第十章:9
追って連絡する、と金は舞に携帯端末を渡した。こいつはあんたと俺とのホットラインだ、これを使って挙兵するときには報せろ、と金はいった。
階段を昇って、再び地上へと出ると、通りは既に人も無く、街は寝静まっていた。気づけば時刻は、深夜3時を回ろうとしていた。
「そんなに長い事いたのかね」
などといって、舞の方を見やる。
舞が、いきなり崩れ落ちた。
「どうした」
と訊くに、顔を覗きこむ。絶句した。舞の顔は青ざめていて、うなじから首筋にかけて汗に濡れている。恐怖が、いまさら襲ってきたようだった。全身を震わせて、いる。
「す、すみませ……ちょっと、力が……」
細い声で、やっとそれだけいった。顔は凍えたみたいに引きつって、目の焦点があっていない。舞はしゃがみこんだまま、省吾にしがみついてくる。震えが、伝わってきた。
「ずっと気を張っていたのか」
省吾は舞の細い肩を抱いた。華奢な骨格は、紛れもなく少女だった。先ほどまでの、凛とした佇まいは消え、怯えの色を露にしている。それは初めて会ったときに見せた、素の顔だった。
このままでは立てそうもないので、省吾は舞に背中を向けた。
「移動するぞ、ここじゃさすがに、な」
省吾がいうに、舞は一瞬躊躇したが、すぐに省吾の背中に身を預けた。
背中越しに、舞の体温を感じ取る。柔らかいものが当たっているような気がしたが、意識を飛ばしてそれを自覚しないようにした。これは緊急避難であって、決して、やましいことなど、ない。
ない、はずだ……と言い聞かせる。
『招寧路』を離れ、第2ブロックまで歩いた。昔の駅かなにかの跡に着くと、舞を下ろした。途中で買った缶入り飲料を渡してやると、舞はおずおずと口に含んだ。そこでようやく、落ち着いたようだった。
「怖いんなら、こんなことしなきゃいいのに」
省吾は隣に腰掛けて、缶に口付けた。中身は緑茶だったが、どことなく化学物質の匂いがした。はっきりいって、不味い。一口飲んだだけで、省吾は缶を置いた。
「すみません、取り乱してしまって」
「いや……無理もない。というか、あんなこと並大抵の奴には出来ねえよ」
「恐れ入ります」
そこでようやく、舞は笑った。まだ固さの残る笑みではあったが。
「どこであんな話術、覚えたんだ。それと、あの度胸」
「以前、『BLUE PANTHER』の売春窟にいた頃。あそこで相手をしていると、自然と世の中の仕組みが分かってくるんです。それに、お客の殆どはギャングとか、そういう人、でしたから」
「客、って……」
いいかけて、止めた。舞が売春宿に繋がれていたこと、省吾も知らないわけではなかった。
そこで何があって、何をされたか、とか。考えるまでもなかった。
「すまない」
「何で謝るんですか?」
くすりと笑って、また缶に口を付けた。大分、落ち着いたようだった。
「あそこでのこと、つらい思いもしましたが、でもそれは私だけじゃない。皆、この街に生きる人は同じ思いを抱えているんですから」
「や、でも……」
男である自分には、計り知れないことだった。暗いところに押しやられて、無理やりに従わせられ、刻み付けられたその痛み。多分、省吾の想像など遥かに超えるものだろう。舞はこうして、目の前で笑っているが、それとて虚勢を張っているに違いない。無理やりにつくったような、笑顔が痛々しかった。
それなのに、こいつは……
「あんなこと、普通は出来ない。自分を売るようなこと、例えポーズだとしても」
「ポーズじゃありませんよ」
舞はそういって、
「もし、雪久が彼らを裏切ることがあれば、私は彼らに殺される。それはもう、覚悟の上です」
「まさか」
「本気、ですよ」
そういう舞の瞳は、揺らいでいない。
「雪久はそれを?」
「最初に、『STHINGER』と交渉して来いとは言われました。でも、まさか私が人身御供になっているなんて思いもよらないでしょうね。私の独断ですよ。きっと怒るでしょうね、雪久」
内緒ですよ――そういう舞の顔を、省吾はまともに見れそうもなかった。薄い肩、細い顎、ガラスみたいな透き通る肌、その全て――目の前にいる少女は、こんなにも壊れやすく、儚い輪郭を描いているのに。その少女が、自らの意思で自分を売ろうとしている。
「何でそこまで、するんだよ」
詰まるような思いで、省吾は吐き捨てた。
「雪久のためか? あいつが『皇帝』になるため? お前がそこまでする必要があるのか。あいつもあいつだ、自分の女を敵地に送り込むなんて。そのせいでお前が――」
「そういうのじゃないです。私と雪久は」
舞がいうのに、省吾は顔を上げた。
「皆、誤解しているみたいですけど……雪久がそういってるだけで、私は、特別な感情を抱いているわけじゃないんです。あの人は勝手だから……昔から」
そう呟くと、舞は空中に視線を巡らせた。気づけば空が白んでいる。舞は嘆息しつつ、
「昔から、私のことなんかどうでもいいんです、あの人。あの人が見ているのは、常に高み。けどそれって、自分の周りには目が行かないってことと同じ事でしょう? 私や兄さんを救い出したのも、情とかそういうものじゃなくて……」
そこで舞は黙った。
省吾はヨシの言葉を思い出していた。力のない人間は、力のある奴に付き従うより他ない。だが、それはすなわち自分の意思では何も決める事ができないということだ。そういう人間のこと、雪久は少しでも考えていたりするのだろうか。
多分、否だ。その証拠に、負わせている。この娘に、重荷を。
「ならば、尚更。尚更、お前がそんなことする、必要はないだろうに」
省吾がいうに、舞は俯きながら、言葉を選ぶようにいった。
「こうすることでしか、私は戦えないから。私の武器は、これしかないんです。だから」
舞はしかし、それ以上いうことは無かった。立ち上がり、そして
「いずれ、分かります」
わざと、明るくいった。省吾はいいようのないわだかまりを、抱えていた。怒りなのか、それとも嘆きなのか。感情が燻って、内側に澱となって溜まる。どこにこの思いをぶつければいいのかも分からない。雪久か、それとも自分にか。
舞が、振向いた。
「真田さん」
今度ははっきりとした声で。省吾の正面に立ち、しっかりと見据えてくる。「あなたに、協力して欲しいことがあります」
夕暮れであった。
その日、《西辺》に集結した兵力は、軍でいえば一個中隊に相当する数だった。
ヒューイ・ブラッドの差し向けた私兵が100余名、指揮を執るのはかつて『黄龍』の幹部であった、劉猛憲だ。
後衛には和馬雪久率いる『OROCHI』の実行部隊。ヒューイの支援により、大小の銃火器で武装している。殆どが銃など撃った事がないものばかりであったので、やや不安を覚えたが
「なんとかなる」
という、雪久の楽観主義で実戦投入された。
《西辺》第1ブロックにある廃墟群の一角、彼らはいた。
旧市街の残骸ばかりが点在するここは、戦後の再開発においてもあまり効果が得られず、放置された場所だ。もともとは住宅街だったらしい。《西辺》のギャングどもからも見向きもされない土地であったが、1年前からレイチェル・リー主導による区画整備が行われていた。住環境の改善のため、色街につぎ込む金を削ってまで廃墟を共同住宅に改築し、低所得層の住居を確保した。そのため、この地区でのレイチェルの評判は良い。住民達はレイチェルを匿い、抵抗の姿勢を見せている。
二重三重に、ビルを取り囲む軍勢。スパス・ショットガンを担いで、雪久が劉に訊いた。さも気だるそうに。
「で、どうやって攻略するんだ」
雪久はショットガンの他に、複数の武器を身に着けていた。腰のベルトには、拳銃やナイフや、特殊警棒まで巻きつけている。
「住民達、なかなかしつこいぜ」
「それを今考えている」
劉がいった時、銃声が轟いて、ビルの屋上から人が落ちた。レイチェルを支持する難民達が、ビルの各階層に陣取って侵入を阻んでいる。彼らの武装自体は対した事はないが、なにせレイチェルを心酔して、命すら投げ出さんという連中だ。だが
「難民の抵抗なぞ、たかが知れている」
共同住宅の一つを囲み、劉がいった。こいつだって“難民”であっただろうに、などと彰は思いながらビルを臨んだ。バンの車体に体を預けて照準をつけてみる。コルトガバメント、大分手に馴染んできた。
武装はこちらが上回っている。しかし、地の利は明らかに向こうに分がある。彼らは建物の構造や地形の起伏まで熟知しているのだ。そういう相手は厄介だ、と雪久も彰も知っている。自分達がそういう立場にあったのだから。だからこそ、ヒューイは自分達を引き入れたのだろうか。
「さっさと踏み込んで、ケリをつける」
劉はいきり立っていた。レイチェルの首を獲れば、幹部として徴用されるらしい。雪久はそんな劉に対して、冷ややかだ。
「本気で言ってるんか、あんた。あいつの何を見てきたんだか」
雪久が呆れ顔でいった。
「お前ら幹部連中だって、傍にいながらあいつのことまともに見ていたわけじゃあるまい。あの女が何を思って、何を目指していたのか」
「そういうお前は、何を知っている」
「お前らよりは、な」
銃声が響いたのに、各自一斉にそちらの方角を見る。また誰か、撃たれて地面に叩きつけられた。
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らん」
唐突に、雪久がいった。劉が怪訝そうに
「何だ、それ」
「知らねえのか、支那人のくせに。小さな鳥には大きな鳥の志など分からない、貴様らみたいな小物にゃ、あいつのことを計り知るなんざ不可能だったということだ」
劉は、ひどい侮辱を受けたという顔をしていた。今にも雪久に食って掛かりそうな、剣呑な空気を醸している。
煽ってどうするんだよと、彰は内心冷や冷やしていた。劉はしかし、それ以上何かをいうことは無かった。
既に、3時間は経過していた。
「動かねえな」
雪久がのんびりとした口調でいった。
「あんな所じゃ、籠城も出来まいて。しかし、ボヤボヤしていると兵どもの士気が下がるぜ。にわか仕込みの雑兵ごときじゃ」
「言われんでも」
劉はそういってバンに近づき、
「少々、手荒だが」
乱暴にバンのドアを開けた。すると中から巨体が転がり落ちてきた。その人物を見て、彰は驚いた。
「鉄鬼さん?」
縛られて猿ぐつわを噛まされた鉄鬼であった。散々殴られて、ボロボロの状態だ。内出血を起こした皮膚が、紫に変色して腫れていた。
「こいつには、少し役立ってもらうか」
自分よりもはるかに上の立場だった鉄鬼を
「こいつ」呼ばわりして、劉は鉄鬼の腹を蹴った。呻き声が、洩れる。
「な、何をするっていうんだ」
「こういうことは、俺の専門でね」
劉がほくそ笑むと、雑兵の一人を呼びつけた。
「あの女に、一人で出てくるように伝えろ。部下が公開処刑にされるのが、嫌なら、とな」 投降しろ、ではなく一人で出て来い――か。兵の前に引きずり出して、レイチェルを殺すのが目的らしい。《西辺》の住民達が見ている前で。そうすることで、『黄龍』は名実共にヒューイ・ブラッドのものとなったことを、アピールしたいのだろう。
下種な趣味を――しかし、それをいうなら自分たちも同様か。
「雪久」
彰は劉に聞こえないように、声のトーンを落とした。
「向こうは守備良くいってるの?」「心配ない。決着はついた」
「ならいいけど……どうすんのさ、あれ」
と彰は鉄鬼を顎でしゃくった。
「鉄鬼さんがあんなになってるなんて……計画に狂いが生じることは」
「そこはうまくやれ。後ろに控えている連中だって木偶じゃねえんだから……っと、おいでなすった」
雪久の言葉に、彰はビルの方を見やる。
レイチェルが単身、ビルから出てきたのを認めた。いつものスーツ姿ではなく、警察の特殊部隊が着るようなジャケットを身につけている。
本当に、こんな形で現れるとは思ってもいなかった。堂々と銃口の前に身を晒すとは。だが、良く見るとレイチェルの立っている場所は間合いの外、ライフルの有効射程ギリギリの位置である。確かにこの距離なら、撃っても当たることはない。
「は、余裕こいてまあ」
雪久は、興奮を隠しきれない声でいった。「何で、出てくるんだ? 狙い撃ちにされるって分かっているのに」
「根っこの部分が甘いっていったろ、あの女。部下も住民も死なせない、っていうあのスタンス。理解に苦しむぜ」
「けど、その甘さに助けられたんだろう。お前も」
彰がいうに、雪久は軽く睨んできた。まだ“Xanadu”の一件、引きずっているようだ。
ふと、鉄鬼が唸りながら首をもたげた。
「気ぃついたかい、おい」 雪久は地面に伏した鉄鬼に話しかける。鉄鬼は雪久を見上げて何かをいったが、猿ぐつわが邪魔して獣みたいな唸り声しか出ない。雪久は猿ぐつわを、外してやった。
「この、恩知らず」
第一声、鉄鬼が毒づいた。
「ガキ共が、受けた恩を仇で返すつもりか。ヒューイなんぞと組みやがって」
「んー、何語でしゃべってんだこのおっさんは。この時勢にあって、随分甘い事を」
しゃがみこんでいった。
「そこで見てなよ、おっさん。面白いモンが見れるぜ」
そういう雪久は、何となく愉快そうな顔をしていた。鉄鬼にはそれが、自分に対する侮辱だと感じたのだろう。歯軋りして、あからさまに敵意をぶつけている。しかし、彰には分かっている。雪久は、これから始まることが楽しみで仕方ないのだ。肩にショットガンを担いで、雪久は
「じゃ、行ってくら」
緊張感の無い声でいって、向かった。その背中を、鉄鬼が恨めしそうに見ていた。「鉄鬼さん」
彰は声を潜めて、鉄鬼に話しかけた。
「貴様ら……」
「お叱りは後で受けます。今は、俺の話を聞いてください」
彰がいうに、鉄鬼は益々目つきを鋭くして
「何が話だ、これだから小日本人は」
「話を」
彰はさらに、声を潜めた。
「今は耐えてください。あともうしばらくすれば、あなたもレイチェル大人も、解放されます」 最後の一言に鉄鬼は不思議がって
「それはどういう意味で……」
その時。
雑兵が、騒ぐのを聞いた。