第十一章:16
棍を握った。向き直る。
二人、なだれ込んだ。続いてユジン、玲南。韓留賢は戸口に立ったまま。
部屋の中央に、いた。宮本舞が、椅子に座っている。白いワンピース、人形めいた佇まい。
呼びかけた。返事がない。
「薬で眠っているみたいだ」
韓留賢が、舞の顔を覗き込んでいった。
「外傷はない。運び込まれて、すぐに打たれたのかな」
「いいご身分だこと、あたしらが苦労している間にさ。幸せそうに眠ってるわ」
幼子のような寝顔を眺めて、玲南が洩らした。
「こいつこのまま運ぼう。眠り姫を救い出したら、あたしも眠りたいよ」
同感とばかりに韓留賢が肩をすくめた。
「いいわ、早いところ退散しましょう」
ユジンは舞の肩に手をふれた。細い躯をかつぎ上げようとする。握っただけで、壊れてしまいそうなガラスの輪郭を伴う。
ふと、妙な観念に駆られた。唐突なイメージが浮かぶ――舞の首に手をかけて、力を込める……そんなビジョンが、生々しい実像として脳裏に焼き付いた。今ここで舞を手に掛けることができる、という厳然たる事実を、自覚した。
舞を殺すことができる。
言い訳には事欠かない。薬が効いていた、遅効性の毒物だった。毒を検知する方法はない。あるいはここで、事故に見せかけて始末することもできる……
どうしてそのようなことが浮かんだのか。ユジンはその考えを振り払おうとした。そんなことしたら、雪久が哀しむ。あってはならない未来。
一方でささやきかける。内なる声もあった。雪久は私のことを見てくれない。すべてこの女がいるからだ。この女さえいなければ――
(駄目だ)
それだけはいけない。そんなことをすれば、雪久は一生自分を許さないだろう。チームを追放されるだけでは済まない。
なら、このまま舞を助ければ、雪久は自分を評価してくれるのか? 自分だけを見てくれるようになるのか? この少女と雪久のいきさつは知らない。けれど、今まで雪久と共に戦ってきたのはユジンだ。それなのに彼は、私を見てくれることはなかった……
「ユジン?」
玲南が訊くのにも応じない。
ゆっくりと、舞の白い喉に指をかけた。こいつさえいなければ、雪久を独占できる。
舞がかすかに身じろぎした。白い首筋が露わになった。
手を伸ばせば――
「あいつは喜ばない」
韓留賢の声。振り返る。
「真田が見れば、何というか」
「な、何」
「きっとあいつは、そういうことは好まない」
韓留賢が首を振った。背を向けていたが、おそらく行動の一部始終を見ていたのだろう。それでも玲南から見えないように、背中で隠している。
「無抵抗な者を殺す真似は、真田は一等嫌うことだろうな」
韓留賢、諭すような口調。ユジンは舞を引きはがした。改めて、自分のしようとしたことに愕然となった。
無抵抗の者を殺す。故郷の平壌で両親を奪った、日本兵と同じことをしようとした。嫉妬に駆られ、自分の手で。
「わ、私は別に」
「ああ、あんたはそういう人間じゃない。誰だって魔が差すことはある。どうかしているのはこの状況、あんたが根っから腐っているわけじゃないことはわかる。だが、真田はあんたとのつきあいは短い。あんたがその娘を手に掛けたと知れば、あいつは一生あんたを軽蔑するだろう」
「……省吾は関係ないでしょう」
舞を抱えて床に寝かせた。これ以上ふれていたら、また妙な気を起こしそうだった。
「どうかね。あいつの名を出したらあんた、正気に戻ったみたいだけど」
「そうね、おかげで目が覚めたわ」
そういって立ち上がった。
「やっぱりな」
韓留賢が少しだけ、微笑を洩らした。
「何がよ」
「あんたにとっちゃ、真田の旦那は行動規範を決めるものであるようだな。あいつに見られたら、という思いが正気に戻した」
「馬鹿なこといってないで」
運んで、とユジンが指示するに、クォン・ソンギが駆けつけた。
「ちょっと、いいか」
クロスボウに矢を装填している。鋭い眼光を浴びせた。
「どうしたの」
「気配がする」
声を潜めた。引き金に指をかけて、いつでも撃てる体制をつくっている。
「どこに?」
「分からない。そこかしこから漂ってくる気もするし、まったくどこからも発していないかのようでもある。ただ、殺気を感じる」
「さっきまでは誰もいなかったのに」
「長居しすぎると、まずい。ここは撤退するべきだろう」
異論を唱える理由はなかった。玲南と韓留賢に目配せする。離脱の合図。二人同時に頷いた。
シンサックが舞を背負った。
「外に運んで、一番隊と合流する」
そう告げたとき。
「上だ」
クォン・ソンギが叫んだ。
天井の一部――シンサックの頭上。コンクリに亀裂を生じた。
「危な――」
ユジンの言葉を遮るように、天井が崩れる音がした。シンサックは慌てて飛びのき、破片の衝突を防いだ。
崩れた破片に混じって、白い影が舞い降りるのを確認した。
瞬間のことだった。シンサックの目の前に飛び降りた影。白い衣、功夫服のような中華風。長めの黒髪、たなびく。少女の細い線――順番に確認した。一番最後、右手に持つ銀色の刃。諸刃の剣だ。柄尻から、桃色の剣穂が伸びている。
少女は剣を降りかぶった。シンサックの顔面に、斜めに浴びせる。一拍遅れ、血が吹き出した。
「シンサック!」
唐突に、切り捨てられた。驚愕したまま、シンサックが頽れた。
少女が駆ける、剣を切り替えし、突き出す。飛月の喉を抉る、赤い狼煙が散った。さらに人間を縫い、隊員たちに刺突を浴びせる。
「待避しろ!」
韓留賢、叫ぶと苗刀で切り込んだ。足をねらう。
両足を刈る。少女が上に飛んで避けるのへ、腕を回して両断に切り込む。
苗刀が、少女のわき腹に食い込んだ。
ガン、と金属音を響かせる。刃は少女の胴を斬ることなく、止まった。衣服の下に防具を仕込んであるのか。少女は着地、同時に韓留賢に掌打を食らわせた。
骨が砕ける音がした。韓留賢の体が吹き飛ぶ、地面にたたきつけられた。
少女が踏み込んだ。まっすぐ、ユジンのもとへ。5メートルの距離を一足飛びで。
弾みでユジン、棍を横薙ぎに打った。
剣の一閃。少女の長穂剣が、棍を半ばから断ち切る。棍の突端が地面を転がり、虚しく響く。すかさず少女が手首を返し、突き込んだ。
体を開き、剣を避ける。睫が剣先に触れた。少女の側面に周り込み、間合いの外に逃げた。
やおら、少女が剣を投げつけた。剣身と同じ長さの剣穂を掴み、遠心力と勢いをつけて投擲。玲南の縄標と同じ要領での使用法ーー剣先に対し、体を仰け反らせた。
剣が太股に突き立った。
「っ……!」
たまらず膝をついた。少女は剣穂を繰り、剣を引き抜くと、柄を握って突きかかった。
ひょう、と空を裂く音。玲南の縄標が横切った。標の先端が少女の剣を弾いた。玲南、手元で縄を繰り、いったん標を引き戻してさらに投げた。
標と剣が衝突。鉄がぶつかり、激しく火花を散らした。標が弾かれるに、もう一度打つ。
少女の刺突。標の突端に突き込む。金属の衝撃、標が半分に割れ、砕けた。唖然となっている 玲花に、鋭い刃が突き込まれる。
とっさに玲南、左手を上げた。左の掌を長穂剣が貫く。短い悲鳴。少女の薄い笑み。剣を抜き、玲南の喉に狙いを付けた。
射撃音がした。戸口から飛月が騎兵銃を撃つ。他のものも続いて撃った。
火線がいくつも切り裂いた。発射炎で暗い室内を照らし、砂埃とガンスモークが視界を塞ぐ。反響する銃声が鼓膜を劈く――
銃撃がやむ。一瞬の静寂が、あった。
煙の中から猛然と影が飛び出した。ユジンが反応する暇もなく、少女が白刃をふるった。
剣が、飛月の喉を貫く――声もなく、飛月の身体がくずれた。少女は剣を引き抜き、跳躍。右側面の『STHINGER』を突き、剣を返してその背後の男を斬り伏せた。
少女の顔、笑っていた。酷薄な笑みを浮かべつつ、斬り、薙ぎ、突く。ユジンは戦慄し、硬直していた。殺しを楽しむ。そういう人間を、今まで数多く見てきた。だが大抵は殺す者の反応を見て、それを笑うという者がほとんどだ。
少女はそうではない――純粋に闘争を楽しんでいる。そういう人間を、ユジンは一人知っている。
「せいやぁあ!」
一足飛びで少女が駆けた。剣の一閃、血の狼煙があがった。
血塗れの顔が向いた。ユジンを見据えて、にいやりと口元をゆがめた。ユジンは動けない。少女が剣を突き出す、喉元に伸びる。
ガン、と火花が散った。目の前。剣先が止まった。
我に返る。
隣に、韓留賢の横顔。苗刀で、少女の剣を防いでいた。まっすぐな剣を、三日月の刀が、上から押さえつけている。韓留賢と少女が、睨み合った。
膠着。少女が飛び退いた。
「大丈夫か」
韓留賢、ユジンを庇うように前に立つ。少女と相対した。苗刀を正眼につける。
「へえ」
少女が感嘆したように洩らした。長穂剣を胸の前で構え、剣穂を掴み、剣を投げた。
剣が、一直線に喉に伸びた。韓留賢、一歩下がって剣を受けた。
火花が散った。
「このっ」
韓留賢、苗刀を返して少女に切りかからんとした。だが、少女の姿はすでになく。
「逃げた……?」
ユジンの眼には、消えたように写った。おそらく韓留賢にも。
「逃げ足の早い奴。散々暴れといて、ダメージゼロのままふけやがって」
韓留賢は舌打ちして刀を納めた。
「ごめん、韓留賢。私、何も」
「気にするな。それよりまずいことになった、あいつ。舞を連れていきやがった」
韓留賢が言うのに、気づいた。背後にいたはずの宮元舞の姿が無い――
「あの女、いつの間に。すばしっこい奴」
と、玲南。頭を押さえている。額から血、斬られたようだ。
「どうすんだ、ユジン。これじゃ当初の目的が」
「やられた」
「はあ?」
ユジンが呟くのへ、玲南が怪訝そうに訊き返した。
「初めからこのつもりだったのね」
「なにがだよ」
「見てよ」
ユジンが指し示す方向ーー四番隊の面々。骸、あるいは傷ついて倒れている。たった一人の敵に対して、あまりに大きな損害といえた。
「最初から、敵のもくろみはこれだったのね」
「何だよ、だから」
「分からない? 私たちははめられたのよ。舞は囮、乗り込んだところをあの子が斬り伏せて」
そうだとしたら。
「玲南、一緒にきて」
頭に浮かんだ最悪のシナリオを想起する。宮元舞を救出するために、隊を率いた人物は誰か。もし、それが全て、敵に筒抜けだったら。あるいは、そのために組まれた脚本、舞台設定だとしたら。
「動ける者は重傷者の収容、その後ここから撤退して。韓留賢、誘導頼むわ」
韓留賢は無言でうなずいた。この男はなにもかも飲み込んだようだ。
ユジンは半分になった棍を拾い上げた。
「行くよ、玲南」
「行くっていってもあんたも怪我してんじゃん」
「いいから!」
じっとしていられるわけがない。舞台、脚本がお膳立てされ、彼らが次に求めるものは何か。
「急いで、これは罠よ。あいつの目的は、きっと」