第十一章:13
夜も白みかけていた。
《西辺》から戻ったばかりで、疲労は極限に達していた。ヒューイに散々蹴られ、突き飛ばされた傷もまだ癒えない。乳酸が溜まった手足が、鉛のように重く、真綿のような感覚がする。それでも、本能は既に戦場へ向かっていた。
大した事じゃない。
戦後、先生と出会うまではずっとこうしていたのだ、省吾は。当ても無くさまよい、荒れた焼野原でたった一人、生きてきたのだ。疲れて休めば、それが死を意味する事を幼心に感じ取っていた。死なないため、生き残るというただ一点のみ、歩き続けてきた。
(こんなことは、慣れっこだ)
だから、もう少し無理を聞いてくれ――と身体に言う。
気づけば《放棄地区》へと至っていた。《南辺》を抜け、橋を越えれば、そこは荒野である。砂の中に霞む廃墟群、ここに足を踏み入れるのはひと月振りだ。
「そんな装備で行くつもりか」
足を踏み入れたとき、後ろから声がした。文学順の姿が、闇に溶け込んでいた。
「来てんな、これは俺の問題だ」
「お前の問題かもしれないが、我々の問題でもある。あの娘は、『STHINGER』にとっても重要だ。和馬雪久に対する切り札でもあるからな」
「ぬかせ」
省吾は文学順に詰め寄った。
「あいつはどういうつもりか知らんが、手ぇ出したら俺がお前を殺す。そのつもりでいろよ」
「まるで保護者気取りだな、真田省吾。あの娘、お前の女にでもするつもりか?」
「そうではない。ただあいつには借りがあるからな」
フードの奥からぎらついた眼が、見据えてきた。ただ一言、文学順が吐き捨てた。
「おめでたい奴」
文学順は背負った包みを省吾に投げた。細長い、包みだ。中を開けると、二尺の刀と一尺三寸ほどの小刀が出てきた。
「武器も持たずに行くなぞ」
刀は黒塗りだった。“焔月”かと思ったが、違う。
「これは」
「うちのボスから、餞別だ。今言ったように、あの娘は人質。勝手に死なれては困る」
省吾は大小を腰に差した。
「そいつはどうも、ありがたく受け取ってやるからてめえは帰りなよ」
省吾がいった、瞬間。いきなり文学順が矢を番えた。身構える暇もなく、射る。矢は省吾の足元に刺さった。
と、刺さった地面が爆発し、小さく抉れた。
「な……」
地雷が埋っていたのだ。砂煙と共に、鉄片が舞った。
「余所者には辛いぞ、この辺り。どこに地雷が埋っているかわからない」
「……別に、このぐらい」
「人の忠告は受けろ。俺自身お前がどうなろうと知らないが、金大人からお前を案内しろと言われている」
要らない、と突っぱねようとしたが、しかし考え直す。確かにこの辺りの地理には詳しくない。
「あんた、詳しいのかよ。この辺に」
「成海は、あらかた。全部、見て回ったからな」
文学順は爪先で、地面を探るように歩を進めた。
「俺の後から、ついて来い」
言われるがまま、文学順の背中を追った。文学順が踏んだ場所と同じところを踏み、同じような速度で行く。
一歩一歩、探るようだ。まるで進まない。
とはいえ、今はこうするしかなさそうだ。非常に緩慢なペースで歩きながら、目だけは鋭く、四方を見渡していた。
隠れ易い場所は、いくらでもある。ここはそういう場所だ。だがわざわざおびき寄せるような真似をしているのだ、そうそう発見し難い所にいるわけではないだろう。餌は、見せつけるために、ある。
どこかにいるはず、だが。
どうも、それだけでは済まない事があった。
(誰か、見ている?)
先ほどから背中に違和感を生じていた。《放棄地区》へ入ったときから、ずっとだ。誰かに観察されているような居心地の悪さ、ねっとりと絡みつくような視線が、背中に注がれている――
「気づいたか、真田」
文学順が声を抑えていった。
「誰か、つけているようだ」
「ああ、そうだろうな」
声を潜め、しかし目は向けない。
「一人か」
「おそらく。接触を試みている、ようでもないから……」
別段、不思議でもない。省吾も、おそらく文学順も、どこかで恨みを買っている。狙われることは覚悟しているし、この街ではそうすることが最も自然なのだ。
とはいえ今は、揉め事は避けたいところ。
「そこの角曲がったら、仕掛ける」
文学順は言うと、廃墟となった建物を右に曲がった。直後、文学順は弓を取り、矢を番えて影から飛び出した。飛び出した瞬間、50メートル先に人影が在るのを、認めた。
文学順が矢を離した。真っ直ぐ、先端が影に向かう。が、鏃が刺さる直前、矢が弾かれた。もう一度、射る。矢は錐揉み状に回転し、尾行してきた人物の、心臓目がけて飛来した。それも弾かれる。ステンレス矢が二つに割れ、中空に舞い上がり地面に落ちた。
省吾は目を瞠った。
太陽を背に、その人物は立っていた。細長い体の線を、ぴったりとしたタイトなスーツに包んでいる。
金色の髪が風になびく。改めて、顔を見た。
女だった。白人の、女。整って作り物めいた顔立ちが、逆光の中に映える。手には薙刀が握られていた。
女は逃げる事は無かった。省吾たちを睥睨するように、立ち尽くしていた。自分の存在を、知らしめているというように。その佇まいは、鋼のようにも、それでいてしなやかな柳の幹を思わせるものだった。隙が、無い。
しばらく、対峙していた。女はただじっと、見据えていた。省吾もまた女の姿を、瞬きもせずに眺めていた。鋭い眼光が省吾を射ぬき、遠い距離であるにも関わらず、肌が粟立った。それほどまでの気を、発しているというのか。
冷たい汗が、腋と背を濡らした。見据えられるにつれ、呼吸が乱れてゆくのが分かる。
次の瞬間、砂塵が舞い上がり、姿が隠れた。風が止んだ、時にはもう女はいなかった。霞みように、消えていた。
「なんだったんだ、今の」
文学順はどうやら女の放つ圧力に呑まれていたらしい。矢を番えることもなく、凍りついていた。
「おい、大丈夫か」
省吾が声を掛けると、文学順は我に帰り
「不覚」
歯軋りして、悔しがった。だが何度やっても、矢は当たらなかっただろう、と省吾は思った。いくら射てもあの薙刀が、ことごとく打ち落としていたに違いない。そんな気がしていた。
「あの女、相当な腕だな」
「それほどの腕なら、この街で名を聞かないはずは無い。俺の矢を破るなんざ。だが、少なくとも俺は見た事はない。真田、お前は聞いているか?」
「あんたが知らないなら、俺も知るわけないだろう」
睨まれた瞬間の、凍りつく戦慄がいつまでも残っていた。遠目からでも、すさまじいほどの殺気を感じた。いつ以来だろうか、睨まれただけで身体が切られそうな思い、というものは。直接対峙していたら、呑まれていたかもしれない。
(気にはなるが……)
だが今は、舞のことが先である。
「急ごう」
省吾は先に立った。
廃墟群を抜け、少し広い場所に着いた。文学順が、後ろから追いついてきた。
「何やってんだ、地雷踏んだら元も子も無いだろう」
「待て」
省吾は立ち止まって、手で制した。しゃがみこみ、崩れた壁に隠れた。文学順もそれに倣った。
「何だ」
「あれを」
と省吾が指差す方向に、燕の姿があった。赤い髪、間違い無い。燕は黒服の男に、何かを手渡されていた。それを受け取り、やたらとぺこぺこしていた。
「薬か」
文学順がいった。
「あいつ、ダオが薬漬けにした奴だな。中毒になって、薬で飼われたのか。哀れだな」
「それをしたのは、貴様らだろう」
「ダオが勝手にしたんだ、俺は知らない」
「そんな理屈を」
「静かに」
その時、黒服が立ち去った。燕は薬と思しき包みをポケットにねじ込んだ。地面に突き刺した槍を引き抜いた。槍は、それでも手入れを怠ってはいないようで、穂先が良く研がれている。
「ここにいろ」
省吾はいうと、燕に近づいた。
「よう」
肩を叩くと、燕は電気ショックでも受けたみたいに跳ね上がった。そして、省吾の顔を見ると、また驚いて飛び退いた。
「な……省吾」
燕の顔は、ひどいやつれ様だった。頬がこけ、目の下に濃い隈が出来ている。血の気のない、病人みたいな面だ。これも薬の作用なのだろうか。
「いつぞやは、どうも。だが再会を懐かしんでる暇はねえんだわ」
肩を掴む手に、自然と力が入った。燕のやせ細った腕が軋むほど、握り締めた。
「吐けよ、クソ野郎。舞をどこにやった」
「何の、話だよ」
「とぼけんな、もう割れてんだよ」
さらに、締め上げる。
「教えないつもりなら、良い。その身体に直接聞くか……」
省吾は刀の鍔に指をかけた、とき。
「わあああ!」
いきなり燕が叫び、省吾を突き飛ばした。はずみで、手が外れた。省吾は再び手を伸ばす。そこへ、槍の穂先が飛び込んで来た。
間一髪、逃れた。のびやかに突き込まれた槍を、省吾は後ろに下がり、間合いを外した。後ずさり、槍の届かぬ距離へ。
「野郎」
燕は槍を構え、省吾に対した。槍先は、ぴたりと省吾の喉元に狙いをつけていた。微動だにせず、確実に抉るという意思表示でもあった。
「舐めんな、省吾。俺はもう、『OROCHI』じゃあないんだ。貴様の言う事、聞く必要もないし、実際聞かない」
燕は間合いを詰め、踏み込んだ。同時に、突き。先端がしない、穂先が螺旋に回転しながら伸びた。省吾は下がりながら、槍を避ける。追撃するように、燕は連続して突いた。
喉、心臓、金的。
めまぐるしく繰り出される攻撃に、省吾は攻めあぐねていた。長いリーチから放たれる槍に、近づくこともままならない。二連、三連突き出して、赤い房飾りが揺れる。まるで、穂先が意思を持っているように、正確に急所を狙ってくるのだ。
省吾は刀を抜いた。出来れば戦いたくなかったが、仕方ない。
「やっ!」
中段に構え、槍の先端を跳ね返した。穂先が一度、大きく弾んだ。かと思うと、横薙ぎの軌道に変化した。したたかに、省吾の左小手を打ちつける。たまらず、手を離した。
そこへ、再びの突き。胸元にまで迫り、心臓を抉らんとする。
手元をカチ上げ、穂先を鍔で弾いた。懐に入らんと踏み込むが、燕は槍をしごき、今度は喉を狙ってくる。
「どうよ、省吾。刀じゃ槍には勝てないぜ」
連突は益々苛烈さを益した。省吾は首と肩に小さく、傷を追った。踏み込もうとすれど、穂先は縦横無尽に走り、ねじ込むように突き出して来る。その動きは、まるで飛燕。
文学順がたまりかねたように矢を番えた。
「手出し無用!」
省吾は叫んだ。この戦いは、省吾のものだ。誰にも、邪魔をされたくなかった。
やおら、刀を脇に構えた。右足を引いた左半身。心臓を前にし、体の全面を曝け出した隙の大きい構えだ。
誘いである。狙い通り、燕は大きく踏み込んだ。渾身の力で、突きを放つ。その突きに合わせ、省吾も動いた。斜めに踏み込む。槍に対して脇構えから、逆袈裟に切り上げた。
刀と槍が、交錯した。かつんという手応えを得て、穂先が刎ね飛んだ。
燕は大きく、目を見開いた。槍が、半ばから寸断されたのだ。すぐさま刀を返し、燕の首に刃をつけた。皮一枚、頚動脈の上に重ね置く。勝負ありだ。
「お前こそ舐めるなよ、燕。如何に間合いが違くとも、薬食らってトチ狂った奴に、やられるわけがないだろう」
ぐい、と刀を押しつけた。かすかに、血が滲む。少しでも刃を滑らせれば喉を掻き切ると、言外に告げる。燕は、小さく声を洩らした。
「舞は、どこだ」
今度はゆっくりと訊いた。燕は怯えたように、体を小刻みに震わせていた。目の焦点が、あっていない。何か、恐ろしいものでも見るかのように。
「何をやってんだ、さっさと答えるんだ」
ふと、燕の目が、省吾の背後に向くのを見た。省吾は燕が見ている方向に目をやる。
後ろに、男が立っていた。
白い衣を纏っている。功夫服だ。背丈は省吾と同じ位、細身だが衣服の下には隆々とした筋肉が息づいている。精悍な目が、じっと省吾を見据えていた。
途端、胸がざわついた。
(こいつは……)
細胞がささくれた。男の放つ、異様なほどの殺気が、肌を圧迫する。
反射的に、省吾は身を引いた。途端、男は腰を落とし、踏み込み猛然と突きを放った。右拳が、省吾の肩を掠め、燕の肩に突き刺さった。