第十二章:7
一抱えあるプラスティックの箱から、女は携帯用の焜炉を取り出した。固形燃料を砕き入れ、アルミの鍋をかけた。続いて同じ箱から、この街では絶対にお目にかかれない済んだ水で満たされた一升瓶を取り出す。
「貴重な水だからな」
女はこぼさないよう、慎重に水を鍋に注ぎいれた。火をかけると、徐々に水が煮立ってきた。
続いて粉末の出汁を入れ、沸騰したところでブロック状に切った野菜を入れた。長葱と白菜、春菊を放り込む。くたくたになるまで煮込むと、真空パックに包んだ冷凍の魚を箱から取り出し、鍋に入れた。ぶつ切りの白身魚や貝類など、実に豪快である。ひとしきり煮込んだ後、味噌を溶かし入れた。やがて湯気とともに、味噌の香りがしてきた。
「腹、減っただろう? 力をつけておきな」
女が椀を差し出すのに、最初は躊躇したが、素直に受け取る事にした。箸を取って煮込んだ野菜と魚を食った。凍えた体に、鍋の熱さが染みこんでゆくようだった。
「エージェントの数が、減っているんだよ」
女は自ら食すことなく、省吾の食っている姿を眺めていた。
「ここに来て、どういうわけかね。ギャングに簡単に殺されるような奴をエージェントにしたことはない、が。どうも相手が悪いらしい」
「相手、というと」
「機械だよ、省吾」
鍋の中の具が少なくなると、女は乾燥米を入れ、蓋をした。
「お前たちが対峙した機械が来てから、エージェントが炙り出されることが多い。既にギャングたち、あるいは東の連中も気づいているのかもしれない」
「『マフィア』、だっけか」
レイチェルから、街を動かす存在を示唆されたときのことを、思い出していた。
「その存在だって、定かではないけども。しかし、『黄龍』を襲ったという機械」
女が蓋を取ると、湯気がわっと舞い上がった。十分に煮込んだ雑炊を椀によそって、省吾に差し出した。
「あのタイプは初めてだが、一つ問題がある。なんだかわかるか?」
「倫理的なものか?」
火傷しそうに熱い雑炊を、息を吹きかけながら口に運んだ。魚の味が、口の中に広がった。うまい、と感じた。3日間何も食べなかったから、よけいにうまく感じるのだろう。
「人権規定に引っかかるんだよ。侵襲型のサイボーグは人権侵害とされているからな。全身を機械に置き換えるなんて、鬼の所業だ、なんて騒がれるし……急いで食べるな、喉につかえるぞ」
空になった省吾の椀を取り、女は二杯目を注ぎこんだ。
「あまりぴんと来ないという顔だな?」
「俺は神道家だからな、そういうのは良く分からないが」
雑炊を流し込み、省吾は椀を置いた。
「人権にうるさいというなら、つまり俺達は人と認められていないってことか」
「悲観することはない。獣や鳥にシンパシーを覚えれば、人よりも優遇したがる連中もいる」
「そんなことはどうでもいい。それで、何が言いたい?」
「分からないか。つまり、時代に逆らってまで全身機械化の兵士を生み出すことはできない。法律がそうさせているわけだからな」
余った水を椀に注いで、省吾に飲むようにすすめた。省吾はそれを一息で飲み干した。
「じゃあ、さっさと取り締まれよ。お前たちの仕事なんだろう」
「ことはそう単純じゃない」
女は省吾の椀を取って、また水を注いだ。
「人権、というものは人にもともと備わっている、というのが常識とされる。ならば、人でなければ?」
「いや、それは……」
女が何を意図しているのかも分からず、省吾は曖昧に返事をした。女は煙草を取り出して、火を灯す。
「人の定義もそうだ。両親の交わりで生まれたものが人なのか、母体から生み出されなければどうなるのか、とか。実はこの辺りの議論は未だ尽きない。もし、人と定義していいのか分からない、そんな存在があったとしたら、少々高くついてもそっちを選ぶだろう」
「何が、高くなるって?」
混乱しながら訊き返す。訊いたところで理解できるとは思えなかったが。
「コストパフォーマンス、費用だけじゃなく社会的制約も加味しての、な」
女は紫煙をくゆらせて、いった。
「その存在ってのが、どういうものなのか良く分からないが」
「こういう話がある。確かではないが」
女は前置きして、
「昔、台湾の生化学企業が、地元の警察に摘発されたことがあった。病院と契約して、患者の細胞を無断で売買していた……病院側と企業側の責任者は処分されたが、肝心のデータはついに見つからなかった」
「データっていうと、何かの実験とか? 何だよそれ」
「クローンだ」
女が煙草の吸殻を投げ捨てた。吸殻は地面に当たり、細かい火花を散らす。
「彼らはクローンに関する実験をしていた。施設から大量に見つかったのは幹細胞と、遺伝子操作されたレトロウィルスだ。ウィルスで遺伝子を導入して、分化万能細胞を生み出すということを延々繰り返していたらしい。その証拠に、塩基配列が全く同じな臓器が、いくつも見つかった……それが、10年前だ」
10年前といえば、後の極東の紛争につながるといわれる、朝鮮半島の有事。当時のことは、何となくテレビの向こうの出来事としか捉えていなかった。
「結局、研究に携わったものは散り散りになってしまった。だが研究規模は、人一人作れるほどのものだった」
もはや女は省吾に向かって話しているようではなく、長い独り言を呟いているようにも見えた。呪文めいた響きを伴わせ、視線を宙に漂わせている。心がどこか、別の所にあるといった風情だ。
「再生医療の最先端技術を持ちながら、クローンで人体を生み出す理由なんてない。コストがかかるし、倫理問題で揉めるぐらいなら、人工生命体なんて必要とされない。だが敢えてそれをやる、ってことは……」
「あのよ、話の途中だが」
いい加減耐えられなくなって、無理やり遮った。
「クローン人間なんて、そう簡単に造れるものなのか?」
「容易いよ。羊のクローンが生み出された時点で、人の複製は可能になったと証明されたと言える。だけど、ヒトクローンの製造は基本的には許されない。許されない、が……それが生み出されているならば、利用しない手はない。侵襲型機械で好きに弄っても、誰からも咎められないからな。人知れず生み出され、人知れず消費される。おまけに、人権という概念も、ヒトクローンに人間と同等の権利を与えるかどうかという法整備もままならないんだから」
「あ、ああそう……」
それはいいんだけど、と省吾は話を区切った。これ以上聞いても詮の無いことだ。
「それで、そのクローンならば全身機械化しても、誰も咎めないって?」
「そうではない。ただ、立証が難しくなる。一番肝心なところ、機械兵器の倫理的問題を指摘しづらくなる。いくらでも言い逃れはできるしな。それに、基本的に存在しない人間を利用するわけだから、足取りが掴めなくなるのも問題だ。ただでさえ見つけにくいのに」
忌々しそうに女は舌打ちした。はっきりとではないが、帽子の陰に憎悪めいた視線を垣間見た。
「けど、そんなクローンだなんて」
「信じないか?」
「だって、実際にいるかどうかも分からないのに。大体、話が突拍子もなさ過ぎて……」
「信じられないなら、それでいい。だが、これらのことはちゃんと根拠があってのことだ。それを説明するだけの理由が、私にはある」
「根拠、ねえ。スクリーンの向こうにはありそうだけど、根拠」
省吾がいうのに、果たして女は深々と溜息をついた。
「もう少し、理解がある方と思ったがお前は。今、説明しただろう」
「その説明が突拍子もないってんだよ。台湾の企業が? クローンを? 馬鹿ばかし……」
唐突に、脳裏をレイチェルの顔が横切った。まるで前触れも無く、最初に《西辺》に連れて行かれた時の夜のことが、フラッシュバックのように想起された。そういえば、レイチェルは成海に来る前は台湾にいた、といっていた。
だからどうということでもないが。
「で、俺には何をしろっていうんだ。その企業を追えとか、そういうことだったら願い下げだぞ……」
「もっとシンプルな方法だ、省吾。あの二人を殺せ」
無感動に女が命じた。それが普遍的で、ありふれている行為である、と認識しているようだった。否応なく、この街ではそうなる。
「機械だから破壊、とでもいうべきかな。壊して、死体を持ち帰えるんだ」
「持ち帰って、どうするんだ」
「細胞を調べる。全部が機械ということはないはずだ。生身の……そうだな、まず間違い無く脳髄は生体だろう。そこから細胞を抉り出して、DNAを照合する」
「機械部分は?」
「それも調べる。あのタイプは間違い無く、戦後に造られたタイプだ。DNAから、どこの病院で採取されたのかを調べて、そこを叩けばあるいは……」
「簡単にいってくれるなあ、おい」
胸の奥がざわつくのを押さえるように、声を低くした。
「あの機械を、俺がか。一度やられて、まだ打ち倒す手立ても掴めないってのに」
「武器は供与してやる。銃火器の持ちこみは禁じられているがな」
「いらんよ、銃は。慣れない武器より、刀の方がやりやすい。あいつに銃が効くとも思えないし、狙いを済ましているうちに間合いに入られたら意味がない」
孔翔虎の構えと技は、八極拳。密着状態で体当たりのような打撃を繰り出すスタイルは、間合いの内側に入られると厄介だ。
「だからって、刀で斃せるとでも?」
詰問するように女が問う。斃すことが義務であるかのように。
「そうだな」
省吾は顎に手を当てた。
「他の方法も考えるけど……拳に対応するというなら、刀よりも杖とかだろうか……」
などといっていると、後ろで砂利を踏む音が聞こえた。誰かが近づいたのだと知るが、その人物が小さく声を上げた。
男の声だった。女はそれを聞くと、省吾の背後に視線を巡らせた。
「お前も気づいたか」
省吾、つられて振向く。また別の意味で驚いた。
青い顔をして立っている男に見覚えがある――赤い髪、細い瞼。
松葉杖をついた燕の姿があった。