また次……」

 休んでいる間などない。すぐに走り出すと、またどこかで銃声が聞こえた。

 振り切っても振り切っても、追いかけてくる。どれほど足掻いても包囲はゆるまず、むしろ確実にユジン一人を追い込んでいた。獣が集団で、獲物を狩るのに似て――じわじわと締め付けてくる殺意。

 ひゅう、という耳障りな呼吸音が聞こえた。ひゅう、ひゅう、と。それが自分のものであることには、すぐに気づいた。肺の奥からせり上がる空気が喉を鳴らして、胸が内側から突き破られるような息苦しさを、ずっと感じている。乳酸が溜まって感覚も無くなりかけた手足とは対照に、胃の腑と脾臓が脈動して、それが締め付ける痛みとなる。

「次、次ぃ……はっ」

 それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。自分が倒れれば、その瞬間に戦いのすべてが終わるという気がしていた。雪久や金、レイチェル・リー。省吾がいない今、ユジンが倒れるわけにはいかない。

 私がしっかりしないといけない――言い聞かせる。自分自身を脅迫するかのように。

 遠雷めいた銃声から遠ざかり、路地に逃げ込んだとき、端末が振動した。ディスプレイに玲南の名が浮き上がっている。唯一の救いをもたらすともいえる、名だった。すぐに、電話に出る。

『ユジン、いるか? いまどこ?』

 端末の向こうで、まるで緊張感のない声が響いた。これから酒を飲みに行こうとでもいうような気楽さだった。

「あ、あなた……今どう……ん、どういう状……はぁ、どういう状況かわか、って」

『落ち着け落ち着け、息が乱れてんよ。乱れてるっていうかイキってるっていうかよ』

 けらけらと笑い声がした。恨み言の一つでも言ってやりたい気分だったが、もともとこういう娘だということを思い出す。少し深呼吸してから、ユジンは話し出した。

「……第2ブロックの、多分『夜光路』からそれほど離れていないところよ。遊撃隊はいつ来るの?」

『さあ、そんなんしらない。あたしは、クォン・ソンギの奴から現場に行けって言われただけだし』

「じゃあ、じゃああなたでいいから。いつ来てくれる?」

『なんか、すっげえムカつく言い方だねそれ』

「あ、ごめん」

 などと、よけいなやり取りをしている場合ではない。今しゃべっている声も、敵に見つかれば終わりである。

『んー、行ってやってもいいけど? でもねえ、それなりの見返りはほしいさね?』

「こんな時に何を。それより早く――」

『ああ、遊撃隊の長、あたしにやらせてくれたらいいよ?』

 ふざけているのか、本気なのか、ユジンの言を遮ってとんでもないことを口にする。

「そんな決定権、私にはないし」

『じゃ、あんたからかけあってよ金の野郎に。あの野郎、あたしの力認めないってんで――ちょ、なにをするん』

『貸して。あんたじゃ話にならない――ユジンさん、聞こえますか。連です』

 玲南の声が遠ざかり、電話の主が切り替わった。

「えっと、あなたは確か」

 声は聞き覚えがある。確か、金の傍を影のようにつき従う少年だ。手を合わせたこともないし、ろくに会話したこともない。

「何で、そこに? 玲南と?」

『細かいことは抜きにします。ユジンさん、あなたの状況を教えてください。敵は何人ですか』

「よく分からないけど、少なくとも50人は下らないと思う」

『私服ですか、それとも黒服?』

「私服の雑兵ばかりだけど、黒服がいないとも限らない」

『なるほど……』

 端末の向こうで沈黙が流れた。考え込んでいるようだ。やがて連が言った。

『よく聞いてください。遊撃隊はあと12分ほどで到着しますが、そのままだと間に合わないかもしれない。ここからは確認できませんが、おそらくユジンさんのいう50人よりもさらに多い』

 ここから、がどこからなのか、連は明らかにはしなかった。

「どうすればいいの?」

『まずは、私たちのいるところまで来てください』

 こいつもまたとんでもないことを言い出す――と思った。下手に動けばそれこそ狙い撃ちにされる。自殺行為ではないか。

『私が誘導しますから、心配無用です』

 連はユジンの胸の内を見透かしたかのようなことを言った。

『端末のGPSで、あなたの位置は分かります。敵の位置はそれでもアナログな手法に頼らざるを得ないですが』

「どんな手法よ、それ」

『後で説明します。玲南もすぐに合流しますので、とにかく今は走って。敵が来ます』

 言われて、気づいた。足音が複数、近づいている――声を落として話してはいたが、それでも同じところにいれば見つかる率は高くなる。

『右へ曲がって』

 連の声。言われるまま、右の小路に逃げ込んだ。雑兵たちはユジンに気づかず、そのまま通り過ぎた。

『そこからまっすぐ……三つ目の角を左』

 指定された角を曲がると、共同住宅群の空虚な佇まいが目の前に広がった。その中、真ん中の建物に入れと告げられる。

『2階へ』

 住宅の入り口に、階段がある。ユジンがその階段を昇ろうとしたとき、遠くから発砲音が響いた。土壁に着弾、振り向けば雑兵が3人、追いかけてくるのが見えた。

「位置、分かってないじゃん敵の」

 悪態をつきながら、ユジンは2階に駆け上がった。

『敵はアナログな方法でしか分からないので……3番目の部屋に入って』

 ずらりと並んだ住宅の部屋。細胞セルなどと呼ばれる小部屋の中で、一つだけ扉が開いているところがあった。それが、指定された部屋だ。ユジンが中に入ろうとすると、何者かが腕が伸びた。振り払う間もなく、その手によって中に引きずり込まれた。 

 声を上げそうになった、その口を誰かが押さえる。そして耳元でささやいた。

「じっとしてな」

 声の主はそれだけ言うと、ユジンを押し退け、回廊に飛び出した。手に鉄線を編み込んだ縄を一巻き携え、その縄の先には菱形の標がついている。遠心力を利用して標を振り回し、雑兵たちのいる方に向け、投げつけたところで、扉が閉ざされた。

 一瞬の間があった。扉の向こうで悲鳴が三つ連なった、かと思うと再び静寂が包んだ。

 やがて再び扉が開けられると、真新しい血で濡れた標をひっさげる玲南の姿があった。

「ご苦労さんだね、ワンマンアーミー」

 まるで気負いのない、普段通りの笑みを浮かべて。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ