第十章:4
騒がしい、夜だった。
《西辺》のネオン街が映し出す、幻惑めいた紫と、ピンク色に映える夜を窓の外に臨み、レイチェル・リーはマホガニーのデスクに向かっていた。
洋紙皮にペンを走らせる、アラビア語だ。ムスリムの裏商人たちとの取り引きが、迫っている。『OROCHI』、『STHINGER』と頭数は無いにせよ、厄介な相手に違いなかった。下手をすると持久戦になりかねない。そうなった場合、果たして今あるだけの武器で足りるかどうか……
補給は、命だ。
戦争の素人は、まず戦術を語る。それは時に、精神主義にも陥ってしまう。だが、レイチェルのような本物の戦場を知るものは、まずは如何にして補給路を確保するかを考えるものなのだ。弾薬、食糧、飲料水、それらを断たれて自滅した軍の話は多い。まして、《南辺》は敵地だ。『黄龍』が、今まで『マフィア』の目を盗んで築き上げてきた補給路を、《南辺》でも生かせるようにするには――だが、補給が全く無いという状況も想定しなければいけないのも確かだ。幹部連中も、補給は絶対に「ある」と思いこんでいるから性質が悪い。文明に慣れきったせいか、だから小手先の戦術しか考えぬ輩が増えた。だから、むざむざやられるのだ。雪久たちは、補給など殆ど得られない環境で戦ってきた。そういう連中と、腑抜けた幹部連中ではどちらが精神が強いか。
そこまで思って、自分の考えを笑う。なんだか、レイチェル自身も精神主義に陥っているようで、そんな自分が滑稽だった。敵と定めた雪久を、どこか贔屓目で見てしまうのはなぜだろうか。
ドアの外で、なにやらわめいている声がした。静かにしろ、煩いだろう――喉まででかかった言葉を、次の瞬間、呑み込んだ。
ドアが乱暴に開かれて、黒服5人に続いて、ヒューイと、もう1人――白い衣に身を包んだ男が、現れた。見ない顔だ。
「どうしたんだ、ヒューイ。何を騒いでいる」
言いながらレイチェルは、場の変化を敏感に感じ取っていた。何故だろうか、ヒューイが入ってくると空気が張り詰めて、冷たい感じになったのだ。ヒューイと、黒服たちが粒子の層を纏い、その粒子ひとつひとつに質量があるような感覚。そして、一番後ろに控えている、白い衣の男からは特に、凍りつくような気を感じる。氷がそのまま、具現化したような男だ、とすら思った。
さりげなく、引き出しに手を伸ばした。
「『OROCHI』の連中は、今日は大人しいかい? ボス」
「奴らも人間だからな、そう毎日暴れ回ったりはできないだろう」
「じゃ、あんた退屈してんだ。今」
いうと、ヒューイは黒服たちに目配せをした。男たちは頷くと、散開し、そして
「退屈なら遊んでやるよ、なあボス」
レイチェルに、銃を突きつけた。
「これはどういうことだ」
「見れば分かるだろう、ボス」
「だな……」
ヒューイの後ろで、頭から血を流して倒れている護衛の姿を認めた。確か、フィリピン武術の心得があったとかいっていた気がするが、それにしても銃声が無かったということは……
「動くなよ、あと、怪しげな動きしている左手、とりあえず机の上に出せ」
といって、あごでしゃくった。どうやら、そこに護身用の銃があることを知っているようだった。レイチェルは左手を出し――
「大馬鹿ものが」
急に、動いた。
右手にもっていた万年筆を、一番近くの男に投げつけた。先端が眼球を貫き、続いて発砲音がした。痛みと連動して、反射的に撃ったのだ。だが銃口の先にレイチェルの姿はなく、背後のガラスを撃ち抜いた。
ヒールを脱いで、別の男の懐に飛び込んだ。膝と股関節を緩め、体重移動のみで移動する。瞬間に間合いを詰めた
狼狽する男の手首を真鍮の煙管で叩き、銃を落とした。骨が折れる音を聞き、男を盾にする。袖に仕込んだ匕首を首につけ、盾にした。
ヒューイが撃て、と命じるに黒服たちが一斉に撃った。味方であっても関係ないらしい、男の体に銃弾が突き立つたびに、腕の中で痙攣したように暴れた。レイチェル自身も、腕と肩に被弾した。
「ボス」
という声がして、同時に黒い、巨大な塊が割り込んできた。
「鉄鬼」
レイチェルがいうと、黒服2人が振り返った。
その首を、鉄鬼が掴んだ。鉄鬼の太い腕が、黒服2人を同時に締め上げ、そして持ち上げた。黒服は泡を吹いて、そして
砕ける異音と共に、2人の首がへし折られた。握りつぶされた、とした方が正確か。鉄鬼の凄まじいまでの握力が、まるで卵でも潰すかのように頚骨を握り砕いた。男たちは血の泡を吹き、白目を剥いて絶命した。
「さすが、横綱」
ヒューイが軽く、口笛を吹いた。鉄鬼は腰を落とし、身構えた。
「血迷ったか、ヒューイ。『千里眼』に情報流していたのも、貴様の仕業か」
「もう少し、早く気づかれるかと思ったがな。いつの世も、チャイニーズの目は節穴だ」
ヒューイが一歩、退いた。代わりに、鉄鬼の目の前に白い功夫着の男が歩み出る。刈り上げた髪、浅黒い顔に鉄面皮を貼り付けて。
「孔翔虎、相手してやれ」
孔翔虎なる男は軽く頷いて、体を斜に構えた。右足を前に踏み、膝を曲げた。
鉄鬼が先に仕掛けた。体を低くし、タックルを繰り出した。翔虎の腰に食らいつく、が
「それで?」
ヒューイが笑い、レイチェルと鉄鬼の顔が凍りついた。100キロ超の体重がぶつかっても、当の孔翔虎は無表情で、なんでもないように立っていた。
「馬鹿な」
鉄鬼が呻くと同時に、孔翔虎が鉄鬼の首根っこを掴んだ。体を捩って、なんと軽々と鉄鬼の体を振り回し、投げ飛ばしたのだ。
鉄鬼の巨体が、机に叩きつけられた。
「このっ」
素早く立ち上がり、鉄鬼は再び、孔翔虎に掴みかかった。
鉄鬼、右の張り手を打った。
孔翔虎はその張り手を軽くいなした。右手で張り手を弾き、その右手で裏拳を繰り出した。鉄鬼の顔を弾き、よろめいた。が、鉄鬼はひるまず、左で手刀を打った。
孔翔虎の腕が揺らいだ。手刀を、掌を返して受け流し、その手を折りたたんで、肘打ち。鉄鬼の水月を、深く抉った。
血の混じった唾液を吐き、鉄鬼が膝をついた。よほど、強烈だったらしい。そこに、孔翔虎の前蹴りが炸裂する。両手で受けきるも、衝撃までは殺すことができず、鉄鬼は再び飛ばされた。
八極拳か。この男、かなりの遣い手だ。鉄鬼を吹き飛ばすなぞ、なんという勁力か。
「お逃げ下さい、ここは私が……」
鉄鬼が立ち上がりながら、いった。その目は本気だった。本気で、自分を逃がそうとして、そのために自分が礎になる。そういう覚悟が、伺える。その意気を、無駄にするわけには行かない。
「頼んだ」
レイチェルが走ると同時に、鉄鬼が飛び込んだ。レイチェルは振向かなかった。背後で、骨を突き破る衝動と呻き声が聞こえた。
部屋を飛び出ると、廊下の向こうから銃声が響いた。何人か、取り囲んでいるようだ。どれほどの人間が、ヒューイについたのだろうか。
「こっちへ」
と声がした。扈蝶が廊下の隠し扉を開けて控えている。さすがに、あの派手なチャイナドレスは着ていない。黒い生地に金色のラインが入ったカンフースーツだ。レイチェルは素早く通路に飛び込んだ。扉を閉めると、9ミリ弾が着弾した。
「何人だ」
レイチェルが訊いた。裏切った人数は、ということだ。短い言葉でも、2人の間では意思の疎通が図られる。
「この本部全体で、すでに100人ほど」
と、短くいう。
2人は通路を走った。むき出しの配管から、排熱を感じる。
銃声がしたが、この通路にいる限りは安全だ。なにせチタンの天板に守られている。この通路は、レイチェルと扈蝶以外は知らない。通路の先に、地下へと伸びるポールがある。そこまで辿りつければ――
「扈蝶……」
その時だった。
目の前の天井から異音がした。金属が擦れ合って、配管が砕け散る。先行する扈蝶が足を止めた。
壊れた破片とともに、小柄な影が降りてきた。
「何者っ」
扈蝶は飛びすさび、レイチェルを庇うようにして立った。腰のサーベルを抜き、身構える。降り立ったのは少女だった。孔翔虎と同じように、真っ白い功夫着に身を包んでいる。腰には剣を下げていた。
「ヒューイが手ごわいっていうから、どんなのかと思ったけど……」
少女が口を開いた。幼い相貌、幼い声。瓜実顔の、まだ14,5歳の子供に見えた。
だが、その目は。
「何か、全然大したこと、無さそうじゃん。期待して損した」
目は、あどけない瞳の奥に、鋭い光を宿している。瞬時に察知した。あの目は、慣れている目だ。
「あんた、どうやって入り込んだ、ここに」
扈蝶も気づいているようだった。ただものではない、ということを。少女はポニーテールにまとめた自身の髪を撫でつけながら
「哥哥も何手こずってんのやら……ま、あたしの獲物が増えるのはいいことだけどね」
言って、少女は腰の剣を抜いた。柄に剣穂と呼ばれる房がついている。剣の長さと同じ位の穂がついているので、よくこのタイプの剣は「長穂剣」と称される。
「姐さん、ここは……」
「しかし」
少女が構えるのに、瞬時に、見抜いた。この娘も、相当な手練れに相違ない。剣は、ブレずに、ぴたりと扈蝶の喉を狙っていた。
少女が飛び込んだ。刺剣、真っ直ぐに伸びる。扈蝶は右のサーベルを横に薙ぎ、切っ先を逸らした。すかさず、左のサーベルで少女の首を刈る。少女は身を逸らしてそれを避けた。
扈蝶、追う。斜めに斬りつけた。少女は剣を戻し、サーベルを跳ね上げた。二連続、左右のサーベルが等しく、弾き飛ばされた。がらあきの扈蝶の胸に、少女はさらに突きを放った。
体を横にして、刺突から逃れる。扈蝶の胸元の衣服が横に避け、胸元が露になった。たちまち、扈蝶は羞恥で顔を赤くした。
「なあに、この程度で。初心ねえ」
少女が挑発するように猫なで声を――その声も、やけに艶めいて聞こえた。扈蝶は胸を隠しつつ、一度距離を取った。
少女が剣穂を掴み、振り回した。遠心力で勢いをつけ、剣を放った。
これには扈蝶も予想していなかったと見える。明らかに、動揺していた。避けるか叩き落とすか。刹那の間に選択しが2つ浮かび、その選択肢が行動を制限した。
扈蝶の肩に剣が突き立った。
「ああっ」
扈蝶が肩を押さえてうずくまった。少女は剣を戻し、柄を握りなおして扈蝶に迫る。
「借りるぞ」
レイチェルはそう言って、扈蝶のサーベルを取った。長穂剣の切っ先が扈蝶を貫くよりも先に、サーベルが剣先を弾いた。
弾いた瞬間、掌が痺れた。体格に似合わず、少女の打ち込みは鋭い。
少女は一度退き、再び突いた。レイチェルはサーベルを、体の前にあわせた。剣が迫る、その瞬間。拳を突き出した。
長穂剣の刺突を、レイチェルは刀身ではなく、サーベルの護拳で流した。少女が、驚いている。レイチェルは腰を落とし、呼吸を溜め、左掌を、突き出した。
体重と打撃力、それら全てを瞬時に掌に集めた。
寸勁。
少女の体が真後ろに飛んだ。が、そこで違和感を覚えた。それは少女の体に触れた瞬間のことだ。
(固い)
そして重い。
まるで大人の男のように固く、引き締まった体をしている。それはいい。だが飛ばしたときは明らかに違った。子供の体重とは思えない、手ごたえ。砂鉄入りのサンドバッグを殴ったような衝撃を、覚えた。
これではまるで――
「姐さん!」
扈蝶が言うのに、我に返った。こんなことをしている場合ではない。
「行くよ」
少女が起き上がらぬうちに、2人は踵を返して脱出路へと急いだ。
「やられてんなよ、孔飛慈」
と声がして、少女は振向いた。その先に、ヒューイがいた。
「結構やるよ、あの女。見た目だけじゃ分からないものだねえ」
孔飛慈はそう言って剣を収めた。
「まあ、昨日まではこの《西辺》に君臨していた女だし」
「昨日まで、ね」
ヒューイの言葉に、孔飛慈は皮肉っぽく
「お山の大将がそんなに好きかい?」
「口を慎め。貴様の雇い主は俺だ……孔翔虎」
ヒューイが振り返って呼んだ。と、壁の一部が衝撃と共に断ち割れた。白い衣を纏った男が、破壊された壁から出てくるに、
「哥哥」
孔飛慈が駆け寄った。
「奴らは」
と、孔翔虎が訊くのへ
「逃がしちまったよ。哥哥がアソんでるから」
「ああ、悪いな」
ぽん、と翔虎は飛慈の頭に手を置いてくしゃくしゃと撫でまわした。孔飛慈はくすぐったそうに身じろぎして
「そういや、あの男は?」
飛慈が訊くと、翔虎は自らの獲物を、指し示した。
鉄鬼は、孔飛慈に引きずられていた。顔面が腫れ上がっている。内出血で皮膚は紫に変色していた。両の手が折れており、左の肘が逆に曲げられて、骨が肉を突き破っていた。既に何十回と打ち込まれたか、それでも鉄鬼は生きている。
「こいつは、レイチェルをおびき出す餌となる」
ヒューイはおもむろに、携帯端末を取りだした。コールする。
「俺だ」
電話に出た人物に、手短に告げた。
「いよいよだ、覚悟はいいか」
『てめえに覚悟云々いわれる日が来ようとはな』
受話口から、声が洩れた。ヒューイは含むように笑って
「お前らは、恩とか義理とかにやたらうるさい民族だからな。昔の仲間、殺るのはつらかろうと思って」
『別に、仲間とかじゃねえさ』
そうか、とヒューイはいった。
「ならば、ヘマするなよ『千里眼』」
そういって、電話を切った。