第九章:15
コンクリートの壁から、入り組んだパイプを伝って至った先は下水道だった。韓留賢という少年の導きで黒服たちの手を逃れ、たどり着いた先は腐った野菜の汚水が通る道。もう嗅ぎ慣れた、といえばおかしい。か
「あんたが、真田省吾?」
と少年がいうに、ようやく省吾はそいつの顔を間近で拝む事が出来た。
「見ない顔だな」
「最近入った。韓留賢、よろしく」
と韓はいって
「どうしてあんたが、『黄龍』の支部に?」
「ん、まあ色々……お前らは?」
逆に問うと、韓は苗刀の血を拭って、鞘に納めた。
「彰がさ、『STHINGER』の奴に色々と聞きだして。ここの他にも、《南辺》のあちこちに同じような拠点があるって」
「ここ、地下じゃねえのかよ」
「地下は俺らの十八番だ、知ってるだろう」
といって、B4ほどの紙を広げた。いつか見た、成海の地下経路図だ。フラッシュライトで照らしながら実際の道を確認している。省吾はふと、ユジンの方を見た。脇腹を押さえて、前屈みになっている。省吾が手を差し伸べたが、ユジンはそっぽを向いてしまった。
「……助けなんて、要らなかったのに」
「そいつは悪かったよ。ただ」
ただ――と言いかけて、しかしそこで口ごもった。咳払いをして、一言。
「何でもねえ、まあ余計な事だったら謝る」
「いいよ、別に」
素っ気無くいう。いつぞやとは、反応が違った。何かあったのか、と訊こうともしたがどうも訊ける雰囲気ではなかった。
(取り付く島もない、か)
これ以上、何を言っても無駄か。そう思ったとき、
「あの、鎖。どうしたの?」
ユジンが、訊いてくきた。鎖、というのが万力鎖であると解するのに3秒ほどかかった。
「ああ、あれね。自分で作ってみた。ナイフじゃかさばるし、同じ投げるなら」
「……へえ」
何故かユジンは眉根を寄せて、嫌なものでもみるような目つきになった。思い出したくない過去が無理やりに想起された、といった様子で
「何か……その手のクネクネした武器ってトラウマなのよね」
「はあ?」
「いや、何でもない」
韓がやがて、こっちへ、とユジンを呼ぶ。省吾は韓に詰めよって訊いた。
「貴様ら、『黄龍』と本格的にやり合うっていうのか」
「そうなるかもな、だがあんたにゃ関係ないだろうに」
いって、韓は苗刀を担ぎ直した。その一言が、省吾と彼らを隔ているものだ、と感じた。あの時、モニターの向こうで殺された『OROCHI』の少年達を見ていたときと同様、所詮は別物という認識がある。
関係無い、お前には。お前達には。俺のすること、全て関係無い。関係無い――
そんな認識で、仲間も何も無い。扈蝶がいったことは正しくはない、俺は所詮、そういったものとは無縁に出来ているのだ。
そんな俺が、誰かと、とか。誰かを、なんて。
「省吾」
ユジンがそう呼ぶのに、顔を上げた。
「あの鎖の武器だけど。あなたには似合わないわ」
という。省吾は聞き返した。ユジンは、少しだけ声のトーンを上げた。
「あなたには、刀の方が、冴える」
そう発すると、韓留賢の後を追う。水溜りを叩く音が遠ざかり、2人の姿が見えなくなった。
己の手を見つめて、ひとりごちた。
「……刀、ねえ」
そういえば、ここんとこ握っていないな、と思う。先生と稽古していたときは、体術よりも剣術を好んでいたぐらいなのに。
落ち着きが無いな、と思う我ながら。武器のあれこれを迷ったりするのと動揺、心の内は未だ定まらない。
「支部、襲撃」
という報とともに、扈蝶が帰還した。レイチェルは煙管をくわえ、一言
「そうか」
そう、短くいう。扈蝶が帰還するより先に、既に《南辺》に置いた拠点のいくつかが攻撃を受けたことを聞いていた。万全の設備、のはずだったがそこは土地勘のある者が強いということなのだろうか。それとも、発注した業者が悪かったのだろうか。しょっちゅう手抜きするからな、《南辺》の奴らは、と思いつつ
煙を吐いた。
紫煙が、濃い影に塗りつぶされた天井に舞い上がり、霧散する。《西辺》の夜の灯は明るいが、光が強い分闇も色合いを増す。眼下に広がるネオンライトは、影を消すまでには至らない。
「あの洟垂れが、噛み付いてくるとは」
「やはり、あの時に」
鉄鬼がいうと、かもな、とレイチェルは自嘲気味に笑った。あの時、殺さないまでも腕の一本でもへし折ってやれば……いや、そうしたところで結果は同じだっただろう、と思い直す。あの男は、南を制したら西、次は北、最後は東、と成海市全部に喧嘩を売る男だ、自分が『皇帝』とやらになるために。これは、避けられない運命だったのだ。
扈蝶の肩が小刻みに震えていた。感情をぶつけることのできない、やり場の無い悲哀を全身に溜め込んでいる、ように見えた。
扈蝶とは、長い付き合いだ。レイチェルに真の忠誠を誓い、姉のように慕ってくれた扈蝶。レイチェルもまた、扈蝶に対しては単なる部下以上の情を抱いていた。妹のように、娘のように。その肩を抱き寄せてやりたいとも感じた。しかし自分は『黄龍』の長であり、目の前にいるのは部下であるという認識が、その衝動を押しとどめた。ご苦労だった、ゆっくり休め。そう言うのに、扈蝶は拝礼して部屋を後にした。
「面倒なことになったな」
扈蝶が去った後、マホガニーのデスクに手をついてため息混じりにいった。
「あんたが、『千里眼』を見逃したりするから」
皮肉を込めた声が降ってくるのに、頭をもたげた。
「口が過ぎますよ、ミスタ・ブラッド」
傍らの鉄鬼が咎めるようにいうのに、ヒューイ・ブラッドは鼻を鳴らして、嘲るようにいった。
「あの娘が、そんなに大事かい」
「部下は皆、等しくに」
レイチェルが応えると、ヒューイが一寸、眉を寄せた。明らかな嫌悪の表情を見せ、しかしそれも一瞬のことだった。
「どうだか。あんたは、特定の奴にしか良い顔しないから」
「ミスタ・ブラッド」
鉄鬼の声が険を帯び、そのまま掴みかかりそうな剣幕で詰め寄った。レイチェルが煙管で制して、
「無能な人間には厳しくしているからな、そのせいじゃないか? ヒューイ。それでもかなり、大事にしてやっていると思うぞ。“Xanadu”で失態を演じたお前を、まだここに残してやっているのだからな」
レイチェルが目を眇め、ヒューイが目を逸らした。額に汗が、浮かんでいる。
「鉄鬼」
と向き直り、
「『STHINGER』関係の被害は」
「第1ブロックで交戦したとの報告が。こちらの被害は3人。それと、《南辺》でも襲撃を」
「厄介なことだ、一度に煩いのが2匹も飛び込んで来るとはな。あの馬鹿」
とん、と煙管で灰皿を叩いた。
扈蝶のことは、今は仕舞っておく。心の、奥底へ。泣くのは全てが終ってからでも良い、やるべきことは一つ。
「《南辺》に、打って出る」
レイチェルが告げると、鉄鬼は驚いたように
「よろしいので?」
「言って分からなければ、その身に刻みつけてやるまでだ」
レイチェルは立ち上がって、ビルの灯を見据えた。鉄筋の谷間、そこから《南辺》の街を遥かに臨む。
「ヒューイ、兵を集めろ。鉄鬼は、銃を」
そう告げるのへ、鉄鬼は恭しく拝礼した。ヒューイは舌打ちして、一応わかったというように、手を上げた。
月がかかる、雲に隠れる。スモッグとネオンライトのせいで、その日の空はフィルターがかって見えた。