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監獄街  作者: 俊衛門
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第十二章:6

 血の味とともに、喉の奥が鳴る――粘膜が覆った表皮に、唾液が絡みついていた。粘っこい口中は、ゲル状の液が満たしているようだった。

 光が差し込んでいると思った。それが自らの瞼のせいであることに気づくのに、だいぶ時間を要した。自分の居場所などわからない、上下の別も判然としない中にいたから。頭の中に靄が立ちこめ、自分の位置どころか、現実にそこにいるのかも分からないという有様。それでも徐々に頭がはっきりとしてきて、自分を象るものを脳がひとつずつ認識してゆく感覚があった。

「省吾」

 呼びかけられる。そこでようやく、完全に目を開いた。

「お目覚めか、真田省吾」

 女の声だった。ぼうっとフィルターのかかった視界で見据えると、半歩ほどの距離に灰色の格好をした人物が、遺棄された古タイヤに腰掛けている。つばが異様に広い、妙な帽子をかぶっていたが、すぐにそれが誰であるのか分かった。

「今……どこ……いつだ?」

 粘液じみた舌をもそもそと動かして、言葉を絞り出す。灰色の女はややあって、いった。

「お前はそこで、3日間気を失っていた」

「3日、だって? じゃあ舞は――」

 女が立ち上がるのに、省吾も身を起こすが、途端脇腹のすさまじい痛みにおそわれた。

「無理をするなよ。一応修復はしたが、まだ完全じゃない」

「修復、って」

「肋骨と右尺骨、それと鎖骨。砕けていたが、芯を外していたからそれほど酷くはなかった。打撃の心得があるようだな、お前」

 女がいうのに、省吾はゆっくりと体を起こした。

「あのお嬢ちゃんなら無事だから、心配はしなくてもいい。お前の仲間がちゃんと保護した」

「……そうか」

 思わず、安堵の息を洩らした。

「しかし、お前」

 省吾は続き、右手を上げてみる。指を握る、開くという動作を繰り返しても何の障害もない。外科的な手術の痕もなく、砕かれる前の状態に戻っていた。

「何を、したんだ」

「だから修復した、といったろう?」

「3日で治る傷じゃないだろ、普通。手術したって風でもねえし、俺の体に何をしたんだ」

「細かいことを、案外器が小さいなお前」

 嘲りめいたように、女が鼻で笑った。それがまた癪に触る。

「ふざけているな、誤魔化しすんじゃない。俺に何をっ」

 立ち上がろうとしたとき、再び脇腹に激痛。神経そのものが刺激を受けて、体全体に突き上げた。思わず呻いて、地面にうずくまる。

「やめておけ。下手すれば、肝臓に骨が突き刺さる、ってところだったんだ。それに、落ちた時の衝撃も加わっているからな。しばらく安静にすることだ」

 抗議する間もなく、省吾は座りこんだ。

 帽子の陰から、女の唇が垣間見えた。以前見せた老婆の姿とは打って変わって、若々しい肌をしている。

「変装技術の為せる技、ってか。また妙なものに化けて」

「褒めてくれているのか? それは」

「おそれいるよ。女に変装するなんて、並大抵じゃない。男の体じゃ、女の格好はすぐに見破られるというのに」

 まるで、本物だ――そう言うと、愉快そうに笑いを洩らした。

「お前が女の体なんて分かるのか? 商売女にすらしり込みするお前が」

「……そいつは関係ないだろう」

 憮然として言うと、女の格好をしたハンドラーが帽子に手をかけた。少しだけ持ち上げると、長い黒髪が帽子からこぼれた。微かに、椿の匂いがする。

「だが最初から変装と決めているが、この姿が本来のもの、という可能性は考えなかったか」

「考えんね」

「何故?」

「俺がエージェントで、あんたがハンドラーである限りは。大体、俺の生き死にを問わないって奴が、堂々素顔を晒すかね? 恨みを買いたくないから、仮面被っているんだろうがよ」

 吐き捨てると、女が溜息を洩らした。どうあっても理解しあえぬというような、諦観を表すように。

「素顔、だったとしても特に問題などないんだがな。私が仮面を被る理由は、そういうことじゃない」

 そうして、完全に帽子を取った。

 息を呑んだ。

 女の顔、その右半分が火で炙られたようなケロイドになっていた。赤黒い肉の腫瘍と溶けたようになった爛れた皮膚が、顔の造型すら曖昧にさせている。火傷痕は額から頬にかけて広がり、右目は完全に塞がっていた。端整な左半分や口元と対比して、痛々しく写る。

「そいつを……」

 一呼吸置いて、省吾が発した。

「そいつを隠すため、ってのか。変装は」

「顔はな、案外気にいっているんだ」

 呆気に取られる省吾を見て、さもおかしそうに喉を鳴らしていった。

「女だと、無理やり組敷かれそうになることもある。そのときこいつを晒してやるんだ。戦火から辛うじて生き延びた亡霊が目の前に現れると、皆気味悪がる。良心の呵責もあるんだろうがな。ただいつもこれだと目立つからな、街に溶け込むには。変装は飽くまで潜入のため、コンプレックスのために腕に磨きをかけたりしないよ」

「そうかよ」

 どうしても脳裏に、故郷の風景がちらついた。母親の最後、人の形を留めずに死んだときの場面。幾度となくうなされた悪夢を、現実に見せつけられた気がした。まざまざと物語る戦争の傷痕。

「悪趣味な奴」

 つと顔を背けて、地面に視線を落とした。凝視すれば、狂い死にしそうな幻影と向き合うことを余儀なくされる。見なければ済む話だった。

「ま、これなら恨みを買おうにも買わないだろうが」

 また、女が帽子を被った。素顔を完全に覆い隠す。

「それでお前がいったこと、もう一つ違うことがある。お前の生き死にの話、確かに最初は生死不問と説明した」

「そうだろうよ。だから――」

「けど、事情が変わったんだ。ここからが本題だ」


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