第九章:10
やってくれるぜ、と雪久は地面に伏せながら呻いた。彰は前方に目を凝らす。
撃て、と命じているのだろう。ダオの合図で、『STHINGER』の射手たちが距離を詰めてきた。
「燕は?」
彰が言うのも聞かず、雪久が飛び出した。地面に突き立った矢を引き抜き、左眼は既に臨戦体勢。赤々と、燃えている。射手達が有効射程距離まで駆け寄り、弩の射撃を開始した。
一瞬、黄土色の空に傷が刻まれた、錯覚に陥った。一斉に放たれた矢が描く軌道が、獣の爪で引っ掻いたように見えたのだ。
降りかかる、鋭角の鉄。
雪久はロング・ボウの矢を逆手に持ち、襲い掛かる矢の雨を全て弾いた。地に伏した彰の目の前に、勢いを失った矢がばらばらと零れ落ちてくる。
「やっぱり、こうでなくちゃあな」
危機感の無い声でいうと、雪久が単騎で突っ込む。射手が弩を撃つが、繰り出す矢はしかし、空を貫くばかり。それはそうだ、銃弾も見切る“千里眼”がたかだか弩の矢如き――
ごつっ、と鈍い音がする。雪久が振り上げた拳が、一番近くにいた男の顔面に叩きこまれた。宮元梁やレイチェル・リーの洗練された突きとは違う、フォームも何も無い力任せの一撃。そんな出鱈目な突きでも、体重が乗っていれば凶器となる。
一人、倒れて残りの4人が雪久に弩を向ける。一斉射出。雪久は逆手にロング・ボウの矢を持ち、空間を撫ぜた。
金属が鳴る刹那、ステンレスの矢が弾かれる。
さらに距離を詰めて前蹴り。つま先がめり込む、前歯と血が舞った。間髪入れずに後ろ回し蹴り。踵が、背後に立っていた男の鼻っ柱を打つ。
残り2人、弩を構える。
射出と同時に、雪久が跳躍する。
2本の矢が閃いて、雪久のむき出しの肩と頬に薄く傷をつけた。もちろん、計算づくなのだろう、雪久は笑っている。
空を掻く、長い脚。旋風を巻き起こした。
次を撃つ、より先に雪久の脛が手前の男の首を刈る。骨の潰れる音がした。そして、最後の一人。
急に、血の狼煙が上がった。その瞬間、最後に残った男がゆっくりと倒れこむ。引き金を引くことすら、ままならなかったようだ。
「おい、韓留賢」
突きの体勢をつくっていた雪久が、不満そうにいった。
「取るなよ、俺の獲物」
最後に残った射手は戻ってきた韓によって切り捨てられていた。背後から、一刀。剣先は肩から脇腹に抜けていた。
「や、すまない。あんたがやられると、思ったから」
韓がしどろもどろでいうのへ、
「こういうときはリーダーにお譲りするのが、うちのしきたりだ。お前は入ったばかりだから、分からんだろうが」
砂を払いながら、彰が起き上がっていった。
「基準がわからん」
そういって韓は、苗刀を空中で斜めに切って血振るい。鞘に納めた。
「そこは空気を読んでだな」
「分かるか、そんなの」
「そのうち分かるようになる」
さて、と彰が見やるに、視線の先に燕が倒れていた。玲南を庇うようにして、地に伏せている。こんな時に敵の心配か、人がいい奴だと思って
「燕」
しゃがみこんで問うのに、落ち窪んだ眼で見上げてくる。頬がこけて、骸骨のようになっていた。思わず、ぞっとする。
「おい、大丈夫か。俺の事、わかる?」
3秒ほど、虚ろな視線を漂わせていたがやがて、ああ、といって
「あ、きら、か……」
「何をされたんだ、お前。なんか死にそうになっているぞ」
「ああ、クスリ、クスリをな、ちょっと」
薬? そう訊き返すよりも先に
「邪魔だ」
頭上から声が、した。顔を上げると、雪久が射手から強奪した弩を肩に担いで立っていた。
突き刺さる冷ややかな視線。燕が、喉が収縮したような声を洩らした。
「なにイチャついてんだ、クソ野郎。敵に情報売り渡して、どの面下げて戻ってくるつもりだったんだか」
雪久はそういって弩の戦端を向けた。尖った先端を、燕の額につけて。慄く燕と、対比させつつ彰は
「雪久、今は……」
とりあえずそういって諌める。雪久は弩を下ろした。
「そうだな、今は」
といって地に伏す燕と玲南を一瞥すると、次に彼方にいるダオの姿を見た。
無様にも腰を抜かし、尻餅突いたまま後ずさって逃げようとしている。雪久が近づくと、醜悪な面を歪ませて絞め殺されそうな声で呻いている。褐色の肌が血の気を失って、染め上げたように青くなっていた。
「こいつはどういうことだよ、ハゲ」
「く、来るなっ!」
ダオはピストルタイプの弩を撃ったが、雪久は首を捻って矢を避け、同時に自らの手にあった弩を撃つ。ステンレスの矢がダオの右手を貫き、ダオは弩を落とした。
「こんなんで俺を出し抜けると思っていたんか、おめでたい奴。あのタヌキも、こんな腰抜けに俺がどうにかなるなんて本気で思っていたんかねえ」
ゆっくりと嘗め回すように睥睨し、見下す目は血の色に燃えていた。
両目に恐れの色を浮かべ、悲鳴を上げることもままならない。ただ、ヒューヒューと空気の洩れる音を喉から搾り出していた。雪久が向ける、弩の先端を見つめていた。
「頭が動かねえで下っ端ばかり動くから、下手なことしかできねえんだ。脳が足りねえ、なあ」
くくっ、と笑いが洩れた。しかし目は、笑っていない。
「た、たのむ、助けてくれ」
震える声でダオがいうのへ、雪久は首を傾げてみせた。
「命乞いかよ、しまらねえな。『STHINGER』ってのは」
まるで神の如き尊大さを以って、地に這う愚者を嘲笑う。引き金を引けば、自分の命など塵芥に帰すこと、その事実が揺るがない限りダオに残されたのは覚悟を決めるかあるいは……
「や、やめてくれ……」
どうやら、彼は赦しを乞うことを選択したようだ――彰は肩を竦めてみせた。同情するよ、あんたはその男がどういう人間か知らなさ過ぎた。戦場での無知は死を表すよ、と。
何の感慨も無く――おそらく雪久にとっては本当に大した事の無い、所作だったのだろう、いとも簡単に引き金を引いた。抜けるような音がして、ダオの右腿に矢が突き立つ。
直後に、左手
次に、脇腹
急所を外して、残りの矢を撃ちつくす。新たに刻まれるたび、断末魔の叫びを上げてダオはのた打ち回った。
「頭が動かないで、下っ端に任せるからそうなるんだ。ヨオ彰、こいつどうする?」
「新たに人質として……あの女と一緒に」
「ふうん、人質に、ねえ」
ふと、異臭が鼻を突いた。ダオのズボンの股の辺りが、じんわりと濡れている。恐怖で小便を漏らしているのだ、この男は。さすがに苦笑を禁じ得ない。雪久はあからさまに馬鹿にしたように鼻を鳴らして
「こいつを人質ってねえ、ありえねえだろう。アジトがションベンまみれだ」
「そういう問題かよ」
と彰はそういって、ちらりと雪久の顔を見た。冷たい視線、オモチャに飽きた顔をしている。この男はもう、雪久にとって興味を引くものではなくなっていた。
そして、飽きれば、捨てる。それがこいつの流儀――
「もういいや、お前」
といって、ロング・ボウの矢を振りかぶる。一瞬、ダオの目が見開かれた。彰は息を飲んだ。玲南が何かを叫ぶのを聞いた。
鋭角の鏃が喉を貫き、後頭部に達した。ややあって、ダオの口から赤黒い血が吐き出された。体が硬直したように痙攣し、目を剥いたまま息絶えた。そんなときも、やはり無感動な目をしていた。
「ちょっと、殺すのはまずいんじゃ」
「なぜ? 俺を殺そうとしたんだぜ」
矢を引き抜くと、傷口から血の筋が流れた。乾いた土に落ち、黄砂を黒っぽく染めた。
「だってこいつは『STHINGER』の幹部だよ、こんなことしたら奴らと戦争になる」
「いいんじゃねえか、それで『STHINGER』だろうが『黄龍』だろうが、どの道俺が天辺に昇るためにゃ潰さなきゃならん相手だ。おい、女」
燕の隣で事の顛末を見ていた玲南に、血のついた矢を突きつけて雪久がいった。
「お前、金に伝えな。俺を殺りたかったら、てめえが出て来いってなあ」
雪久はそういって、ダオの血がついた矢を投げつけた。玲南の足元に刺さったそれを、顎でしゃくった。持って行け、ということだろう。
「姉御も金も、俺がぶっ潰してやんよ。俺が『皇帝』になるためにな」
そういって、再び燕の方に目を向けた。燕はじっと、俯いていた。それでももう、その目には恐れはない。
覚悟を決めた、というように。