第十章:6
共同住宅に帰った直後、省吾の携帯端末が鳴った。
『どうして出ない』
と、合成された機械音声がした。専用回線で、傍受がされないという衛星電話だが、今の所メモリにはあいつ――ハンドラーの番号しか入っていない。多分、これから先も追加されることはないだろう。
それで、現在こうして電話をかけられているわけである、のだが。
『最近、勝手な行動が多いぞ。私は『黄龍』に潜りこめといったはずなのに』
「や、それは……」
必死に言い訳を搾り出そうと、しばし思考を巡らせた。が、ハンドラーは「まあいい」といって
『結果的に、『黄龍』には潜らずに良かったのかもしれないからな。レイチェル・リーが立場を追われて、《西辺》は紛争状態になりつつある』
「ああ、そう」
脳裏に、レイチェルの顔が浮かんだ。《西辺》に敵はいないと思っていたら、獅子身中の虫にやられたということか。
マットレスに寝転がると、飛び出たスプリングが背中を刺した。忌々しさに舌打ちして、
「どうしてまた、裏切りなんかに。あの女、足元をすくわれるようには見えなかったが」
『その一件にも、例の奴らが絡んでいる可能性がある』
「どういうことだ?」
そのとき、部屋の扉をノックする音がした。
「また、あとで」
省吾はいって、電話を切った。
誰だろうか。省吾は時計に目を落とした。もう、23時になろうとしている。こんな時間に訪ねるやつなんか……
(刺客、なわけねえよな)
そうは思うが、油断はできない。省吾はナイフを逆手に持った。少し大げさかと思ったが、警戒に越した事はない。つい先日も、上の階に住んでいた男が銃撃されたばかりだ。撃ったのはギャングだが、男とは直接の繋がりはない。始末を依頼されてのことだったらしい。そういうことがあるから、油断できない。ゆっくりと、ドアに近づいた。
壁に背をつける。
勢い良く、開けた。
「きゃっ」
小さく、悲鳴が聞こえた。ドアの向こうにいたのは、押し入りでも武装したギャングでもなかった。小柄な影。
「えっと、お前は……」
「あ、どうも」
いそいそと立ち上がる――宮元舞の姿が、あった。
「何、しに来たんだ?」
と省吾が問うのにも答えず
「今、誰と話していたのですか? 裏切りがどうとか」
「て、てめえにゃ関係ねえだろっ」
まさか聞かれていたとは。不覚だった。もっとも、話の内容までは分かるまいが。
舞は特に気にも止めることはなかった。
「で、何の用だ」
強い調子でいったものの、やはり顔をあわせ辛い。つい数時間前、あんな形で対面したばかりだから。しかし舞は、そんなことなど忘れているかのように
「その前に、ナイフ仕舞って頂けませんか」
省吾の手にあるナイフを指して、いった。
「ん、ああ」
いわれて省吾は、ナイフを鞘に収めた。舞は、妙に落ち着き払っている。逆に、動揺している自分が馬鹿らしくなってくるほどに。と、舞は
「真田さん」
向き直った。頭一つ分下から、舞が見上げてくる。真っ直ぐに、逸らさずに。瞳は、吸い込まれそうなほどの透明度を誇っている。茶色かかった眼は、どうしてか見つめられるとひどく居心地悪く感じた。この街のギャング達の目は、威嚇、敵対、そういう負の感情が満ちているものだ。彰やユジンみたいな人間にだって、この街に生きる者ならば少なからずある。そういう輩に対する法は心得ている。
だが、舞の眼はそれとは全くの逆――無垢だったり、無邪気だったり。眼の中にある光は、そんな言葉が相応しかった。まるでこの街の空気に似合わない、色をしている。そういう人間に対して、どう接すればいいのか省吾は分からない。
濁らない、透明な瞳。
思わず、目を背けた。
「や、昼間のことは……」
「そんなことじゃないんです。ちょっと、付き合ってもらいたいところがあるのです」
「え」
省吾か訊き返すと、舞は今度はゆっくりと
「これから、一緒に来てもらいたいのです。ある場所まで」
「何で俺が」
「いけませんか?」
有無を言わさぬ口調だった。異論は認めない、と言外にいっているようで。知らず、省吾は頷いていた。まるで自分の意思ではなく、勝手に首が動いたかのような錯覚を覚える。舞はにっこりと笑って
「良かった。それでは、直ぐに出かけますので」
いうと、踵を返してさっさと行ってしまう。慌てて省吾は後を追った。
(何だかなあ)
今の舞には、昼間見たような、泣きじゃくる子供の姿は見受けられなかった。また数日前にここに訪れたときのような、おどおどとした振る舞いでもない。
ふと、脳裏にあの武器屋での、象棋を打っていたときの姿が、重なった。あのときの舞は、毅然として、揺るがない。高貴さすら漂う――そんな感じだった。
それにしても、あまりにギャップが激しい。
(あいつ、多重人格とかそういうのじゃ……ないよな)
そんなことを思っていると、舞の右手に棒状の物が握られているのを確認した。紫色の布に包まれたそれは、長さは三尺ほどあるだろうか。湾曲した形、布の下にあるものは容易に想像できた。
(刀?)
まさしく、それは刀の形をしている。柳葉刀にしては細すぎ、長脇差にしては尺が長い。
「おい、それって」
省吾がいうのを遮って、舞は
「こっちです」
それきり口をつぐんだ。それ以上、いうことは許さない、といったように。
《南辺》の第1ブロックに、足を踏み入れる。労働者がたむろする、『招寧路』だ。襤褸を纏った難民達が行き来する中、日本人の小娘はあまりに目立つ。事実、道行く者皆がじろじろと舞を見ていた。省吾も見られたが、省吾に向けられた視線は怖れとか慄きとか、そういう類のものだ。『疵面の剣客』の名は、《南辺》では知らぬものはいない。しかし舞に込められたものは、もっと低俗なものだ。細くしなやかな腰や薄い肩、白い首筋にばかり、視線が注がれている。どいつもこいつも、下世話な想像しかしていないらしい。省吾は睨みを利かせた。
「ダメですよ、そんなに恐い顔してたら」
さっきから好奇の視線に晒されているにも関わらず、舞は涼しい顔をしていた。見られることに慣れている、かのようだった。
「お前は平気なんかよ」
「今から出向くところを考えれば、見られることなんて。気にはなりません」
舞は前を向いたまま、きっぱりといった。
「どこに出向くってんだ」
後を追いながら、省吾が問う。
「おそらくは、《南辺》でも『OROCHI』に次ぐ戦力。『黄龍』の、もうひとつの標的……」
つと、舞が足を止めた。どこにでもある酒場、労働者たちの喧騒が飛び交っている。マリファナの煙が香って、アルコールが鼻を衝く。
「そして、『OROCHI』にとっても厄介な“敵”」
入り口に立っている、紺色のパーカーに気づいた。まさか、と省吾は唾を飲み込んだ。
「ここに、『STHINGER』の人たちが待っています」
『STHINGER』だって? 何故そんなところに。紺色パーカーが近づいて、舞に何やら話しかけた。朝鮮語でボソボソと話して、やがてパーカーの男が
「ついてこい」
と広東語でいって、店の奥を親指で指し示した。男はカウンターの内側に、店主の了解無しにずんずん行ってしまう。舞は何の疑問も持っていないように、後を追った。
省吾が呼び止める。
「待て待て、本当にこんな所に『STHINGER』が?」
「本人がここを指定したのです」
「本人て」
「金大人が。雪久が連絡したところ、ここに行けといわれたそうです」
なら雪久が行けばいいものを。どうしてこいつに。そんな疑問を抱かせる暇もなく、舞はさっさと行ってしまう。
「待てったら、状況が飲み込めないぞ。なんで雪久が金に接触するんだよ」
「勝つためです」
「誰に」
「無論、『黄龍』にです」
それが何故、『STHINGER』なぞと接触することに繋がるのか。そう訊こうとするが、パーカーの男が立ち止まったのを受けて黙った。気づけば店の喧騒とはかけ離れた、かなり奥まったところにいた。コンクリートの通路の脇に、ゴミやガラクタが積まれている。物置か何かのようだ。こんな所に連れて来て……そう思っていると、男は壁の一部に手を置いた。と、壁が割れて人一人通れるくらいの空洞が開いた。
隠し扉だった。そこだけぽっかりと闇が口を開けたようだった。良く見ると階段が、ずっと下の方まで続いている。どいつもこいつも、地下が大好きだ、この街の奴ら。
「来い」
と一言、男が告げる。一瞬、躊躇われたが、舞が臆面もなく踏み込むのに
(ここで退いたら――)
恥だ。そう思っている、自分自身にも驚く。体面を気にするなんて、こんな街で。誰に対して恥じているというのではなく、ただそうしないことが非常に不名誉であり、自分の中の理性というか、そういう内面が許さない気がした。普段なら、理性やら体裁よりも、如何にして危険を避けるか。そればかり考えている。そして、生き延びるためにはそれが一番正しい。そのはずなのに。
――臆病者
雪久の声が蘇った。舐めるなよ、と己の中の声がいう。省吾は一歩、踏み出した。