第九章:12
《南辺》でもこの辺は賑わっている方だ、と省吾は思う。『夜光路』に漂う香醤の匂い、裸電球の灯が路上にまで延びている。群がるのは、大抵は難民達だ。広東語に混じって朝鮮語も聞こえる。日本語はふた言と耳にしない。
道行く人間が、ちらちらとこちらを見てくるのに、省吾は睨みを利かせてやる。人が多い場所というものは、どうしても緊張してしまうものだ。後ろから刺されないかとか、遠くから狙い撃ちされないかとか、とにかく色々。意識すればそれだけ体が硬くなる、敵からも悟られる。それは分かっているが、“Xanadu”での一件があってから余計に気を使うようになった。
雑踏、喧騒、渦巻く。すれ違う人間皆の、呼吸すら読み取らんと神経を尖らせた。そうやって過剰に反応するから、殺気を隠せないのだ――あの女のようにはいかないな、と省吾は思った。
隠し武器の類は、それと悟られないように、如何に自然に振舞うかが鍵となる。それが出来るのが、先生やレイチェルのような一流で、出来ないうちは二流ということであって……いや、よそう。考えても詮の無いことだ。袖口に縫いつけた、鎖の冷たい感触を手首に覚えつつ、なるべくそれを意識の外へと追いやった。
ふと、ひしゃげた電灯を目にする。1ヶ月前の、『突撃隊』との衝突のあとがそのまま残されていた。さすがに血のあとは綺麗に洗い流されていたが。
もう、ひと月経ったというべきか。それともまだひと月、なのか。死にそうな目に遭って、生還して、住む家もなく、《南辺》を転々として。まあそれでも、生きているうちはまだ幸運だ、どうせこの街はどこに行ってもこんなんだろうよと思って――それも、「慣れ」なんだろうか。運命に絶望したのが8年前、生きていくのに精一杯だった今までの日々。いつからか、運命を受け入れることにした。抗っても無駄、だと悟った。こうなることは、時代が決めたことであって、偶々その時代に生まれてしまったことが不運だったのだと。だって、仕方ないだろう。どうやったって、運命は変わりようがない。この街に送られたのも必然、避けることなど出来ないこと。
どうしようも、ない。
『難民なんて馬鹿だよ』
レイチェルの言葉が蘇る。変わる事のない、変わろうとしない人間はそのまま朽ちるだけ、と。雪久も、ユジンも、彼らはそれでも運命に抗して生きている。なら俺は? 彼女が愚かと断じた難民たちと変わらないのか。『突撃隊』との戦いの傷痕、それを見ても何の感慨も沸かない自分は。
「真田省吾」
電灯を背にして立つのへ、脇から声がする。日本語だった。省吾は飛びのいて、袖口の分銅に指をかけるが
「待て、私だ」
その人物がいうのに、省吾は腕を下ろした。変装はしているが、声の調子で分かった。
「あんたかよ。定時連絡の時間にゃ、まだ早いぜ?」
そう言って、紫色の頭巾を被って、浮浪者風の格好をしているそいつを見た。ハンドラーは、小汚い布の下から
「こんなに近くまで迫って気づかないとは、武芸者としてどうなのかね」
「考え事してたんだよ。厭味言うために来たんなら去れ」
キッと睨みつけるも、ハンドラーは肩を竦めただけだった。
今日は、老婆の格好だった。毎度毎度、変装の技術には呆れるばかりだ。職業、年齢まで様々で、同じ格好で現れたことは一度たりともない。最初に見せた黒づくめの格好、あの時は確かに男だったのだが女に化けることもある。本当の姿は、この街に潜入している誰もが知らないだろうな――そんな事を思っていると、ハンドラーは路上に座りこんで茣蓙を広げた。なにやら、ガラクタを並べ始める、露天商のつもりらしい。
何を呑気に商売始めてんだ、といいかけた時、ハンドラーがぼそりといった。
「レイチェル・リーに会ったな」
それを聞いて、省吾は思わず身を竦めた。
「何で知っている」
「この街のことは、大抵耳に入る。あの“Xanadu”の一件も、聞き及んでいる」
そうかい、と省吾は電灯に背中を預けた。基本的に、エージェントとハンドラーが接触するときは目を合わせないことになっている。最初の数秒だけ合わせたが、それはこの男――かどうかわからないが――のせいだ。あんな風に現れるなんて。
「レイチェル・リー、『黄龍』の頭だったな。あの女と、何か話を?」
「他愛の無いことだ」
省吾がいった。スカウトされた、なんてことは特に言うべき事ではないだろう。
「この街では、『マフィア』に次ぐ勢力を誇っている、『黄龍』の長が世間話のためにお前を呼んだというわけか。『疵面の剣客』を」
「その名、どこで聞いた」
「この界隈では、そこそこ知られた名だ。もう少し、自分が有名人であることを自覚したらどうだ。そんな顔を晒したまま」
それで、さっきから視線が気になるわけだ……と思い直ってから
「これからは気をつける、その変装技でも教えてくれよ」
「お前さんにゃ、真似は出来んよ……それはともかく」
ここからが本題だ、とハンドラーは何やら、紙の包みを渡してきた。
包みを解くと、ピンボケした写真が3枚出てきた。目を通すに、どれも死体ばかりだった。頭を鈍器のようなもので潰されたり、腹を斬り裂かれて内臓を抉られていたり、原型が分からなくなるほど刻まれた死体で締めくくられる。むき出しの腸が血の池に浸っているのに、臓物の腐臭が漂う気がした。
「どう見る?」
「どう、ってどういうことだよ」
省吾が訊くと、ハンドラーはもう一度、声のトーンを落としていった。
「この2,3週間で、この街でその手の死体が大量生産されている」
「へえ」
と、省吾は写真を指で叩いた。
死体を切り刻み、あるいは叩き潰すという行為には、猟奇的な目的とは別に、犯人自らの保身を図っている場合とがある。体をいくつかのパーツに分けてしまえば、それだけ被害者も特定されにくくなる。体の部品を隠せば、それだけ捜査も難航する。だがこれは
「暇な奴もいたもんだ」
といって、
「力の制御の出来ん餓鬼が、癇癪起こして砂の城を壊して。そんな感じだな」
「まさに」
ハンドラーはそういって、煙草を咥えた。火をつける。
「ギャングの抗争で死んだものではない、明らかにこいつは死体で遊んでいる。こんな風に、なんの目的もなく刻んで」
「目撃者は?」
「写真撮るのが精一杯だ」
つまり、見たものはいない。見られることもなく、事に及んだ、と。短時間で、人間を解体できるほどの力を持つ者。そんな人間がいるのだろうか、と省吾はしばし思いを巡らせた。
「貴様らが処分した、青豹の『鉄腕』になら可能かもしれんな。こういうことも」
「力、持て余して尚且つ短時間で事に及ぶとなれば……じゃあ、やはり機械の連中が?」
まさか、と思いつつ訊いた。ハンドラーは黙って煙草を噛んでいた。やがて紫煙とともに、呟いた。
「この街に、入って来ているのかもしれんな」
背筋がささくれる思いがした。脳裏をよぎる、『先生』の胴を貫いた鉄の指。温い血の、苦味すら口中に蘇るようだった。
幻影を、払う。
「機械どもが……」
あの『鉄腕』のような戦前規格の義骸がまだ残っていないとも限らない。なんということだ、またあんな奴の相手をしなければならないのか――するとハンドラーは、
「また、あんな風に闘り合うこともない」
「どうして」
「機械の出所が分かればいい。この街に流入している、倫理的問題のある兵器。そこを探れ」
それは、元よりそのつもりではあるが。しかし
「『黄龍』というのは、白人ばかりというわけではないな。レイチェル・リー、あれはどう見ても東洋系だろう」
「そう……だな。それが?」
「どうして、有色人種が銃を携帯できると思う? 難民が反乱など起こさぬよう、武器の流れは戦勝国によって管理されているというのに」
それを訊いて、省吾は言葉に詰まる。いきなりそんなことをいわれても、返答に窮するというものだ。ハンドラーは、煙草を投げ捨てていった。
「この街の体系も、変わりつつあるのかもしれない」
それきり黙った。こいつはいつも、肝心なところをいわない……謎かけめいたことを投げかけて、省吾が返す暇も与えないのだから。省吾が問いの答えを考えていると、ハンドラーはおもむろに立ち上がった。腰を悪くした老婆の所作と同じ動きをしていた。
「真田省吾、お前『黄龍』に誘われているのだろう? その誘い、受けろ」
「はっ、ええ?」
省吾は素っ頓狂な声を上げた。ハンドラーはしんどそうに腰を曲げて、杖をついて立ち去るところだった。
振向く。頭巾の下から、しょぼくれた目が覗く。合成樹皮か、プラスチックの肌は年相応の老人の皮膚、見据える眼光ばかりが鋭い。
「『黄龍』に潜り込め、ってのか?」
「今まで『マフィア』を中心に調べていたがな、どうもあの組織は怪しい。独自の供給ラインを持っている。機械の体も、そこから流れた可能性が高い」
「……そいつは、命令か?」
短く、いった。ときにはもう、ハンドラーは姿を消していた。
「『黄龍』、か」
省吾は天を振り仰いだ。確かに、レイチェル・リーのことも気になるし、何より待遇は良さそうだ。正直いって、今の生活ではやっていけそうもなかった。成海というシステムの中で、生きていくには――少なくとも、今までの孤立主義で行き延びることなど難しい。『STHINGER』などは、比べようもないだろう。が、しかし……
そうなると、『OROCHI』と対立することになる。それは、あの“Xanadu”での一件を見れば分かった。雪久は『黄龍』と完全に対立する、姿勢を見せている。
そして、『黄龍』に入るということは
(あいつらと、対することになる)
ふと、脳裏にユジンの顔がよぎった。どうしてそこで、ユジンを思い浮かべるのか……
息を吐いた。
雑踏が、耳に入る。無秩序な靴音が、踏み荒らされる。舗装されない路上に響く。
その中で、規則正しい、訓練された足音を聞く。洗練された、一定のリズムを刻んでいた。素人ではない、それは明らかだった。
近づいて来るのに、省吾は息を飲み込んだ。
膝を、落とす。袖口に仕込んだ分銅を掴んだ。
音の方向に振向き、抜き払った。途端、袖に縫いつけた黒光りする鎖が、直径20ミリの分銅を伴って飛び出した。遠心力で加速された分銅は、リヴォルバーを持った黒服の男の顔面を叩き砕いた。
サングラスのレンズが割れて、さらに黒い血と共に飛び散った。
「また、貴様らかよ。このクズ」
男の手を踏みながら、血のこびり付いた分銅を回収する。省吾の手にあったのは、長さ1メートルほどの万力鎖だった。鉄の鎖の両端に分銅がついた護身武器だ。
顔を押さえてうずくまる男の首に、鎖をかけて締め上げる。気道と頚動脈を圧迫されて、男が呻いた。
「誰に、頼まれた」
耳元で、囁く。男は何も言うことが出来ず、泡を吹いていた。更に力を込める。
「言えよ、脳に血が行かなくなるぜ。若しくは呼吸困難、どちらが先か……」
その時
「離して貰えますか? 真田省吾さん」
女の声がした。鎖を持つ手を緩めずに、目線だけで声の方向を見やる。
視界の端に、艶やかな赤を確認する。真紅のチャイナドレス、刺繍は金の龍。茶色がかった長い髪をポニーテールにまとめていた。
「あんた、あの時の」
省吾が鎖を緩めた。白梅の香りが漂うのに、顔をしかめる。先日、レイチェルの傍にいた少女が、黒服5人を伴って立っていた。
ただ、前は丸腰だったのに対し、今日は腰に細身の刀を2本、吊っている。肩から黒ベルトで吊ったその刀は、拵えから見るに、西洋のサーベルのようだった。柄には護拳がつけられて、鞘に金箔の装飾が散りばめられている。少女の装いが中華風なだけに、どうにもアンバランスだ。
少女は「お久しぶりです」といって微笑んだ。省吾とそう変わらぬ年齢だろうに、妙に艶めいて見えた。
「いつぞやは、失礼しました」
といって拝礼する。省吾は気絶した黒服を突き飛ばした。鎖を両手に持つと、黒服たちが一斉に懐に手をやる。少女はそれを手で制して
「お迎えに上がりました、真田省吾さん」
「迎え?」
これだけの騒ぎでも、通行人は皆素知らぬ不利である。この街じゃ、普通の光景なのだ、こういうことは。
右半身に構えて、歩を詰める。少女が微笑んで
「どうぞ、こちらに」
と促した。少女が指し示した方に、黒塗りの車があった。『黄龍』の車は、どれも似たようなデザインなんだな、と思って
「俺を確保しに来たってことか」
言いながら、距離を計る。省吾と黒服たちとの間合い、約5メートル、鎖の長さは1メートルだ。
(少々、不利か)
舌打ちして
「いいだろう、乗ってやる」
省吾は鎖をポケットに納めた。どうせ、乗りかかった船だ、と。少女がニッコリと笑って、
「良かった、話の分かる方で。では、お送り致します」
「待て、その前に……」
省吾が呼び止めると、少女は不思議そうに首を傾げた。顔立ちも身なりも年齢離れした色香を漂わせているが、そうした細かい所作には子供っぽさが滲む。省吾はいった。
「あんた、名を聞いてない」