第十一章:12
「『千里眼』だって?」
我知らず、叫んでいた。電話口で受けた報せは、それほどに衝撃的だった。
「確かか?」
彰はやや声を落として訊いた。
『あいつは嘘を言わんだろう』
省吾の声は、張りがない。疲労しているようだった。
『当の機械眼は潰れちまってんがな。ただ、飼い主にそんなもん与えるようじゃ、あの男』
それ以上は言わなかったが、省吾の意図は伝わった。
「どうも、臭うな」
『そう思うか。俺も、ちょっと妙な事があってな。まあ、詳しい事はそっちに行ってから話す』
「わかった」
いうと、彰は電話を切った。
「『千里眼』か」
すぐにレイチェルが反応した。
「『千里眼』は戦中も試験運用に留められていたんだ。そうそう、手に入るものじゃない」
レイチェルは硬いベッドに腰掛けた。薄桃の漢服から、ほのかに白梅が香る。
二人して、医務室にいた。雪久、ユジン、金がそれぞれ《西辺》にいる間、レイチェルら二番隊は《南辺》へ残り、拠点防衛に当たっていた。防衛、といっても特別なことをするわけではない。主力を全て差し向けるわけにもゆかず、万全でないレイチェルは戦力温存という形で、残された。
「じゃあ、雪久はどう説明するわけ」
彰が問うに、
「お前が知らないなら、私が知るわけは無いだろう」
レイチェルは煙管の煙を吹かした。2度。すぐに、盆に打ちつけて灰を落とした。
「あいつは、誰にも過去を話したがらないから」
彰はずり下がったメガネを押し上げた。意思とは裏腹に、指が震えていた。
「雪久は、俺と会う前から『千里眼』を備えていた。この街で、あれを埋め込んでいたのはあいつ一人だったんだ。だからあいつは無敵だった」
『千里眼』、その名の通り万物を見通す力。その原理も、どこで造られたかも明らかにされていない。ただ、人の体に埋め込むことが可能なほどに小型なマイクロスコープは、従来までの技術と明らかに一線を画するものである。
「彰、特異点という言葉を知っているか」
唐突にレイチェルがいうのに、彰は思わず聞き返した。
「何、それ」
「特異点。ヒトと機械の境界が無くなり、ヒトの体が拡張されることで迎える、転換期の事を言う。生物とテクノロジーが融合する臨界点、そしてそれを迎えれば、人類は後戻りできない…」
「何それ、新手の宗教か?」
「随分昔から言われていることさ。『千里眼』は、その特異点への進化を加速させるツールとされた」
何を言っているのか、理解しかねた。まるで呪文でも諳んずるかのように、レイチェルはぶつぶつと呟いている。
「だが、実際には世界規模で進化のスピードを緩める方向にある。国連決議によって、侵襲性機械の製造が規制され、サイバネティックスの戦略兵器転用が制限された。機械兵の存在は否定され、サイボーグは医療技術にのみ許された」
「それが、どうして『千里眼』に結びつくわけ?」
「抑えつければ、必ず反発する者が表れるのだよ、彰」
レイチェルは丸めた煙草の葉に火をつけ、煙管に投じた。再び紫煙をくゆらせ、息をついた。
「進化は、抑えることによって加速することもある。規制が、逆に『千里眼』の進化を促進させたとしたら……」
「いや、待って。それは、ちょっと飛躍しすぎじゃないかな。電子機器の小型化が、そんなに直ぐに実現されるとは」
「小型化ではない」
レイチェルの言った意味が分からず、呆然としていると、レイチェルは煙管の灰を落として呟いた。
「大きいものを、小さくしてゆく、そうしたトップダウンの精製ではない。分子レベルの、ごく微小な機械。それらをナノマシンの自己組織化で組み上げる、そういうボトムアップによるものだ。実際には多くの時間、膨大な試行錯誤のもとに成り立つ技術だが、技術というものはすべからく平準化されてゆくものだよ」
「はあ、そう」
ボトムアップ、大から小に造りかえるのではなく、小さいものを積み上げる(ボトムアップ)させる、という方式を執る。極小の単位から、階層レベルを上げてゆくアプローチだ。
「この街で何が起こっているのか……」
レイチェルは、かん、と真鍮の煙管を打ちつけた。
「随分、詳しいじゃないか。姉御」
雪久がそうするように、彰もまたそう呼びかけた。
「まるで当事者みたいに語る」
「当事者か、確かにな」
レイチェルがふと、遠くを見るような目をするのに、彰は言葉を呑み込んだ。回顧するかのように視線は宙を彷徨って、思いを巡らせているようにも見えた。
「確かに、私は当事者かもしれないな。そうした全てに関わって――」
次にレイチェルが口を開きかけたその時、医務室のドアが勢い良く開けられた。
「彰、大変」
飛び込んで来たのは、リーシェンだった。リーシェンは、下はウッドランドの戦闘服にブーツ、上は黒い乱闘服にボディーアーマー着用といった、ちぐはぐな格好をしていた。それでいて髪は強風に煽られたように乱れている。
「彰、今、アパートが」
「落ち着けよ、呼吸困難起こしたみたいになってる」
リーシェンは大きく深呼吸した。息を整え、ゆっくり告げた。
「今、舞さんのアパートから」
それを聞き、急に背筋がささくれるのを感じた。我知らず、リーシェンの肩を掴んで詰め寄った。
「舞が、どうしたって?」
すまない、と少年がうなだれるのに、省吾は何も応えず呆然と立ちつくしていた。
目の前には、部屋があった。中は荒らされてはおらず、しかし中には血まみれの少年が3人、倒れている。いずれも『OROCHI』の防衛部隊であり、部屋の主を護衛するために派遣されたものだった。
「いきなりだったんだ……」
少年は傷の深さよりも、自分の役目を果たせなかったことに対して、ショックを受けているようだった。落胆して、いる。
省吾は部屋に入った。自分の部屋と同じ間取り、調度品。それらは手付かずのまま、置かれている。ただ部屋の主が――舞だけが、忽然と消えていた。
た。
話によれば、最初に部屋の中で物音がしたということだ。護衛役が飛び込んだときには、何者かが飛び出して、舞を連れ去って行った、ということだった。樫の棒一本、それだけで3人を叩き伏せたという。
「下手人は?」
省吾は静かに言った。
「覆面で良く分からないけど、はっきり見た……赤い髪が、マスクからはみ出ていた」
「そうか」
それっきり、黙った。それだけで十分だ。
赤い髪、あのとき見た燕の姿は偶然ではなかったのだ。燕は、省吾と舞が暮らしているこの共同住宅に通い、一番効率の良く誰にも見つからない侵入経路を探っていたのだろう。
(しくじった……)
省吾たちが《西辺》に攻め込んでいる間、雪久のアキレス腱たる舞を直接狙ってきたとは。すっかり、盲点だった。たかが3人、護衛につけた程度で安心しきっていた。
(甘すぎるっ)
いまさら悔いても遅い。
「大変なことになったな」
と金が、溜息混じりにいった。文学順に支えられながら、のっそりと部屋に上がりこんで
「どうすんだ、これ」
卓の上に置かれた紙片を、拾い上げた。省吾はそれを受け取る、英語で何か書かれていた。
《放棄地区 第3ブロック》
ただ一言、つづられている。それが意味する事は、一つしかない。誘っているのだ。
「罠だぜ、こりゃ」
「そうだろうな」
けれど、と省吾は、舞の顔を思い浮かべた。初めて会ったときの、怯えたまなざし。対象的に、『STHINGER』に乗り込んだとき、また“焔月”を差し出したときの、凛と澄んだ瞳。それらが永遠に失われるかもしれない――そんな、脅迫めいた焦燥感を覚えた。
「おう、これはどういうことだ」
戸口から声がした。振り返らずとも、分かる。どうやら一番隊も到着したようだ。
「雪久か……見ての通りだ」
省吾は紙片を雪久に手渡した。雪久はざっと目を通し、紙片を丸めて床に叩きつけた。
「これはまた、手が早いなクソ野郎。誰にやられた」
「聞いた話で判断するなら、燕に間違いないだろう」
「聞いた話、ねえ」
いきなり、護衛役の少年に向き直り、何の予告もなく少年の腹を蹴り飛ばした。少年の体が吹っ飛んで、椅子に叩きつけられる。卓上のランプが床に落ちて、派手な音を立ててガラスを四散させた。
「てめえは何をやってたんだ!」
少年の腹と顔を、更に執拗に踏みつけ、蹴り飛ばした。少年は既に弱りきって、抵抗する力を失っていた。されるがままに、なっている。見かねて省吾が止めに入った。
「やめろ、こいつは悪くない」
「そうか、じゃあてめえが悪いんかね」
今度は、省吾の方に向き直った。
「どういうことだ」
「ここ、お前の部屋があんだろう? 舞がここにいるって知ってたのに、お前は」
雪久は省吾の胸倉を掴み、ぐいと引き寄せた。細腕にも関わらず、凄まじい握力だ。
「何してたんだよ、貴様は!」
声を荒げ、怒りを露にした。
左眼が、紅く光る。『千里眼』が赤々と燃えた。この眼は雪久の感情に呼応しているのかとも思う。既に、散々発動させた後だろうというのに、今から戦闘に赴くかのような輝きを見せた。
「……否定はしない、俺が見落としていた部分も大きい」
雪久とは対象的に、省吾は淡々としていった。
「あいつがここに住む、っていったときも。俺は黙認していたしな。張り倒してでも止めれば良かった、とも思う。だがな、雪久」
言うと省吾は、やんわりと雪久の手首を取った。真綿で包むように、柔らかく。
だが次の瞬間、五指に力を加え、雪久の手首を締め上げた。強く握りこみ、雪久の細い骨格が軋むほどに。省吾の爪が、雪久の肌に食い込んだ。
「あいつを守るべきは誰だ? 舞はお前の女なんだろう、なのに俺を責めるのは違うんじゃねえのか? なあ、『千里眼』よ」
低く唸り、省吾はいった。
「あいつが何故、お前から離れてこんな所に住んでいるのか、考えた事あるのか。お前の支配を逃れたいからじゃないのか。お前はあいつを守った事などない、ただあいつを傍に置きたいだけなんじゃないのか」
舞が吐露した、雪久への思い。『招寧路』からの帰り道で、こぼした言葉。
――あの人は勝手だから。
「お前は少しでも、他人の事考えたことあんのかよ!」
一気にまくし立てた。その場にいた者全てが言葉を失い、凍りついていた。ただ省吾の荒い息遣いが、響いていた。
「離しなよ、『疵面』」
ぞっとするほど低く、雪久は告げた。間延びするほどゆったりとした口調で、胸倉を掴まれているにも関わらず、余裕を見せつけるようにリラックスしていた。それが剣呑な雰囲気を、醸し出す。
「あんまり怒らせんなよ、俺を。血、見るぜ」
「そうかい?」
一触即発の空気が流れた。そこへ、ユジンが割って入った。
「二人ともやめて。今、そんなことをしている場合じゃないでしょう」
そこで省吾は、手を離した。
「もういい、貴様なんぞ当てにはしない」
省吾が踵を返すのへ、ユジンが訊いた。
「どこへ?」
「決まっている、《放棄地区》だ」
「何を考えているの? 地元の人間じゃないあなたが入れるようなところじゃ――」
「だからって、指くわえて見ているってのか。ご立派だな」
ユジンが言い返すのも聞かず、省吾は部屋を飛び出した。
「部外者なのに、何でもかんでも首突っ込みたがるに……」
という雪久の声が、最後に耳に残った。