第九章:9
砂が、旋風に煽られて舞い散ると、空が山吹色に染まった。
風化した建造物、朽ちた鉄、残骸の都。オーっと唸る、慟哭じみた風は、幾千万の銃弾の埋め込まれた土地を駆ける。そこら中に廃棄された塵芥、そんな光景ばかりが広がって、虚しさに裏打ちされた荒野のみが在る。
《放棄地区》。鉄塊と怨念、兵士達の思いの残滓が打ち捨てられたかつての激戦区に、雪久たちは降り立った。
「古巣に帰った気分はどうだい、雪久」
麻の外套に身を包んで彰は訊く。砂塵を含まぬように口元を布で多い、大きめの砂粒が眼鏡に当たっては乾いた音を立てていた。ぶつかる空気は質量を持ち、容赦なく打ちつける。
「どおってことねえよ」
海からの風がこれほど強いとは、とぼやいた。遮るものが何も無い分、ひどく鬱陶しく感じられた。
雪久は目を細めた。その先に、薄く人影が映る。
「こんな所、いい所じゃねえさ。《南辺》や《西辺》みてえなとこでも、まだ活きた人間の血が流れる。ここにゃ、死の臭いしかしねえ」
「死?」
「ここに何も無い、ということ。終っちまった、その先に何も無いという気配。切った張ったやってるうちは、まだ救いはある。朽ちるものにゃ、クソ以下の価値もない。とことん、ムカつくところだ」
吹き荒ぶ風塵に紛れて毒づいた声は、やはり風音に消える。どこか捨て鉢に発せられた科白は、虚ろな言の葉を纏っている。その響きこそ、放置された街に相応しい。
「あそこに、待ってる」
韓留賢が、後ろでに縛った玲南を引き連れながらいった。言われんでも見えている、と雪久がいって
「おい、女」
雪久が、顔を近づけていった。玲南は何かを言いたげだったが、猿ぐつわを噛まされていたので唸るような声しか出ない。変わりに、刺すような視線で応じる。
「今からお前、帰してやるけど。何もせず、何も考えず、ただ黙って、歩け。いいな」
一言一言、含むようにいった。玲南はやぶ睨みに睨んでいたが、やがて気圧されたのか視線を逸らした。いいか、と雪久がいうと小さく頷いた。
「いい子だ」
皮肉っぽくいう。韓が縄を引っ張ると、玲南の手首に荒縄が食い込んでぎりぎりと軋むような音を響かせた。苦痛に顔を歪めて、それでもなお、両の目に宿った敵意は死なない。抗議するように突き刺す、切れ長の目。決して屈することは無い、という意志の強さがこめられている。痛みに堪える表情と相まって、妙に艶っぽい印象を与えた。
「少し、惜しかったかな」
などと彰がいうのに、雪久が怪訝そうに
「何が」
「ん、いや。何でも無い」
「変な奴」
やがて、砂埃の向こうに紺色の集団が集まっているのを認める。ナイロンのパーカーを着込んだ射手が5人、燕を取り囲んでいた。全員、例によって弩で武装している。相変わらず薄気味悪い連中だ、といってふと、見慣れぬ顔が混じっているのを確認した。
日に焼けた禿頭、遠目からではそれしか分からない。もっと近づけば顔貌やそいつが醸す空気に至るまで観察できるのだろうが、50メートル以上離れていてはそれも叶わない。そして、これ以上近づくわけにもいかなかった。弩は遠矢なら60メートルは届く。有効射程距離はその4分の1程度だが、用心に越したことは無い、ということで。
「よく見えねえ、おい女。あいつは誰だ?」
雪久も気づいたのか、目を細めて訊いた。玲南は苦しそうに呻くばかりで、当然返答もできるはずもない。仕方なく、彰は猿ぐつわを外してやった。
「ふはっ」
とその瞬間、玲南は息を吐いて安堵したような表情を浮かべる。が、すぐにもとのやぶ睨みを浮かべて
「ダオ」
短く発する。さらに、いった。
「うちのNo.2、だよ。一応な」
「二番手かよ、馬鹿にしやがって。金の野郎は来ねえんか」
雪久は心底おもしろくなさそうに、舌打ちした。そんな相棒の横顔を眺めつつ、彰はため息混じりに
「こういうのは下っ端任せ、ってことだろう。余裕かましてくれて」
「ムカつく」
「同感だ」
彰は紺色パーカーの射手に囲まれた燕の姿を見た。燕はぐったりと、死んだようになっていた。一人で立つこともおぼつかないのか、肩を支えられている。手酷い拷問でも受けたのだろうか、それとも
「あの野郎、敵の肩になんぞ寄りかかって。だらしねえ」
雪久の苛々は限界に達している、ようだった。昏い双眸が鋭くなって、言葉が険を帯びる。唇の端を噛んで、そこから血が滲んでいた。赤い筋がひとつ、顎に伸びているのにも気づかぬほど。怒りを、露にしている。
「戻ってきたらどうしてくれようか」
「やめろよ、いくらなんでも仲間を痛めつける気じゃないだろうな」
「あいつは情報を売ったんだ、制裁加えるのは当然だろう」
「といっても、あの様子じゃ口を割ったというより割らされたって感じで……」
その時、砂塵の向こうからダオなる男が声をかけてきた。
「『OROCHI』、だな」
しわがれた声だった。発音も怪しい。この土地の人間ではないな、と彰は思って
「金はどうしたんだ、こっちは頭が出て来ているのに」
「ボスは来ない、お前たち如きにあの方が出てくる必要などない」
とことん、上から目線だな。雪久がまた、舌打ちした。これ以上は間が持たないな、と判断して
「一斉に、人質を離す。こちらが解放したら、お前達も燕を解放しろ、いいな」
声を張り上げて、そう告げるに、ダオもまた了解の意を伝える。彰は韓留賢に、縄を切れ、と命じた。韓は苗刀を半ばまで抜き、玲南の縛めを切り離す。唐突に自由の身になった玲南は、締め付けられた手首をいつくしむようにさすった。きめ細かい肌に、くっきりと荒縄の痕が刻まれている。
「行け」
韓は苗刀を完全に抜き、玲南の背中に切っ先をつけた。玲南は忌々しそうに舌打ちするが、それでも逆らうことなく歩き出した。
向こうも同じように、燕を突き放した。よろよろと、老人みたいに杖をついて、少しずつ、近づいてくる燕の姿。その度に、遠ざかる玲南の背中。
「なあ、彰。お前、死体の臭いってどんなのか分かるか?」
10メートルほど遠ざかったとき、雪久が訊いてきた。
「何を唐突に」
「言ってみりゃ人間なんて死ねばでかい生ゴミみたいなもんだ。放っておきゃ、腐る。しかし、《南辺》みたいなところじゃ死体はそうなる前に片付けられるんだ、だから死体の腐敗臭は殆どしねえんだ、あそこじゃ。鉄臭い血の味に、集中出来る」
何を言っているのか、うまく呑み込めない。玲南の姿は、20メートル先にある。
「けどここは文字通り、放棄されたところ。死体はごろごろ転がっている。だから、死んだ臭いしかしねえ」
「そう?」
彰はそれどころではない。いつ奴らが動くか、気が気ではなくちらちらと向こうの様子を伺う。丁度、中間地点で互いの人質がすれ違った。
「そんな街で、どうして血の臭いばかりプンプン漂ってきやがる?」
「だから、さっきから何の話だよ」
「伏せろ」
といきなり雪久が、彰を突き飛ばした。突然のことに――余所見していたということもあって、彰はバランスを崩して倒れこんだ。
「何を」
する、と発したとき、銀色の閃光が帯を引くのを目の当たりにした。鋭い影、細長いフォルム、ステンレス製の矢が3メートル先のコンクリの残骸に突き立った。
「狙われていた、のか?」
気づかなかった――そのとき、また同じく矢が、今度は地面に刺さった。飛来した方向を見ると、遠くの方に紺色の人物が身の丈ほどもありそうな洋弓を構えて、次の矢を番えようとしている。弩よりは威力の低い、しかし射程は長いロング・ボウだ。
「韓!」
と雪久が叫ぶと、苗刀を右手に持って韓留賢が飛び出した。左手には、着火済みの閃光弾を携えている。射手が、弓を引く。韓が閃光弾を投げる。
火球が炸裂し、強烈な光に射手がひるんだ。その隙に韓は距離を詰め、苗刀を横薙ぎに振るった。長大な刃先が三日月の軌道を描き、弓ごと射手を斬り伏せた。