第十章:1
身体の中に虫がいる――と思った。皮膚の下を、節足を這わせているような不快さを内包している。筋肉の痛みはきっと、虫どもが俺の肉を喰らっていやがるんだ――と燕は首筋に爪を突き立て、掻き毟った。それでも肌のささくれは収まらない。
渇きで切れた唇が、動いた。クソ野郎と。ただ萎縮した喉からは発声することはままならず、口からはひゅーひゅーと空気の洩れる音がした。満身創痍、おまけに連中に打ち込まれた妙な薬に蝕まれた体で、そんな状態で放逐されて。あそこで殺されていた方がマシだったかもしれない。ふらつきながら壁に体を預けて、靄がかかる視界で足元に目を落とす。鼠が一匹、死んでいた。俺もいつかこうなる、食い物がなくて飢えて死ぬか、あるいは中毒死かの違いだ。自分の未来を思い浮かべるに、そんな選択しかないことに絶望する。
どうして俺が――
胃が暴れだした。体の中の内臓や筋肉が、痙攣したように蠢いた。体の裏側が上へ上へと押し上げられて、胸から喉にかけて熱いものが昇ってくる。口中に酸の味が溜まってゆくのに、ついに吐き出した。茶色い唾液と粘着質の胃液が地面を打つ。靴にかかった。
薬がまだ残っている。『STHINGER』の連中に打たれた妙な薬。麻薬の類だったのだろうか、あれからひどい頭痛と幻覚に悩まされていた。あれを打たれて、気絶して。目を開ければ再び殴りつけられて薬を投与されて。そんなことを繰り返していたから、燕の体はもうボロボロだった。そんな状態のまま、全員の前で雪久に殴られた。見せしめと、あとは雪久自身の憂さ晴らしのためにオモチャにされたのだ。元「仲間」たちの視線が突き刺さることを恥とも感じられないほど、疲弊しきった体に鞭を打ち、限界以上に痛めつけられたまま追放された。いや、廃棄されたのだ。もういらないから、と。
畜生――
俺が何をした? 膝をついて地面に伏せるに、ドロドロした感情が蘇ってくる。
どうして、俺が。
初めは、雪久の志に共感してのことだった。自分の槍の腕を買われて、『OROCHI』に入った。しかし、段々と雪久の強引なやり方に疑問を感じるようになった。それでも、志を同じくする仲間だと信じていた。それなのに
駒に過ぎない。俺は――
仲間を仲間と思わない。自分のやり方に意を唱えたら排除する。所詮、あいつにとって「仲間」なんてこの程度だったのだ。一度目は彰の顔を立てて踏みとどまったが
二度目はねえぞ、クソ野郎――!
倒れ込み、砂を食むも、薄れる意識は感覚すら消し去ってゆく。そのため、燕の目の前に立った人物のことなど、認識しようもなかった。
「対象を発見しました」
とその人物が、携帯端末に向かって言った。若い女が、足元に転がる赤毛の少年を、冷めた目で見下ろしていた。金色の髪、サファイアブルーの瞳。体にフィットした紺色のスーツが、ボディラインを際立たせている。女が耳に当てている端末から声が洩れて、女は声の主に向かって相槌をうっていた。やがて
「了解」
流暢な英語で言うと、端末の通話ボタンを切った。懐からガン・タイプの注射器を取り出して、針を燕の首筋に刺す。中身は、緑色の溶液だった。トリガーを引くと溶液が押し出され、全て燕の体内へと注ぎ込まれた。無表情のまま、まるで最初からそうする事がプログラムされたように、機械じみた動きで女は一連の動作をこなした。
女は針を抜くと、建物の影に一瞥した。タクティカルスーツに身を包み、マスクとメットで顔を隠した人間が3人、わらわらと物影から姿を現してきた。顔の筋肉をぴくりともうごかさない女よりも、さらに無機質めいた黒尽くめ。色のあるものは、一つも身につけていない。女は燕を顎でしゃくって
「そいつを連れていって、あの男の元に」
そう言うと、3人は軽く頷いて燕の足と頭を持ち、簡易式の担架に乗せた。燕の呼吸を確認し、担架を担ぎ、建物の影に同化するように消えていった。
女はそれを確認すると、空を睨んだ。と、次の瞬間には高く跳躍して、舞い上がった。ビルの屋上へ降りたち、また跳躍。ビルからビルへと飛び移り、闇の中へ溶け込むように消えた。
このとき、偶然居合わせたチェイン・リューは、翌日から仲間内で「大法螺吹き」と呼ばれることになる。だって誰も信じない、人間が10数メートルもの高さを飛び超えるなど。不可能だ。
コーネル・ウォンにとってこれはチャンスだった。
故郷を飛び出して、もう10年にもなる。未だ、『黄龍』の中堅層で燻っている。彼にとって、この『OROCHI』討伐戦で奴の、『千里眼』の首を獲ることが出来れば、一気に名を売ることが出来る。そうすれば《西辺》における、自分の影響力も増す。密かな闘志に、燃えていた。
一気に潰す――だが、彼は組織内でも特に慎重なことで知られていた。一気に叩きたい、しかし急ぎすぎてもいけない。ゲリラというものは基本的に短期決戦を仕掛けてくる。『OROCHI』の連中も、数の不利を埋めるべく奇襲や闇討ちといった戦法が殆どだった。焦る事はない、物量ならこちらの方が勝っている。下手に向こうのペースにはまる事はない。慎重に、確実に獲物を追い詰める。それがコーネルのやり方だ――もっとも、慎重に過ぎるから成果を挙げられず、出世の機会を逃してきたとも言えるが。
ます彼は、敵の体力を削ることにした。体力とはすなわち、戦力。敵の本丸ではなく、外堀から潰してゆくことに徹する。コーネル・ウォンはいくつかチームを作った。市井に紛れて、『OROCHI』の人間を1人ずつ消してゆく。一見すると陰険なやり方だが、そうやってじわじわと追い詰めていく方が相手に対する精神的ダメージも大きい。
仕留めるならば、よりリスクが少なく、無駄の無い方法で。それがコーネルの信条だ。
コーネルはまず、部下に黒服を脱ぐように指示した。脱いで、難民達が身にまとうような麻の衣服に着替えさせた。木を隠すなら森の中、人を隠すなら難民の中。つまりは、そういうことだ。
拳銃を袖下に隠し、『OROCHI』のメンバーをつけ狙い、人混みの中で始末する。この街の連中は、街中で発砲があってもそうそう驚かないからな――レイチェルから配られた、『OROCHI』の連中の写真を、部下達に持たせた。5チームに分かれて、できれば1人の所を狙って、殺す。もし失敗したら、応戦せずそのまま撤退する。なにせ、銃が無い分、奴らの中には接近戦に長けた者が多くいる。そういった連中とやり合うのはまた厄介なものがあった。
100ドル紙幣を出して浮浪者から服を買い、イタリア製のスーツを脱ぎ捨てて黴臭い衣を纏った。顔を泥で汚し、整えた髪もぐしゃぐしゃとかき乱せばようやくそれらしくなった。ワルサーのコンシールド・キャリーガンをズボンに突っ込み、出陣。
標的は、『OROCHI』では戦闘の中核を担っている棍使いの朝鮮女だった。この女については、特に注意が必要だった。“Xanadu”の護衛についていた連中を、殆ど1人で蹴散らしてしまったというのだから、とにかく手ごわい。『千里眼』と違って特殊な能力などないが、銃に対する戦い方を心得ている。
この女――朴留陣には、2チームで当たることにした。
ポイントは《南辺》第2ブロックにある闇市、地上ではコーネルが率いるチームが八方
から狙い、周りの建物の屋上に狙撃チームを据える。中距離から長距離
(ロングレンジ)の攻撃、同時に狙い撃つ。
それで終りだ。
――これで、俺の株も上がる
そう、内心でほくそ笑んだ。
ユジンの姿を《南辺》の市で確認すると、コーネルたちはすぐに行動を開始した。群集に紛れて、コーネルはユジンの背後につける。数メートル離れて左右から近づくのは、マーカス・チャンとセルゲイ・ベノフだ。それぞれ消音装置つきの自動拳銃を、衣の下に隠している。少し離れた先のビル、その屋上には狙撃チームが控えている。土壁と同じ色のテープを巻きつけたロングバレルを突き出して、迷光を抑えたスコープを覗き込んでいるはずだ。狙撃ポイントに到達した瞬間、地上から20メートル上空に位置する狙撃ライフルが火を噴く。同時に、地上からはコーネルとマーカス、セルゲイが発砲する。都合、6発の 銃弾がユジンの体を貫く寸法だ。
ポイントまで、あと10メートル。ベレッタ拳銃を懐に握り締めて、ざらついたグリップの感触を確める。構えてから撃つまでの数瞬、もっとも隙が出来る。だから攻撃は時間差で行う。狙撃チームが撃ち、セルゲイが撃ち、マーカスが撃った後、最後にコーネルが撃つ、という順番で行う。四方八方から飛来する弾に貫かれ、肉塊同然になった女に止めを刺す。端整な顔立ちが一瞬にして崩れる、その様を想像する。悪くない。コーネルが撃つことで、美しかった器が壊れる。殺しを娯楽にする連中の気持ちも、少し分かる気がした。もともとが醜いものなんて、いくら壊しても変わりはしない。完璧なもの、整ったものを打ち砕くことのほうがより高揚感を得られる気がした。
あと5メートル……いいぞ、そのままだ。
ポイントに到達。戦慄が走る。
銃声が鳴った。3発分。すかさず、コーネルは銃を構えた。照準の先にある、少女の肢体に向かって。
目の前に、黒を生じた。何事、と感じる暇もなくコーネルの頭が横殴りに弾かれた。顎骨が砕ける音がして、脳を激しく揺さぶられた。
ぐらりと世界が歪み、足元が浮遊した。どうして、地面が近くなっているのだろう。そんな疑問を抱く。そうではなく、自分が倒れているということに気づいたときには顔を、砂利の中に突っ込んでいた。
「はろ」
と女の声がして、コーネルは頭をもたげた。標的が――ユジンがブラッククロームの警棒を引っさげて、見下ろしてきた。しくじったか、とコーネルはビルの屋上を見上げたが
「援護を期待しても無駄よ。上で伏せていた連中、今頃私の仲間が始末しているわ。頭だけになって、随分と狙いやすくなった姿になってね」
耳を疑った。上の狙撃チームは戦前、特殊部隊にいたような奴らだ。レンズの光で場所を特定されるようなヘマはしないし、第一、あそこに狙撃手が伏せていることが分かったとしてもすぐに対処できるようなところでは……
まさか。
「さっきの銃声、は……」
ふらつく頭で、考えをまとめようとする。起き上がろうとするコーネルの頭を、ユジンが踏みつけた。再びひれ伏すのを余儀なくされる。そのとき、ユジンの後ろに東洋人の少年が2人、いるのを見た。
「終りました、ユジンさん」
と、少年の1人がいった。手にはリヴォルバー拳銃を持っていて、銃口から硝煙が昇っている。もう1人の少年が、死体を引きずっていた。それがマーカスとセルゲイのものであると気づくのに、時間は要らなかった。
まさか……そんな。
「あなたの仲間、悪いけど始末させてもらったわよ。第3ブロックと第5ブロックでうろちょろしていた連中、全員。今、連絡が来たわ」
ユジンがいうのに、コーネルは肝が冷えた。
情報が、漏れていたのだ。最初からこいつらは分かっていた。複数の小隊に分かれて主用戦力を削ぐという、自分の策が。分かっていたから、狙撃手を始末し、マーカスたちが撃つより先に始末できた――しかも、銃を使っている。この銃はどうやって手に入れた……
「貴様ら……!」
いくつもの疑問符を振り払うように、コーネルがユジンの足を払いのけた。ユジンが、わずかにバランスを崩した。その隙にコーネルは飛び起きて、銃口を向けた。
右手に衝撃を受けた。ユジンの警棒が、手首を穿ったのだ。骨がくだけて鉤状に折れ、骨が肉を突き破っていた。コーネルが苦痛に歪めた、その口に鉄の物体が差し込まれ、無理やり咥えさせられた。
ユジンが自動拳銃を、コーネルの口中にねじ込んでいる。奇しくも、コーネルのものと同じベレッタ拳銃だった。喉まで圧し込まれて、げぇっという情けない音が洩れた。
「突っ込むのは得意でも、突っ込まれるのには慣れてないでしょうね。男って生き物は」
皮肉めいてユジンがいう。冷ややかな視線が突き刺さるのに、慄然とした。
「あ、が……」
待て、といおうとしたのだ。背中から首筋までが凍てつくような恐怖に晒され、生まれて初めて命乞いをしようとした。だが、銃身で口を塞がれた状態ではそれも叶わなかった。
ユジンが、引き金を引いた。
最後の瞬間、往来を行く人々の姿が網膜に焼けついた。やはり、誰もコーネルを見る者はいなかった。